「君は強いから一人で大丈夫」と言った婚約者へ。護衛の契約も、一人で結び直しました
「君は強いから一人で大丈夫」と言った婚約者へ。護衛の契約も、一人で結び直しました
「悪い、今日の約束はなしにしてくれ」
待ち合わせの庭園に現れた婚約者のエドガーは、私に目を合わせずに言った。
「リリアが街道で怖い目に遭ったらしい。しばらく一人で外出するのは不安だそうだ。俺がついていくよ」
彼の隣では、幼馴染のリリアがうつむいていた。手袋の端を握りしめ、指先がかすかに震えている。
怖い思いをしたのは本当なのだろう。リリアを責めるつもりはなかった。
「でも、今日は西の領地を一緒に視察する約束でした。橋の補修について、あなたの家の方とも話をする予定で――」
「君は強いから、一人でも大丈夫だろう?」
その言葉で、私の返事は終わった。
エドガーは、いつものように私の答えを待たなかった。リリアへ手を差し出し、馬車へ促す。彼女は一度だけこちらを振り返ったが、何も言わず彼の後を追った。
庭園に残った私は、手にしていた視察の書類を閉じた。
強いから。
大丈夫だから。
その言葉を、私は何度聞いただろう。
雨の日に約束を取り消されたときも。エドガーがリリアの相談に呼び出され、私の誕生日の夕食に遅れたときも。彼が遠出の予定を決めてから、護衛の配置や道中の宿を私に相談してきたときも。
私はそのたび、仕方がないと笑った。
私なら一人でも平気だ。多少の無理はできる。自分の身くらい、自分で守れる。
そう言い続けているうちに、エドガーは私が何を望んでいるのか、尋ねなくなった。
屋敷に戻ると、私は執務室の書棚から護衛契約の書類を取り出した。
契約者はエドガーの家。費用も、彼の家が負担している。護衛隊の所属も彼の家だ。
ただし、契約には私とエドガーの二人が「警護対象者」として記されていた。遠出の際の道順、宿泊先、交代要員の手配。現場の隊長に渡す行程表を整えてきたのは、ずっと私だった。
エドガーは、護衛隊が自分の家に雇われていることは知っていた。けれど、誰がいつどこを通るのか、誰が休み、誰が交代するのかまでは知らない。
彼の遠出に間に合うよう、私が何度も夜更かしして書類を作ったことも。
「お嬢様、今夜はもうお休みになられては」
侍女のマリアが、机の上の冷めた紅茶を見て言った。
「これを済ませたらね」
「また、エドガー様の分まで?」
私は答えず、契約書をめくった。
今日まで、私は彼の婚約者として、彼の家のためにできることをしてきたつもりだった。でも、彼が私を必要としていたのは、私が何も求めずに動くからだったのかもしれない。
私は護衛隊の隊長に手紙を書いた。
護衛隊との契約そのものは、エドガーの家が続ければいい。隊員を引き抜くつもりも、これまでの行程表を持ち出すつもりもない。
ただ、私を警護対象者から外してほしい。そして、私の新しい護衛は、私自身の費用で別に契約する。
最後に、これまで私が行ってきた行程の調整役を辞めることも書き添えた。
翌朝、隊長から受領の返事が届いた。
その昼、エドガーが私の執務室へ飛び込んできた。
「護衛契約を変えたそうだな。なぜ相談しなかった?」
「私の名前を契約から外し、私個人の護衛を新たに依頼しました」
「君の家の警護は、うちが負担してきたんだぞ」
「存じています。だから、これまでの契約から隊員を引き抜いてはいません。あなたの家との契約は、今までどおり続きます」
「では、視察の行程表は? 来週の遠出の配置はどうなっている?」
「それは、私が作っていたものです。今後はあなたの家で手配してください」
エドガーは眉をひそめた。
「君が今までやってくれていたじゃないか」
「ええ。あなたが困らないようにと思って」
「だったら、今回も――」
「あなたは昨日、私に『一人でも大丈夫』と言いました」
彼の口が閉じた。
「私は、その言葉どおりにします。自分の護衛は自分で契約します。あなたの予定は、あなたが手配してください」
「そういう意味で言ったんじゃない」
「では、どういう意味だったのですか?」
彼は答えなかった。
私は責める言葉を並べるつもりはなかった。ただ、彼が何を当然と思っていたのか、私自身がもう見ないふりをしたくなかった。
「今まで私が作った行程表は、あなたの家に残してあります。契約書や隊員の連絡先も、すべて所定の場所に戻しました。これからは、ご自分でご確認ください」
「……急に辞めるなんて、無責任だ」
「婚約者として、あなたの仕事まで引き受ける約束はしていません」
エドガーは、何か言い返そうとして、結局何も言えずに出ていった。
その日の午後、私は新しい護衛官と会った。
セラと名乗った女性は、年齢より落ち着いた物腰で、契約内容を一つずつ確認してくれた。行き先を勝手に変えないこと。危険があれば理由を説明して相談すること。私が休みたいと言ったら、無理に予定を進めないこと。
