世界で一番好きで一番嫌い
攻め:神谷
受け:一岡 (いっちゃん)
暗闇の中で光を見た気がした。
うっすら汗をかいていた。わずかに瞼を上げるとまつげに涙が絡んでいた。何度か瞬きして、完全に目を開くと、すぐ近くに死ぬほど好きで死ぬほど嫌いな男と視線があって、なんだ夢かと俺はもう一度眠りに落ちようとした。
「ちょっと、ちょっと」としつこいまぼろしが俺の肩を揺する。
「なんだようるせえな俺は寝るんだよとっとと帰れ悪霊」
「悪霊じゃないから。帰らないし。家ないもん」
「その喋り方やめろ。なんで悪霊が俺の世界で一番嫌いな男を完コピしてるんだよ」
「本物だから」
ねえ俺を見てってば、とまぼろしはうるさい。
「…いっちゃん、起きないとちゅーしちゃうぞ」
俺は反射的に膝を曲げて隣のスペースを蹴り上げた。
足の裏にみぞおちの柔らかい感触がして、ぐへ、という声がした。
「…本物かよ」
「本物でーす」
掛け布団の上からのんきなピースだけがのぞいている。クソがよ、と舌打ちが止まらない。
夕方からバイトでその後オーディション行ってライブの深夜稽古の帰り。
神谷はそう答えて、背中を丸めてほへほへとアホみたいな擬音でカップうどんをすすっている。
「俺はなんでここにいるかを聞いてるんであって、お前の昨日のスケジュールを確認したんじゃねえんだよ」
「え〜、理由はいつもと一緒だよお。家賃なくて家追い出された。泊めて♡」
ふわふわの汚い長髪を揺らしてかわいこぶりっこしている。全然かわいくない。聞けば、度重なる家賃の滞納によりシェアハウスから追い出されたらしかった。
「断る」
俺はきっぱりと言った。
「なんでよ。いーじゃんよ。いっつも泊めてくれてたじゃんよ」
「いつもはな。でも今はだめ」
「なんで〜」
俺はちゃぶ台の前で仁王立ちし、軽く咳払いをした後、腰に手を当てて宣言する。
「解散しただろ。俺たち」
かいさん、という言葉を聞いた途端、風船から空気が抜けるみたいにしゅるしゅると神谷はしおれた。
「お前はもう相方じゃないからな。ただの他人だ。お前が野宿しようが闇バイトやって臓器売られようが道端でみみずみたいにのたれ死のうがどうでもいいんだよ」
「そんなあ…」
肩をすぼめ、小声でぼそぼそ「同期のよしみで」とかなんとか言っている。俺はもう一度「か・え・れ」と言い放ってやった。
神谷は俺の元相方だった。
地方から上京してお笑いの養成所に入り、同期の神谷とコンビを組んだ。卒業後も6年間コンビとして活動したが、半年前に解散した。今は俺はピンで、神谷はコンビを組み直してそれぞれ活動している。
「今の相方に泊めてもらえばいいだろ」
「やだよ。なんか気悪いし。あとあいつ部屋とか絶対汚いし」
「てめえ!」
俺にも悪いって思えよコラ!と神谷のTシャツの襟首を掴んで引っ張る。「やめてやめて服これしかない明日ライブ」と止められ、しかたなく手を離した。
「明日、何時からだよ」
「15時から劇場の出番と、その後の企画ライブに呼ばれた」
俺たちの事務所は常設の劇場を持っていて、劇場は所属している芸人をピラミッド形式のランキングで区別している。神谷のコンビは上から三番目のランクに滑り込んだので、月に2回、定期的にお昼の公演に出演できるのだ。ちなみに俺と神谷のコンビは一番下のランキングだった。
そして解散してからの俺は、ランキングにも入れない、劇場に所属しているとみなされない芸人だ。つまり出番がもらえない。とうぜん収入もない。
「いっちゃんは?」
厳しい現実を思い出して黙り込む俺に神谷がのほほんと尋ねる。
「10時からバイトして一回家帰ってから夜勤」
「マジ?いそがしーなあ」
「金がないから当たり前だろ。この家はそんな俺の努力で家賃払ってんだよ」
金の無い奴は食うべからず住むべからず。俺が思いっきり睨むと、神谷は気まずそうに視線を逸らした。
「そんなに忙しかったらさあ、ネタ考えるのも大変でしょ。しかもピンネタなんて」
「まあな…」
コンビを組んでいた時は神谷が全部ネタを考えていた。慣れないネタ作り、しかもピンネタはかなり行き詰まっていた。考えるのも面倒になり、最近はバイトから帰ってきたらベッドに直行してしまっている。
