最終話 夏の匂い
「鈴夏!」
家に帰ってくると、勢いよくリビングに飛び込む。
鈴夏は机でせっせと課題をしている最中だった。
「うわ。どしたの?そんな汗だくで」
「見せたいものがある!一緒に来て!」
「見せたいもの……?」
「あぁ!見つけたんだ!ついに、見つけたんだ!」
息を切らしながら、興奮冷めやらぬまま伝える。
「―――――そっか。じゃあ、行こっか!」
そんな僕とは反対に、鈴夏は意外にも落ち着いた様子で立ち上がった。
まるで、こうなることがわかってたみたいだ。
そして、僕らは、言葉を交わさずに、ただ手を繋いで歩く。
その手は力強く握られていた。
公園の入り口に立つと、芝生の草原をゆっくりと歩いて行った。
園内の時計は、まだ一時を示している。
「……えっと、ここ、公園じゃない?」
「大丈夫。ここにあるから」
鈴夏は少し不安そうにしていた。
だが、それも丘を越えれば無くなる。音が聞こえ出したからだ。
「―――あ」
その音に気が付くと、鈴夏の歩く速度が速くなった。僕を引っ張るように、先へ先へと歩いて行く。
ようやく、小さな滝が見えた。
僕たちは、その前で立ち止まる。
「―――……なんか、思ってたのと違ったかも」
「子供のころの思い出なんて、そんなものだよ」
「……うん。でもね。まったく覚えてないけど、ここの芝生に座っていた気がするの。そこからは、山が見えて、子供たちが見えて、大きな滝が見えて。それで、あの、とびきりいい匂いがしてね……」
「うん」
鈴夏は、芝生の上に座る。座って、大きく深呼吸をした。
「どう? いい匂い、する?」
彼女の顔は、見えなかった。横に立って、噴水を見ていたからだ。
「……ううん」
「……そっか」
結局、彼女の匂いは、取り戻せなかった。
取り戻せなかったけれど、僕たちは同じ景色を見ている。
この、綺麗な世界の、一枚を。
「もう、なんにも、匂わないよ……!」
「――そっか」
この世界は、やっぱり綺麗だと思った。
夏の鈴の音がした。
***
「……鈴夏。今、返事してもいいかな」
しばらくして、僕は少し緊張した声色で言った。一度深呼吸をしたのに、まったく緊張が解けない。
「……ダメ。ここじゃ、ヤダ」
「じゃあ、どこならいいの?」
僕は、ここでするのが一番いいと思ったのだけれど。
鈴夏は芝生から立ち上がると、公園の出口の方へ歩き出した。僕を置いて。
「それは、ずいぶん前に言ったよ」
「……そうだったね」
歩いていく彼女のニマっと笑う横顔が見えた。
「十分くらいしたら、追いかけてきて。でも、走っちゃダメだよ。歩いて来てね」
「わかった」
歩いて行く彼女を見送ると、僕はスマホのタイマーで十分を計り始めた。
待ち遠しい。たった十分が、ずいぶん長く感じられた。
あと、九分……八分……。
六分……四分……。
二分……一分……三十秒……。
……ピピピ、とスマホが鳴った。
時間だ。行こう。
美術室で、彼女が待っている。
***
気が付けば、走っていた。
歩いて行くなんて無理だ! 一秒でも速く、鈴夏の所へ行きたい!
そんな思いが、僕を走らせていた。
「うわっ!」
何もないところで転んだ。
痛い。痛いけど、それが嬉しかった。
すぐに立ち上がって、また走り出した。
走って、走って、走っていたら、学校に着くのはあっという間だった。
夏休みでも、校門は開いていた。
靴箱で上履きに履き替え、誰もいない校舎を走る。
階段を上がれば、もうすぐそこだ。
「はぁっ……はぁっ……」
息を整えて、汗を拭いて、大きく深呼吸をする。
扉のすぐ先には、きっと彼女が待っている。
コンコンと、ノックをした。
返事はない。引き戸を開けた。やけに軽かった。
「―――もー……歩いて来てって言ったのに」
彼女が待っていた。いつもの席で、今日はキャンバスも置かずに、ただこちらだけを見て座っていた。
僕は、一歩、一歩と近づいて行く。
不思議と、蝉の声だけが聞こえていた。
「……それじゃあ、聞かせてくれる?」
正面に立つと、彼女が聞いてきた。
僕は、はっきりと答えた。
「君のことが好きです。ずっと、一緒に居たい」
そして、彼女は、あの満開の花のように笑って言った。
「はいっ! もちろん!」
八月十五日。
まだまだ夏の猛暑は収まる気配がない。そんな、夏の日だった。
おしまい!
なお、続く終章は二人のこれからを描いたものです。本編ではないため、人によっては蛇足に感じるかもしれません。二人のこれからを自分で想像したいよって方は、申し訳ありませんが受け入れてください。




