第16話 日常
翌日、昨日のことでちょっと悩んだけれど、いつも通り蝶名林家に行くことにした。
家に着くと、今日はお母さんが出迎えてくれた。何も知らないのか、いつも通り僕が来たことを歓迎してくれた。
やっぱり、昨日のあれは夢だったんだろうか。
そう思ってリビングに行き、いつもの席に座る。
昨日のことは忘れて、今日は課題を進めようと思っていた。
「英雄くん。今、ちょっといいかしら?」
机の上にワークを広げようとしたら、珍しくお母さんが僕の正面の席に座って話しかけてきた。
「なんでしょう?」
「ちゃんと私も、鈴夏のことでお礼を言っておこうと思って」
と、深々と頭を下げてきた。
「いや、大丈夫ですって! もうお礼はお父さんから十分言われてますから!」
流石に、好きな人の親に頭を下げさせるのは嬉しさよりも申し訳なさが勝つ。
「ううん。下げさせて。今までのことだけじゃないのよ。私が貴方に感謝しているのは、それだけじゃないの」
「わかりましたから! なんでもいいから頭をあげてください!」
そこまで言って、ようやく頭をあげてくれる。
それで気が付いたが、その目からはポロポロと涙が零れていた。
「……鈴夏ね、今日はまだ寝てるのよ。昨日は夕食前に寝ていたのに、まだ寝れているのよ。あの子、今まで全然寝れなくて苦しんでいたのに、今日は本当にとても幸せそうな寝顔をしてぐっすり眠っているの。きっと、貴方のおかげなのよね」
鈴夏が眠れていないという話は、以前お父さんと話したときに聞いていた。
なんとかしたいとは思っていたが、もしかして、昨日のアレでなんとかなったのだろうか。
だったらいいな、とは思うが、やっぱり思い出すと体が熱くなってしまう。
「そうだったら、僕も嬉しいです……」
「実を言うとね。鈴夏から貴方のことを聞いたとき、少し不安だったの」
「マジですか」
「だって、貴方も男の子じゃない? 鈴夏が男の子に人気があるのは知っていたから、もしかしたら貴方もそういう下心があって鈴夏に近づいていたんじゃないかって」
こう言ってもらっておいてなんだが、下心はあったと思う。
彼女に期待されたいって思っているのは間違いないし、彼女を救いたいという純粋な思い以外の思惑は、多かれ少なかれあったはずなのだ。
だから、ちょっと気まずい。
「でも、今はそれでもいいと思ってるわ」
「え? いいんですか?」
「だって貴方、鈴夏のこと大好きでしょ?」
「……改めて言われると照れますね」
やっぱりバレてたか。まぁ、それが鈴夏に伝わるように動いていたのだから、僕たちを一番近くで見ていたこの人にバレないはずもないか。
最近のお母さんから感じる満足気な笑みは、そういうことだったわけだ。なんなら今もそういう笑みをしている。
「―――そう。やっぱりそうなのね。だったらいいなってずっと思ってたのよ。ちゃんと鈴夏のことを知ろうとしてくれる人が、鈴夏のことを好きになってくれたらなって、ずっと……」
ということは、いつの間にか僕は、お母さんからも期待されていたんだろうか。
この期待を裏切る気はないけど、もしこの人たちに失望されたら、僕は立ち直れるのだろうか。考えただけで恐ろしい。
「それが知れてよかったわ。あっ、お勉強の邪魔しちゃってごめんなさいね。すぐに麦茶もってくるから、お勉強始めてて」
「あの……! ちょっと、僕からもいいですか?」
話を終わらせてキッチンへ向かおうとしたお母さんを引き留めた。
僕も、伝えたいことがあった。
「鈴夏が今日みたいに寝れるようになったのは、絶対に僕だけの力じゃないんです。これまで、両親であるお二人が見ててくれたから、鈴夏は眠れているんだと思います……! だから、ありがとうございました!」
お母さんがやったように、深々と頭を下げて言った。
僕だって、大好きな人を救ってもらったのだ。
その感謝を伝えたかった。
「……もう。お礼なんて、貴方がすることじゃないのに。……でも、そうね。だったら、いつまでも鈴夏のことを見ていてあげてね。そうしてくれると、私たちも嬉しいわ」
「―――はい!」
