第8話 小さなヒビから目を逸らす
リス園の後は、寄り道をして帰ることにした。
案内図によると、坂の途中にある小道を行った先には小さな東屋や橋があるらしい。そこに寄ってからでも帰ることができるようになっているみたいで、ただ元来た道を帰るのも味気ないと思った僕たちは、せっかくだからそっちの道を使って帰ることにした。
「おぉー和風な橋なんだね。なんだか小さい京都みたい」
「でも見応えはないね。秋になると紅葉で綺麗になるらしいんだけど」
「そう? 十分綺麗な景色じゃない?」
僕たちは池の岸にある東屋に置かれたベンチに座って、ぼんやりとその景色を眺める。
てっきり鈴夏は絵を描くつもりなのだと思っていたが、なかなかスケッチブックを取り出そうとしない。何か考えているみたいなので、やはり何か物足りないのかもしれない。
「そうだ! 英雄、あの橋の上に立ってくれない?多分それでもっと良くなるはず」
「立ってるだけでいいの? なにかポーズとかは?」
「大丈夫。立って、こっちを見てるだけでいいよ」
鈴夏がそう言うならと、僕は橋の上へ向かった。
それにしても、なんだか懐かしい。彼女初めに会ったときも、こうして立たされたのだ。つい先日のことなのに、ずいぶん前のことに思える。
橋の上に立ち鈴夏の方を見ると、彼女は親指を立ててオーケーサインを送ってくると、すぐに絵を描き始めた。これでいいらしい。
そのまましばらくそうしていた。橋の上に立って気が付いたが、東屋の方が橋よりも高い位置にあるため、僕の位置から鈴夏を見るためには、少し見上げなくちゃいけなかった。
橋の上で彼女を見上げる僕。
岸にある東屋で絵を描く彼女。
二人の間には池があって、なんでもない距離のはずなのにずいぶんと遠く感じる。
立ってる場所が違うから、当たり前か。
ふと、池の水面を見た。うっすらと自分の顔が映っている。
なんて悲しそうな顔をしているんだろう。そう、他人事のように思った。
ダメだな。彼女にこんなやつは描かせられない。
無理やり笑顔を作り、上手く笑えてるか水面で確認する。三パターンくらい練習して、そろそろいいだろうと思い始めた、そのとき。
「―――やめてくださいっ! 返してっ!」
鈴夏の悲鳴に近い叫び声が聞こえた。驚いて顔をあげる。
「――――は?」
だれだあいつは。
顔をあげて一番初めに思ったのはそれだ。
知らない男が、鈴夏のスケッチブックを奪い取って、食い入るように、というか最早顔面をこすりつけるようにそれを見ている。
鈴夏は男からスケッチブックを取り返そうと、必死に手を伸ばしているが、背の低い鈴夏はそれを取り返すことはできない。さながら、おもちゃを奪われた兄と妹のようだ。
「いやいやいや。そんなこと考えてる場合じゃないだろ……!」
僕はすぐに走り出し、東屋へと向かう。直線で向かえないのがとても口惜しかった。
東屋へ行くのに数秒かかった。その間も、鈴夏は悲痛な表情を浮かべながらもスケッチブックを取り返そうとしていた。
「おいアンタ! 今すぐそれをその子に返せ!」
「はぁ? 誰ですかお前は。私がこの素晴らしい絵を見るのを邪魔しないでもらえます?」
気色の悪い男だと思った。外見は細身ではあるが、スーツを着ているからかスラっとしているように見えて、どこか紳士的な雰囲気のある大人なのに、態度は子供じみている。言葉遣いもどこかおかしい。
全体的に歪なやつだった。
「英雄! 助けて! この人、急にわたしのスケッチブックを……」
「鈴夏は離れてて。すぐに取り返す!」
とにかく、まずは男からスケッチブックを引き離そうと、男の顔面に手を伸ばす。
「ちょっとちょっと。乱暴はやめてね。返しますって。ひどいなぁ。見てただけじゃないの」
すると、僕の手が顔面を掴むより先に、男はスケッチブックを鈴夏に押し付けるように返してきた。
そのときの男は彼女に対して、妙に馴れ馴れしい笑みをしていたのが気になった。