「俺が考えてあげよっか」
神谷はへらへら笑っていた。普段は少し釣りぎみな目がえべっさんみたいに垂れ下がる。
「…は?」
「家賃代わりに。それならいい?」
「…いや、ダメだろ。俺のネタなんだし」
「でも思いつかないんでしょ?」
いいじゃん、売れてる人だって作家とかと一緒に作るんだからさあ、と神谷は押してくる。
「…思いつくのか、俺みたいな奴のネタなんて」
俺は鏡に映った自分を思い返してみた。白くてひょろ長い体。地味な顔。かわいいとかイケメンとか言われることもあるっちゃあるが、芸人としては決定的に没個性で特徴がないというのが自己分析の結果だった。
「え、めっちゃ思いつくよ」
神谷はなんでもないことのように言って、がさごそといつも持ち歩いているデカいリュックを漁った。汚いルーズリーフと三色ボールペンを取り出して、カチカチしている。
「考えていいならね、俺何個か思ってたやつがあるんだよ」
そう言ってにこにこしながら俺を見上げる。たとえばね、とネタの設定を言われた段階で、俺はルーズリーフを払いのけていた。
「やめろよ。余計なことすんな」
神谷は何度か瞬きした後、素直にルーズリーフを引っ込めた。
「ごめんね」
「あやまんな」
俺は自然と俯いて拳を握りしめていた。
「カスだけど面白い奴と真面目で面白くない奴のコンビ」
「うん?」
「俺らが言われてたことだよ」
「へえ」
「俺、面白くないんだ」
神谷はゴシップ悪口大好きで、性格悪くて、金遣い荒いくせに金に汚くて、あと髪も汚くて清潔感ないけど、ネタは面白かった。大喜利も強かった。トークはたまに失敗するけど、みんなからいじられて成立していた。カスでクズだけどみんなが笑えてネタにできるキャラで、売れそうな雰囲気があると言われていた。
一方俺には何もなかった。ツッコミが下手だ。演技も下手。大喜利もできない。あがり症で舞台に立つと必ず噛む。トークも事故る。失敗するとすぐ顔を真っ赤にして黙り込むのでいじりづらい。
神谷がもったいないから解散した方がいいのに、と影に日向にずっと言われていた。
「それ誰が言ったの」
「みんなだよ。みんなそう思ってた」
「それは違うよ。一岡は面白いよ」
「うそつけ」
「本当だよ。ていうか面白いって才能じゃなくて学習だから。面白いことが好きならそれ練習してれば面白くなるし。ネタだって今は慣れてないかもしれないけど、なんとか捻り出して人前で披露してってことを繰り返しやっていけばできるようになるもんだから」
いつになく真面目に神谷が語っている。でも俺は顔を上げられなかった。
「でも解散しただろ。解散したいってお前が言った」
ちょっともう厳しいから解散したいんだよねと言い出したのは神谷だった。解散してすぐ別の相方を見つけて劇場のランキングに名を連ねるようになった。捨てられたのは明白だった。
「それは…」
「なのに、俺んち来るし。ネタ作るとか言うし。解散の話してほしくないみたいなこと言うし。お前どういうつもりで来たの? 面白くない相方を助けてやろうって来たわけ?」
「違うよ」
「嘘つけよ。笑いに来たか憐れみに来たか、どっちかしかないだろうが」
「ほんとに、違う。解散したのは…」
机がかすかに揺れている。神谷の貧乏ゆすりは緊張しているか焦っている時の癖だった。ひさしぶりに見た。一瞬、コンビを組んでいた頃、この部屋でネタ合わせをしていた時を思い出した。
「俺がさ、一岡に対して限界というか…」
「ほれみろ」
「じゃなくて、一岡のこと好きすぎて」
「は?」
「言ってなかったっけ? いっちゃんラブなの、おれ。恋愛的にも性的にも」
「…はあ!?」
気づいてなかったの、と神谷はのんきに笑っている。
「異常に距離近かったじゃん。よく近すぎって怒られてさ。薄着の一岡見たらえっち〜とか言ってたし。布団に入り込むし。我ながら結構怪しかったと思うんだけど」
「言われてみれば確かに…でも冗談だと思うだろ!」
「まあ冗談にしてたんだけど。素直だな、いっちゃんは」
俺は頭が真っ白になった。神谷が俺を好き?
