NO.6 雨宿 著 薔薇 『見守る存在』
――結婚して3年。その日、藤原雅孝が仕事帰りに花屋へ寄ったのは、そんな漠然とした理由からだ。丁寧に包装された赤い薔薇の花束を手にしたとき、藤原は自身の中に妻への愛情をはっきりと見てとれた。そして、妻の待つ家へ帰ったら、久しぶりに正面から、好きだの、愛してるだの言ってやろうと。藤原はよし、と一度大きく頷いて、赤い薔薇の花束を片手に花屋を後にした。
そんな藤原の様子を遥か遠方より窺う者達が居た。
「のう。黒亀よ。ワシはちょうど今、良いことを思いついたぞ」
白い着物を着た老人が口を開き、碁盤を挟んで向かい側に座る黒い着物を着た若者が答えた。
「ほう。それはいい。碁も飽きてきたところだしな。何を思いついたのだ、白鶴」
白鶴と呼ばれた老人は悪戯めいた表情をして、東を指差す。
「ほれ。赤い薔薇を買った男がおるじゃろう」
黒亀と呼ばれた若者は一度目を細めて東を伺い、頷いた。
「む……。おう、確かにおるな」
「あの男が大切に持っている薔薇を取り上げてやるのじゃ」
「ほう。分かったぞ白鶴、先に薔薇を手にした方が勝ちというわけだな」
「そうじゃ。やるかの?」
「やろう」
そういうことになった。
「さて。ワシが言い出したことだしの。黒亀、先手はお主に譲ろう」
「ほう。200年ほど前に似たようなことを言っては、恥をかいた者がおったな。白鶴」
「ふん。今の内に言うておれ」
「オイ兄ちゃん。いい薔薇持ってんじゃねーか。ちょっと見せてくれよ」
藤原が薔薇の花束を片手に帰途についていると、黒いシャツを着た人相の悪い男がそう言った。
「な、何ですか、あなたは?」
「ごちゃごちゃ抜かすな。そいつをよこしな」
藤原は掴みかかろうとする黒いシャツの男をすんでのところで交わして、そのまま走り出した。
「オイ!待ちやがれ!!」
「むう。相変わらず荒っぽいのう。黒亀」
「単純こそがもっとも確実で強固なのだ、白鶴よ」
「しかし。失敗したようじゃぞ、黒亀」
「ほう。思ったより足が早いなあの男。まあ早々に勝負がついてもつまらぬしな」
「では。次はワシの番じゃな」
「はあ、はあ……。今のは一体何だったんだ?」
黒いシャツの男を振り切った藤原は、橋の欄干にもたれ掛けて乱れた息を調えていると、白いワンピースを着た女の子が川辺に座り込んで泣いているのが見えた。
「どうしたんだい?」
藤原は土手を降りて女の子に話しかけると、女の子は俯いたまま川の方を指さした。ちょうど、川の中州に黄色い薔薇の花束が落ちていた。
「ぐす……今日はママの誕生日なの。ママの大好きなお花を買ったの。でも、風に飛ばされちゃって……」
藤原は手元の薔薇と、中州の薔薇を見比べた。朝方まで降り続いた雨で増水した川の流れは速い。
「ちょっと待っててね」
そう言って上着と靴を脱いだ藤原は、川へ入った。藤原は胸のあたりまで水に浸かり、何度も流されそうになりながらも、少しずつ足を進め、ついには中州へと辿りついた。そして女の子の薔薇を拾い、同じように川を渡り岸まで戻った。
「はい。次は気をつけて持つんだよ」
すぶ濡れになった藤原は女の子に薔薇を手渡した。
「なんと。なかなか気骨のある男じゃの」
「はは。負け惜しみか?白鶴」
「ふん。言うておれ。まだ勝負は始まったばかりじゃぞ」
「おう。愉しくなってきたな」
白鶴と黒亀は幾度となく藤原の薔薇を奪う為、あの手この手を試した。だが全て失敗に終わった。
「どういうことじゃ?黒亀」
「どういうことだろうな?白鶴」
何かがおかしい。白鶴と黒亀がそう思い始めると同時に、藤原は家に到着した。
「おう。家についてしまったのう、黒亀」
「おう。家についてしまったな、白鶴」
藤原が玄関のドアを開ける。出迎えはない。廊下を歩く。部屋の明かりはどこも消えている。誰も居ないリビングへ入り、灯りをつけて、棚の上の写真に言った。
「ただいま、宮子」
黒く艶のある髪を腰まで伸ばした女性が、子供のように無邪気に笑っている写真だった。
「あれから2年経ったけど、変わらず僕は宮子が好きだよ。愛してる」
藤原は薔薇の花束をそっと棚に置いた。
一方。白鶴と黒亀は口論をはじめていた。
「むう。今回は引き分けかのう、黒亀」
「うむ。そのようだな」
「ああ。しかし残念じゃ」
「ああ。あと少しで私の勝ちだったものを」
「なんと。それはワシのセリフじゃ」
そんな白鶴と黒亀の背後に、ぬらりと立つ人影があった。
「お、おい。く、黒亀!?」
「なんじゃ、白鶴。……む。ま、まさか、そういうことだったか?」
白鶴と黒亀が人影に気づき声を上げると、人影は膨れ上がるように大きくなり、白鶴と黒亀が見上げるほどになった。
「ひぃ!」
「ひぃ!」
どこか遥か遠方で、何者かの悲鳴が木霊したという。