「この条件で問題ありませんか?」
「はい。むしろ、そうしていただけると助かります」
セラは契約書に署名し、最後に私の予定表へ目を落とした。
「明日は西の領地へ行かれるのですね。朝から夕方まで予定が入っていますが、休憩時間がありません」
「視察なので、仕方がないと思っていました」
「休憩を入れても視察はできます。昼食を取る場所を、あらかじめ決めておきましょう」
私は、すぐに返事ができなかった。
「……ありがとうございます。そうしてもらえると嬉しいです」
翌朝、私はセラと二人で西の領地へ向かった。
道中、彼女は何度も馬車を止めた。橋の状態を確かめ、道端のぬかるみを避け、私が足を伸ばせる場所を選ぶ。予定は少し遅れたが、視察には十分間に合った。
昼食に立ち寄った宿で、私は温かいスープを口にした。朝から張りつめていた肩が、ようやく下がる。
「昨日まで、こういう休み方をしたことがありませんでした」
「休むのは、護衛の仕事にも必要です。判断が鈍ると危険ですから」
セラは淡々と言った。
その言葉に、私は少し笑った。
「私が休みたいと言っても、誰かに迷惑ではないのですね」
「休む時間も、最初から予定に入れておけば迷惑にはなりません」
当たり前のことを、私は誰にも言ってもらったことがなかった。
視察を終えて屋敷へ戻ると、玄関でエドガーが待っていた。彼の後ろには、護衛隊の隊長もいる。
「話がしたい」
「視察の報告なら、書面でお送りします」
「そうじゃない。来週の遠出のことだ。隊長から、これまでの行程表が君の作成したものだと聞いた。俺は、隊が用意していると思っていた」
「私は毎回、あなたに確認をお願いしていました」
「そうだったのか……」
隊長が静かに続けた。
「エドガー様のご旅行に必要な人員と道順は、これまでお嬢様が調整してくださいました。隊としては、ご本人が把握しているものと考えておりました」
エドガーは困惑した顔で私を見た。
「君は、そんなことまでしていたのか」
「あなたが遠出をするときに困らないように、必要だと思ったことをしていただけです」
「なぜ言わなかった?」
「何度かお伝えしました。あなたは『助かるよ』と言って、そのまま次の予定を決めていました」
彼は俯いた。
「すまない」
その言葉を聞いても、胸のつかえは消えなかった。謝罪が遅かったからではない。私はもう、謝られたら元に戻るのだと思いたくなかった。
「私は、あなたにとって便利な婚約者でいたかったわけではありません」
エドガーが顔を上げる。
「約束を守ってほしかった。私の予定も、私が大切にしていることも、あなたに同じように大切にしてほしかった。けれど、私はいつも『強いから大丈夫』で済まされました」
「リリアのことは、本当に怖がっていたから……」
「彼女を助けたことを責めているのではありません。あなたが彼女を選んだとき、私のことは大丈夫だと決めつけたことを言っています」
エドガーは何も言わなかった。
私は彼の家から届いていた婚約誓約書を、机の上に置いた。
「婚約を解消したいと思っています」
「待ってくれ。もう一度やり直せないか。これからは、君の仕事もちゃんと――」
「私の仕事は、あなたに評価してもらうために続けるものではありません」
「では、俺に何をすればいい?」
「何かをして埋め合わせるより、これからはご自分のことを、ご自分で引き受けてください」
声にした途端、胸の奥にあった重さが少しだけほどけた。
エドガーはすぐには頷かなかった。けれど、やがて誓約書を手に取り、解消の手続きに応じると言った。
数日後、婚約は正式に解消された。
私は父から受け継いだ領地へ戻り、護衛の契約を一年ごとに見直すことにした。行程表は自分の予定だけを記し、休憩の時間も最初から入れる。護衛隊の隊長には、必要な情報を共有する。仕事を抱え込むのではなく、誰が何を担うのかを一緒に決めるためだ。
セラは契約の更新日に、次の一年も私を護衛したいと言った。
「あなたの希望を聞きながら仕事を組み立てられるのは、私にも合っています」
「では、来年もお願いします。休みの日には、あなたもちゃんと休んでくださいね」
彼女は少し驚いて、それから笑った。
新しい屋敷の庭には、朝露をまとった白い花が咲いている。私はその花を見ながら、セラと並んで朝食の席についた。
「今日は視察の予定はありません。ゆっくり食べましょう」
「承知しました。午後も休みにしてあります」
私は温かいパンを手に取った。
一人で護衛の契約を結び直した。
けれど、それは誰にも頼らず生きると決めたという意味ではない。自分の望みを伝え、信頼できる人と役割を分け、疲れたときには休む。そういう暮らしを、今度は自分で選んでいく。
もう、「強いから大丈夫」と自分に言い聞かせなくていい。




