彼女の崩壊、俺の死
「ごめん、ごめんなさい…」
彼女は泣いていた。ただただ泣いていた。俺に、
ナイフを突きつけて。
事の発端は数時間前、彼女から電話をもらった俺は彼女の様子がいつもより少しおかしいと感じ、急いで彼女の家に向かった。
彼女の家、マンションのインターホンを鳴らしても返事がなくて、ドアノブに手をかけると、鍵はかかっていなかった。無用心だな、と思いつつドアをあけると部屋は真っ暗だった。廊下も部屋も真っ暗で物音1つしない。
少し不思議に思いつつ、リビングの扉を開けようとすると、入って、とか細い彼女の声が聞こえた。リビングに入るとやはり真っ暗で外の街灯の明かりがうっすらと部屋を照らしていた。彼女は何処に居るかはっきりはわからなくて、するとまた声が聞こえた。
「ありがとう、来てくれて」
「何言ってんだよ、当たり前だろ」
「うん」
やはりいつもと何か違う。俺はそう感じた。元々引っ込み思案で彼氏の俺にも律儀な彼女だったが、こんな事を言われたのは初めてだった。
だんだん暗闇に目が慣れてきて、部屋を見渡すと彼女はソファに体育座りになって、膝に顏を埋めて座って居た。俺はそっと彼女の隣に座り、とりあえず黙って居た。あれこれ質問するより自分から話したほうがいいだろう。
あれから何分たっただろう、彼女は一向に口を開く様子はなく、俺は仕方なく口を開いた。
「どうしたんだよ、何かあったのか?」
「……」
「…どっか具合でも悪ぃのか?」
「…ううん」
「んじゃ、どうしたんだよ、何か今日おかしくねぇか?」
「……」
「黙りか…」
駄目だ、もうお手上げ。俺も諦めて、彼女が話のを待つことにした。それからまた何十分かがたった時、不意に彼女が口を開くいた。
「…私、」
「ん、何だよ」
「…私、怖いの…」
「…怖い?」
「うん」
「…何がだよ」
「……私がこれ以上、貴方を愛してしまう事が、怖いの…」
「え、」
「だから、」
シャキーンッ
「だから、
死んで」
「は、」
言葉が出てこなかった。彼女が突然ナイフを出したからでもない、俺にナイフを突き付けたからでもない、俺は彼女の言葉に言葉が出なかった。俺をこれ以上、愛してしまう事が怖い?だから、死んで?理不尽すぎる、意味がわからない、何故、何故、どうして…
混乱する俺をよそに、彼女はゆっくり立ち上がり、一歩一歩俺に近づいてくる。ナイフを突き付けて。そりゃ、俺だって逃げるさ、少しずつ彼女と距離をとっていく。走って玄関から逃げればすむだけなのに、俺は逃げなかった。彼女の言葉の意味を知りたい、ただそれだけの事で俺は命を捨てたも同然の事をしている。
彼女の顏は下を向いていて前髪で隠れよく見えない。だけど、わずかにナイフを持つ手が震えていた。
「ごめん、ごめんなさい…」
「何で、何でなんだよ!」
「ごめんなさい、ごめんなさい…」
「ちゃんと、答えろよ!!」
そこで、彼女の足が止まった。そして彼女は震える声で呟きだした。
「貴方がどれだけ私を好きで愛してくれて、そんなこと、わかってる、わかってるの…」
「私も、貴方の事が好きで、大好きで、こんな私の事愛してくれた貴方が好きで、…けど怖いの…貴方を、これ以上、愛してしまう事が怖いの…」
顏を上げた彼女は泣いていた。大粒の涙を流して俺を見ていた。俺は彼女に言葉を返せなかった。何も言えなかった。体が動かなかった。ただ、彼女を見つめる事しか出来なかった。
「ごめん、ごめんなさい…愛してる、心の底から愛してる、
だから…
死んで…」
ドスッ
「…ぁ、ぐぁあ゛…」
次の瞬間、腹部に強烈な痛みを感じた。彼女が俺の腹にナイフを突き刺したのだ。腹からは血が溢れだし、彼女の手を赤く染めていく。俺にナイフを突き刺した彼女の肩が震えていて、彼女はずっとただ「ごめんなさい、ごめんなさい…」と泣きながら呟いていた。意識は朦朧としはじめ、視界が霞んで、血が止まらない。俺はもうろくに力も入らない手で彼女の頭を撫でていた。彼女は驚いたように涙でいっぱいの目を見開き俺を見上げた。
俺は笑っていた。いつもと何ひとつ変わらない笑顔。自分でも何で笑ったのか全くわからない。
そして、俺の意識は真っ暗な二度と光の届かないところへと落ちて行った。
意識を手放す瞬間、何となくわかった気がした。彼女をここまで苦しめたのは、紛れもない俺自信の愛だったのだと。
次の日の、マンションの部屋の中で男女2人の遺体が見つかったというニュースが流れた。男の方は、腹部からの出血多量で死亡。女の方も同じく出血多量で死亡なのだが、不思議な事に女の右手が切断されていたらしい。
右手、それは彼女が俺を刺した時、ナイフを握っていた手だった。