第17話 灯台下暗し
そんなある日。
この日はお父さんも仕事が休みで、今は四人で昼食を取っていた。
最近は、この家で食事を頂くのが当たり前になって来て、もう僕用の箸や皿などが用意されているくらいだ。それが普通になるほどにはこの家に馴染んでいた。
今日のメニューはオムレツ。ちなみに、僕のよりも鈴夏のものの方が大きい。最近の鈴夏はよく食べるのだ。
曰く、「おいしいんだからしょうがないじゃん!」とのこと。
しかも、これでいて食後はアイスを食べる。
そのため、この家の冷凍庫には買い貯めたアイスがいっぱい詰まっている。
「あれ…?お母さーん。アイス無いよー?」
オムレツを食べ終えた鈴夏が、冷蔵庫を漁りながら聞いていた。
「あぁ。アイスなら昨日お父さんが食べちゃったわよ」
「えー……お父さん、食べちゃったのかぁ……」
しょんぼりしている。
この間見たときはまだ結構あったのに、もう無くなっていたのか。
毎日食べてたらあっという間なんだなぁと、しみじみと思った。
「はは。ごめんよ。代わりに今から買って来るから、そう落ち込まないでおくれ」
「ほんと? なら、わたしも行くよ」
「いや、鈴夏は待っていなさい。その代わりと言ってはなんだが、英雄くん、一緒に来てくれないかな?」
「え? 僕ですか?」
突然のご指名に少し驚いた。
「なに。沢山買ってくるつもりだから、男手が欲しいだけだよ」
「あぁ、確かに。わかりました。行きます」
どれだけ買うつもりなんだろうか。なんて思いながら、僕はお父さんと一緒に買い出しに出掛けた。
***
お父さんは、とても穏やかな人だ。
この人が怒るところが想像できないほど、普段からニコニコしていて物腰が柔らかい。最近は、この人がいるとどこか安心感を覚えていた。
だから、そんな人が今、僕の目の前でため息をついているのが意外だった。
「あの……どうかしましたか?」
「いやぁ。ちょっとね、悩んでいることがあるんだよ。実は、君についてきてもらったのはそれを相談したかったからなんだ。ちょっと、聞いてもらってもいいかい?」
そうだったのか。まったくわからなかった。
この人が僕に相談って、一体何のことなのだろう。
「もちろんです。力になれるといいですけど……」
「それは大丈夫。君の考えが聞きたかったんだよ」
そうして、お父さんは話し始めた。
「……実は、少し前にある手紙が届いてね。その差出人が、森田安茂という人だったんだが、君はこの名前を知っているかな?」
「……もちろんです」
森田安茂。あの評論家の男の名前だ。
ずいぶん前に、僕たちが戦って勝ったはずのあの男。
まさか、性懲りもなくまだ鈴夏に関わるつもりなのか。
「それで、手紙にはなんて?」
「……謝罪文だったよ。丁寧な字で、紙一枚びっしりと書かれていた」
それを聞いて、ほっと息を吐いた。
「悩んでいるのはそれのことでね。この手紙を、あの子に見せるべきかどうか。君の考えが聞きたい」
僕は即答する。
「見せたくないです。僕たちにはもう関係ないことなので」
それを聞いて、お父さんは穏やかに微笑んだ。
多分、この人も見せたくないと思っていたんだろうなと、勝手な推測を立てた。
「……では、あの手紙は捨てておこう。……ありがとう。おかげでスッキリしたよ」
「はは。よかったです」
そして、ほんの少しの間、僕とお父さんは無言で歩いた。
ふと、風鈴の音が聞こえた。近くの家で吊るしてあるのかもしれない。
「―――英雄くん、風鈴の音は好きかい?」
「はい。好きですよ」
僕が一番好きな季節は夏だ。
風鈴の音を聞いていると、そんな夏を感じることができる。
だから、風鈴の音も好きだ。
今、そう思った。
「そうか。私もあの音が好きなんだ。同じだね」
そして、また無言で歩く。
そのうち、スーパーの看板が見えた。このまままっすぐ歩いて行けば、スーパーに着く。大量にアイスを買うなら、目的地はあそこだろう。
なのに、お父さんは道を曲がった。そこはちょっと大きめの公園だ。もちろんアイスなんて売ってない。
「あの、スーパー、行かないんですか?」
不思議に思って聞いてみる。
「いや、スーパーはもう少し後で行こうかな。その前に、君に見せたいものがあってね」
「見せたいもの、ですか?」
「まぁ、ついたら教えるよ」
そう言って、公園の中を歩いて行く。
よくわからなかったが、僕も後に続いた。
***
この公園には、以前一度来たことがある。ここは、だいぶ前に景色を探しに来て、やっぱりここではないと判断した場所だ。
滝はないし、あるのは何本か木が生えた丘と渓流のイメージとはかけ離れた小川。
一応鈴夏にも確認はしてもらったが「もうちょっと山っぽかったはず」と否定されている。
そんな公園で、お父さんは僕に何を見せたいのだろうか。
そう疑問に思いながら、芝生の広場を抜けて、丘の上を歩いた。
「――――この音……」
ふと、水が落ちる音がした。
前回は聞かなかったはずの、水が落ちる音。