「俺が一岡とこれ以上一緒にいるとやばいと思ったんだよ。相方でずっといるのは無理だって。だから解散したいって言った」
「…これ以上やってくの厳しいって…、俺とのコンビだと未来がないからじゃなかったのか」
「え、そういう解釈だった?ネガすぎるでしょ」
「普通そう思うだろ!アホ!ていうかなんだ好きって!」
走馬灯のようにこれまでの出来事が浮かんできた。楽屋で仮眠を取る俺の隣に滑り込む神谷。俺の背後に立って肩に顎を乗せてくる神谷。俺の部屋の風呂を勝手に使う神谷。
ぞぞぞっと背中に怖気が走った。
「キモすぎる!帰れ!」
「え〜。今更でしょ。もう家まであげちゃってんじゃん」
ちゃりん、と得意げに神谷がこの部屋の合鍵を掲げる。俺がコンビ時代に渡したものだ。いつまでたっても返却してくれない。
「鍵交換する」
「待って待って。ごめんよ。俺としては気づかれてる想定だったんだ」
「で?どういうつもりで来たんだよ」
「家追い出されたのはマジ。でもワンチャン一岡の部屋に転がり込んでなし崩し的に同棲に持ち込めないかなあ〜って」
「そんなうまい話あるかあ!」
腕を掴んで物理的に追い出そうとすると、神谷は追い縋ってきた。
「ごめんって!マジマジ!今日だけ!今日だけ泊めて!」
「無理です」
「野宿は無理!ほんとに無理!明日も仕事だし!」
「俺には関係ないです」
「縛ってもいい!手足拘束していいから!」
というわけで、俺は神谷の両手両足の親指を結束バンドで縛って布団の上に転がした。神谷は自分の親指を見つめながら「本当にやるとは…」と涙目になっていた。
俺は狭いワンルームの中で最大限に離れたところに自分の布団を敷き、しっかりと神谷を警戒しながら電気を消した。
「ねえねえ」
「……」
「ねえってば。いっちゃ〜ん。いっちゃ〜ん?いっちゃ〜〜〜ん」
「うるさ、キモ…」
「ごめん嬉しくて…」
「この状況で嬉しいのかよ…」
「嬉しいよ、いっちゃんちだし…」
ぐへへ、と奇妙な笑い声に鳥肌が立った。自分の体をひしと抱きしめながら、ふと思いついた。
「なあ。お前いつから俺のこと好きなの?」
「ええ? うーん…養成所の時かなあ…」
「最初からかよ…」
「初めてのネタ見せの時ね。懐かしい」
神谷が何度も繰り返す話だった。
「最初のネタ見せでさ、一岡が他の奴コンビ組んでて、講師からなんで可愛い顔してるのにそれを生かしたネタしないのってダメ出しされて。次の日の授業丸坊主で来たんだよね」
俺が最初に仮でコンビを組んだ相手は元読者モデルとかでそこそこシュッとした奴だった。俺と二人並ぶとお笑い界ではそこそこイケメンに見えたらしい。ただネタの内容には触れず外見にだけ触れられたことに腹を立て、俺はその日の帰りに解散を言い渡してバリカンで頭を刈ったのだった。
今ならイケメンだろうがかわいいだろうが持てるものはなんでも使うが、当時は自分なりに尖っていたのだ。
「で、しかもその坊主が全然似合ってなくてさ。俺それ見て笑っちゃって。ああこいつ気合い入ってんだなって」
「…知ってるって」
坊主になってすぐ神谷から声をかけられた。当時の俺は知らなかったが、神谷は有名な大学のお笑いサークル出身で、既に学生の大会で優勝経験もあるアマチュア界の有名人だった。養成所でも初回のネタ見せの段階で素人とセミプロの差を見せつけていた。
その時はうれしかった。ただの地方のお笑いオタクの高卒が、はじめて面白い人に認められた瞬間だったから。
「あの時、コンビ組みたいとも思ったけど、同時に、けなげでかわいいな、俺が一緒にいてやりたいなって思ったんだよ」
神谷がしみじみと語る。俺は、急転直下のあの出来事がどこか腑に落ちたような、あの時の純粋なうれしさが穢されたような微妙な気持ちになった。
「いっちゃん」
気がつくと神谷が目の前にいてぎょっとした。お尻だけでにじり寄ってきたらしい。
「…なんだよ」
布団を手繰り寄せ警戒心マックスで身構えていると、神谷はぶっと吹き出した。
「大丈夫だよ。一岡って面白いから」
「…どこがだよ」
「うーん、なんか可愛くて健気で可哀想でまぬけで情けないじゃん、それって全部面白いよね」
「全然嬉しくない」
「いいじゃん。応援したくなるよ」
なぐさめだと分かっているけれど、神谷に褒められるのは気分が良かった。
「俺が売れたら一岡のこと養ってあげるから、いくらでも芸人やったらいいよ」
「なんか間違ってるだろ、それ…。あと俺が売れない前提で喋るなよ」
「いっちゃんが売れたら俺を養ってよ。とりあえず一緒に住もう」
「絶対嫌だ」
とりとめのない会話をしながら、いつの間にか俺は眠りに落ちていった。
◆◆◆◆◆◆
「…いっちゃん、寝た?」
暗闇の中目を凝らすと、一岡はあんなにも警戒していたのが嘘のように穏やかな寝顔を晒していた。
つるんと凹凸のない肌に小さなくちびる、開くとアーモンド形の瞳と長いまつ毛。こうしていると出会った頃と全然変わらない。
一岡とコンビを組み立ての頃は、一年浪人して一年留年した俺より6つ下の相方を見てはアラ高校生ってこんなにかわいかったかしらと思っていたが、どうやら一岡が特別かわいいみたいだった。
一岡のことがかわいい。愛おしい。一岡のためだったらなんでもしてあげる。コンビを組んだこと自体にそんな理由がなかったとは言い切れないけど。
「………」
一岡のためならなんでもするよ、と伝えたら、眉間に皺をぎゅっと寄せて「いらない」と言うであろう元相方の姿を思い浮かべて、俺はひそかに笑った。