すぐに僕は鈴夏の前に立ちふさがるようにして、そいつを思い切り睨んだ。
「そう睨まないで。私はそっちのお嬢さんと話したいだけなの」
「……じゃあ、どうしてスケッチブックを奪ったんだ」
「そりゃ、その絵が素敵だったからよ。あぁっ、男の子の後ろで隠れているお嬢さん。そんなに怯えないで。私はあなたのお仲間なの。ほらこれ、名刺」
男が差し出してきた名刺を、僕が奪うように受け取る。
『評論家 森田安茂』
名刺には荘厳な文字でそう書かれていた。
「私は怪しい者じゃないの。ただ、あなたと同じ、真の芸術を愛する一人の人間。お嬢さん、よければお名前を教えてくれないかい?」
もちろん鈴夏は名乗らない。こんな怪しいやつに名前なんて教えるわけにはいかない。
「あぁ残念! でもいいもんね。鈴夏ちゃんっていうんでしょ。さっきその男の子がそう呼んでたもんね。よろしくねぇ鈴夏ちゃん」
「ひっ……」
鈴夏が怯えている。僕の服をぎゅっと力強くつかんでいるのがわかる。
だが仕方ない。なんてったってこの男、ものすごく気持ち悪い。
なんなんだこいつ。なんというか、一切悪意が感じられない。鈴夏を怖がらせようとかそういう悪い気持ちが一切ないのか、ずっと一方的に明るく話しかけてくる。
「いやぁびっくりよ! まさかこんなところで至高の作品に出会えるなんて。安心してね、鈴夏ちゃん。あなたの活動は、私がキチンと役立てて見せるので」
「これ以上喋るな。この子に近づくな。今すぐ帰れ……!」
全力で敵意を剝き出しにして、犬が唸るように言ったつもりだった。
けれど、男は僕のことなんてまったく気にしてない様子で、鈴夏のことを見て笑っていた。
「そうねぇ。今日は帰らせてもらうわ。やることが出来たもの。じゃあね、鈴夏ちゃん。また会いましょう。ふふふっ、忙しくなるよぉ!」
そう言い残すと、男はスキップをしながら立ち去った。
最後まで、気持ちの悪いやつだった。
「……鈴夏。ごめん、助けるのが遅れた。大丈夫だった?」
「……うん。ありがとう、心配してくれて。でも、わたしは大丈夫だよ!」
にっこりと、平気なように笑った。よかった。思ったより大丈夫そうだ。
「……そろそろ帰ろうか。もう四時になる」
「わっ。もうそんな時間なんだ。あっという間だったね」
「……ねぇ。本当に大丈夫だよね?」
あんなことがあったのに、鈴夏はもういつもの調子を取り戻していた。それどころか、不安なそぶりを一切見せていない。
それに少し違和感を覚えた。
「もー……大丈夫だってば。わたし、あれくらいじゃなんてことないよ。……もしかして、英雄は怖かったの? じゃあ、手でも繋ごうか?」
「全然大丈夫そうだね。あと、僕は怖がってないので手は繋がなくていいよ」
「……え。あぁ、そっか……」
冗談を言えるくらいには無事みたいだ。思っていたよりも、鈴夏は強い女の子だったらしい。
確かに、鈴夏みたいな特別な人が、あんなよくわからないやつに負けるわけないな、と勝手に納得した。
なら、下手に心配すると鬱陶しいだろう。
でも、最後に一言だけ。
「もし次あいつと会っても、僕が必ず守るから」
「……わかった。それなら、安心だね。絶対守ってね!」
それでこの話は終わりにした。後は楽しい話をして、僕も鈴夏もいつもみたいに笑いあって、加茂山公園を後にした。あいつの名刺は適当なゴミ箱に捨てた。
***
電車に揺られて家路につく。相変わらず夏の日は長い。もうそろそろ五時だというのに、夕日はまだ姿を見せない。
「そういえばさ。今日わたしが描いた二枚のうち、君はどっちの方が好きだった?」
「どっちって、どっちもじゃダメなの?」
「それも嬉しいけどぉ……やっぱり作者としては、どういう絵が好まれるのか知っておきたいというか……」
鈴夏の絵なんだから、他人の好みなんて考えないで自由に描けばいいのに。それが一番彼女の良さを出せる気がしたが、まぁ知りたいというならちゃんと答えよう。それに、僕の好みを知ってもらうのは単純に嬉しいことでもある。