なんで、と逸る気持ちを抑えて、お父さんの後ろを歩く。
どんどんと、その音は大きくなっていった。
「この間、あの子から君がここを探していることを聞いたんだ」
丘を下ると、それは見えた。
音の正体は、噴水だ。
小さな、滝みたいな噴水だった。
「な、なんで……? 前は水なんて出てなかったのに……」
「ここの噴水はね。十時から十四時の間しか稼働しないんだよ。きっと以前英雄くんが来たのは、それ以外の時間だったんだろう」
言われて、僕は前回何時に来たのかを思い出す。
前回ここに来たのは………ちょうど十八時だ。家路が聞こえてきたから間違いない。
あぁ。そうなのか。こんな近くにあったんだ。
「実を言うと、この場所は隠しておきたかったんだ。ここは、あの子が期待していた山の中ではないからね。あの子の特別な思い出を壊すまいと、長いこと秘密にしていたんだ」
噴水の前で、お父さんは止まる。僕も、その滝の前に立った。
「今にして思うと、ここは私にとっても特別な場所だったのかもしれないね。ここを独り占めしたいという醜い独占欲が、私にはあったのかもしれない。だが……」
僕の肩にぽんと、お父さんが手を置いてくる。
「私は、君の頑張りに報いたいと思った。だから、私が差し出せる中で最も特別なものを、君に差し出そうと思う。娘を救ってくれて、本当にありがとう」
これは、ご褒美なんだろうか。
頑張って、期待に応えた僕への。
なら、ある意味で僕の力で見つけたと言えるのかもしれない。そう思っておこう。
「……いや、でも待ってください。鈴夏は、電車でどこかの町まで行ったと……」
お父さんは不思議そうに首を傾げた後、「ははは」と笑った。
「それはあの子の勘違いだね。あの日は、確かに電車には乗ったけど、結局どこにも行かずに帰ってきたんだよ。きっと電車に乗るという思い出だけが残っていたから、移動したと思ったんだろう」
「それって、どういう……?」
電車に乗って、どこの駅にも降りずに引き返して帰ってきた。
それは分かる。けれど理由がわからなかった。
「……その頃の私は記者をやっていてね。ゴシップ記者だった。毎日スキャンダルを求めて必死に走り回っていたよ。あの日も、あるスクープを撮りに行くつもりで出掛けようとした」
それは知らなかったが、代わりに以前鈴夏が言っていたことが思い出される。
「確か、そこに鈴夏がついてきたんですよね?」
「……そう。いやぁ。あのときは本当に困ったよ。娘を連れて取材なんてできるわけないからね。とはいえ、置いて行くこともできなかった。もしそうしたら、泣かれてしまいそうだったからね。だから、仕方なく連れて行ったんだ」
そして、二人は電車に乗って、別の町に行った。今まではそうだと思っていた。
「そして、電車に乗っていたらね。突然鈴夏に、窓の外を見ろと言われてね。見たら、青田が広がっていた。それを、あの子は綺麗だと言ってきたんだ」
そういえば、電車の中でもワクワクするとか言っていた。
そのときも、あれと同じようなことを言ったのだろう。
「その言葉を聞いて、私は、自分の世界と目の前の青田を比べてしまった。そして、今の自分が物凄く汚い存在だと気が付いたんだ」
「それは、記者という職業のせいで、ですか……?」
僕がゴシップ記者に抱いているイメージはそういうものだ。他人の人生を貶めて金を得るという汚い大人のイメージ。
だから、この人が記者だったと言うのは、どうにも信じられなかった。
「いいや。仕事には、誇りをもって働いていたよ。悪を許さないという、ちょっとした正義感だ。……私が汚いと思ったのは、この世界の方だ。仕事を通して、世界は悪意に満ちていることを知ってしまった。そして、自分もまた、その世界の一員なのだと知ったんだ」
「だから、引き返したんですね」
「引き返すというより、逃げ出した、の方が正しいね。取材を中止して、すぐに綺麗な世界に行きたかった。そう思ったら、いつの間にかこの公園に来ていたんだ。多分、子供のころに戻りたいとでも思っていたんだろうね。ここは、私もよく遊んでいた場所だったから」
ふと、子供たちが鬼ごっこをして遊んでいる姿が見えた。
沢山の子供たちが、芝生の上を元気よく走りまわって、夢中になって遊んでいた。
「久々に公園の景色を見て、鈴夏がいい匂いがすると言っているのを聞いて、もっとこういう景色を知りたいと思ったんだ。だから、記者の仕事は辞めて、今の観光課の仕事に就いた」
それが、なかなか過去を話したがらないはずのお父さんが、僕に話してくれた過去の話だった。
最後に「だが、私が自分の生きてる世界が綺麗だと思えたのは、それからずいぶん先のことだったけどね」と言って締めくくると、僕の肩から手を離し、今度は優しく背中を押した。
そして、僕に満開の笑みを向けてくる。親子そっくりな笑い方だった。
「それじゃあ、あの子のこと、よろしく頼んだよ」
「―――はい!」
はっきりと答えて、僕は夏の中を走り出した。