はっきりと、そう答えた。
その答えを聞くと、お母さんは、足早にキッチンへ歩いて行った。
麦茶を飲みながら、ワークを進めて結構経った。
そろそろ六ページ目が終わりそうなころ、寝坊助が起きてきた。
「おはよー」
「あ、お…おはよう」
「お母さんは?」
「さっき出掛けたけど……」
「そっか」
鈴夏を見ると昨日を思い出して、僕は少しぎこちない感じになってしまった。
だというのに、鈴夏はまったく気にしてない様子だった。まるで、昨日のことなんて覚えてないかのように振る舞っている。
昨日、あんなことをしたのに……。
それを思い出して、鈴夏の唇を注視してしまった。
「んー? どうしたのかな。わたしの口元ばっかり見つめて」
「いや……なんでもないよ」
すぐにバレた。にっ、といたずらっ子みたいな笑みをしていたから、多分この状況を狙ってたんだと思う。
「そ、そういえば。今日どこか行くの?」
急いで話題を逸らした。
「どこも行かないよ? なんで?」
「なんか、おしゃれしてたから」
今日の鈴夏の服装は、パジャマや室内着といった感じではなかった。
最近は家の中だとパジャマや楽な恰好をしていることが多かったから、こういった格好を見るのはなんだか久しぶりに感じる。
「……ふーん。おしゃれ、ね。そっかー」
鈴夏は何が面白いのか、ニヤニヤと笑っている。
「あれ。僕なんか変なこと言った?」
「いいやぁ? 変じゃないよ。わたしだってたまにはおしゃれしたくなりますとも。だからまったく変じゃないよ」
「そ、そう? ならいいけど……」
なんか、今日の鈴夏はテンションが高いな。
前みたいに元気になってくれるのは嬉しいからいいんだけど、ちょっと僕が手玉に取られてるみたいじゃないか、これ。
「ね。勉強いつ終わりそう?」
「やめようと思えば、今すぐにでも終わるけど」
「じゃあ、キリが良くなるまで待ってるね。そしたら何しよっか?漫画でも読む? ……それとも、昨日みたいに映画でもみちゃう?」
「漫画! 漫画で!」
「え~ちょっと残念だなぁ! ま、それでもいいけど!」
そうして、ルンルンと鼻歌を口ずさみながら去って行った。
なんだか懐かしいやりとりだったな。
そう思うと、自然と口がにやけた。
今日は七月二十日。頑張っていてよかったと思えた日だった。
***
最高気温が四十度を超えた日、夏休みが始まった。
とはいえ、過ごし方はほとんど変わらない。
朝から夜まで蝶名林家で鈴夏と一緒に課題をやったり、ゴロゴロしたりするだけの日々。
変わったことといえば、夕食をご馳走になるようになり、帰るのが夜の九時とか十時になったことくらいだろうか。
景色探しも並行して行っていた。週に一日か二日は蝶名林家に行かない日を作り、色々な場所を探しまわった。
そして、それっぽいところを見つけたら写真を撮り、鈴夏に確認してもらう。だが、どれも正解ではなかった。
ちなみに、写真を見せるとき、毎回鈴夏は不満そうな顔をする。「わたしも連れてってよ」ということらしいが、自分の力で探したいからと断った。
にしても、ここまで見つからないなら、やはり彼女が勘違いをしている可能性が高い。
子供のころに見たきりだから、本当は山の中でもなく、川や滝だってなにか別のものなのかもしれない。
そうだったら、僕の力だけじゃ見つからないだろう。
一応、それでも見つけられるかもしれない方法を思いついてはいるが、これをすると僕だけの力で見つけたことにならないかもしれない。悩ましいところだ。
「ひでおーここどうやって解くのー?」
「あぁ。ここはこのページの式を使って―――」
鈴夏は今、夏休みの課題をやっている。僕は教師役だ。
彼女のワークや問題集、その他課題に必要なものは、僕が終業式の日に持って帰ってきた。
あれからも彼女は何度か学校に行こうと努力したが、結局校門をくぐれるようになる前に夏休みが始まってしまった。
そういう辛かったことがあった日には、僕たちは決まって映画を見る。ハッピーエンドで終わる映画を一日中何本も見た。
そうやって、毎日を過ごした。