僕は腕を組んでじっくり悩んだ。
「そうだなぁ……どちらかといえば、一枚目の噴水の絵の方が好きだよ」
「へっ⁉ へぇー……そっちなんだ。ちなみに、決め手は?」
「こっちの方が鈴夏らしいかなって。色合いとか、画風とか。あぁでも、もちろん二枚目も好きだけどね」
「そうなんだ…! なら、今度はそういう絵を描くね。楽しみにしてて!」
鈴夏は「えへへ」といった感じの緩い笑みを浮かべていた。まだ僕が見たことのなかった笑みだ。
つい、じーっと見てしまう。
「…どしたの? じっと見てるけど。……もしかして、わたし今変な顔してた⁉」
「いや、そうじゃないよ。また鈴夏のことを知れたなって思ってただけ」
何気なくそう思った。だから、それを聞いた彼女がこんな風に笑うなんて思ってなかった。
「――そうなんだ。うれしい。君はまた、わたしのことを知ろうとしてくれたんだ」
その鈴夏の笑みを見るのは二度目だった。
彼女が一番うれしそうに見える笑い方。あの満開の笑み。
僕が一番好きな笑い方だった。
***
そんな時間も電車を降りればもうすぐ終わる。
「それじゃあ、またね!」
駅を出てすぐ、鈴夏は連絡通路を伝って線路の向こう側へ渡ろうとする。彼女の家は向こう側にあるのだから、ここで別れるのは自然なことだった。
でも、僕はそれが、どうしようもなく物寂しく感じて仕方なかった。
だって、先週はあんなに名残惜しそうにしていたじゃないか。帰り際に「楽しかった」と言ってくれたのに。今日はまだ言ってもらえてない。
一歩、一歩と遠ざかっていく。連絡通路の階段を登って行き、あと数歩で姿が見えなくなる。
だから、言った。
「あのさ! 今日! 楽しかったから! また、一緒にどこかに行こう!」
階段の上にいる鈴夏に聞こえるように、少し大きな声で、僕は溢れる気持ちの一端を伝えた。
彼女は顔を振り向かせて、いつもの垂れ目を丸くして驚いていた。
「―――もー……ずるいなぁ……そんなの」
小さくそう呟くのが聞こえた。
そして彼女は、「よし」と意気込むと、一歩、また一歩と、ゆっくり階段を下りてきた。
「電車の中で、君が一枚目の絵を好きって言ったとき、またあの匂いがしたの。甘くて酸っぱいカルピスの匂い。それが、わたしの心を満たしていった」
僕は階段の下から鈴夏を見上げる。僕との差があと五段のところで、彼女は立ち止まった。
「その匂いを感じるとね。心臓がドキドキして、体が熱くなる。バレないようにするの、結構大変だったんだから」
僕だって、今ドキドキしている。
心臓の鼓動がうるさいくらいに聞こえてくる。
心の中で、嬉しさとやるせなさが背中合わせで立っているのがわかる。
「しかも、それだけじゃないの。その匂いだけじゃなくて、君からは夏の雨の匂いがする。君がわたしを知ろうとしてくれるたびに、この匂いがわたしを包み込んでくれる。それが、すっごく、すっっごく嬉しかった!」
鈴夏は一度大きく息を吸って、そしてとびきりの笑顔と共に。
「だから、わたしは君が好きです!」
綺麗な想いを伝えてきた。
こうなったら、僕だって答えを出すしかない。もう、いつまでも分からないフリをして、夢を見続けることは、できない。
「―――僕は」
「ちょ、ちょっと待って! 今はダメ!」
と、言おうとしたら止められた。
「返事は、また今度聞かせて! 今聞いたらおかしくなっちゃう!」
そう悶えると、鈴夏は逃げるように階段を上がって行ってしまった。
最後、姿が見えなくなる直前。
「来週! 美術室で待ってるから!」
と言い残し、走り去った。
階段の手前に、一人残された僕。
もう誰もいなくなった階段の先を見て、ポツンと独り言のように尋ねた。
「僕は……どうすればいいんだろうなぁ……」
誰も、答えは教えてくれない。
六月二十日。今年の夏は暑すぎて、眠り続けることもできないらしい。
第二章はこれでおしまいです。
第三章の前に間章があるので、そっちも絶対見てね!




