第20話 手のひらの温もり
大学一年目の夏休みも終盤に差し掛かる頃。
その日が、ついにやってきた。
今日は私が由香莉さんのご両親にルームシェアのお話をする日。
千葉駅で待ち合わせた私たちは最後の打ち合わせを終え、バスに揺られながらゆっくりと由香莉さんの家へ向かっていた。
「ご両親にはどこまで話してあるの?」
バスの窓から流れる景色を眺めながら尋ねると、由香莉さんは少し考えるように視線を落とし、それから静かに答えた。
「大事な話があるってだけ。でも、なんとなく察していると思う」
由香莉さんの家は、バス停を降りてすぐのところにあった。
静かで落ち着いた高級住宅街。ただし、威圧感のある豪邸が並ぶわけではなく、どの家も品の良い佇まいをしている。
これまでも何回か遊びに来たことはあるけれど、ご両親に会うのは今日が初めて。胸の奥がぎゅっと締めつけられるような緊張感がじわじわと広がっていく。
「ちょっと散歩して気持ちを落ち着ける?」
由香莉さんの優しい声に、はっとする。
「……ううん、大丈夫。行こう」
そう言いながら、私はそっと手を伸ばした。ためらうように一瞬の間があったけれど、すぐに彼女がその手を握り返してくれる。
その温もりが、少しだけ不安を和らげてくれた。
――私たち、ちゃんと話をしよう。
「ただいま」
「おじゃまします」
私と由香莉さんの声が、同時に玄関に響く。
数秒の静寂の後、すぐ目の前にあるリビングのドアが開いた。
「こんにちは。どうぞ、上がってください」
現れたのは由香莉さんのお母さん。品のある穏やかな顔立ちで、肩まで伸びた黒髪がさらさらと揺れる。
「あ、あの、これ、お土産です」
私は少し緊張しながら、用意してきた千葉の銘菓、オランダ屋の落花生最中を差し出した。ご両親にピーナッツアレルギーがないことは事前に由香莉さんに確認済みだ。
「あら、お気遣いありがとうございます」
お母さんは優しく微笑みながら受け取る。その表情があまりにも由香莉さんに似ていて、少しだけ胸がざわついた。
リビングに入ると由香莉さんのお父さんがソファに腰掛け、テレビを見ていた。
「こんにちは。私、由香莉さんの友人で、同級生の柳朱音です」
緊張しながらも、できるだけはっきりと挨拶する。
「由香莉の父です。どうぞ、座ってください」
静かで落ち着いた声だった。それだけ言うと、お父さんはリビング中央にある四人掛けのテーブルを指し示した。
私は指先がかすかに震えるのを抑えながら、隣の由香莉さんに目を向けた。彼女の顔色は少し悪い。きっと、私と同じように緊張しているのだろう。
そっと由香莉さんの手を引き、一緒にテーブルの椅子に腰を下ろした。私たちが席に着くと、お父さんもお母さんも向かい側に座る。
――これから、私たちは大切な話をする。
心臓の鼓動が、静かな部屋の中でひときわ大きく響いていた。
「それで、今日は大事な話があるって聞いたんだけど、どんな話かな?」
由香莉さんのお父さんが静かに口を開いた。その言葉に背筋が伸びる。
「単刀直入に言うね。私、朱音ちゃんとルームシェアしたいの」
由香莉さんの声は真っ直ぐだった。
「私はルームシェアのことがよく分からないんだけど、光莉はどう思う?」
お父さんが隣に座るお母さんに視線を向ける。由香莉さんのお母さん、光莉さんっていうんだ……。
「私は反対。大人同士ならまだしも、子ども同士だと責任取れないでしょう?」
「責任……ですか?」
思わず聞き返してしまった。てっきりお金のことで反対されると思っていたし、それに対する反論も準備してきた。
しかし、予想外の反対意見に、私は戸惑いを隠せなかった。
「そう、責任。もし病気で倒れたり、火事が起こったり、あるいは泥棒が入ったりしたら、どうするつもり?その責任を、一体誰が取るの?柳さんのご両親は、そのあたりをどこまで考えているのかしら?」
光莉さんの言葉は、正論だった。しかし、大人の都合ばかりが優先されることに、私の心の奥底で、小さな反発が芽生え始めた。
――お母さん、過保護だから。
由香莉さんの言葉が、頭をよぎる。
「おっしゃることは、よく分かります。でも、これは私にとっても、由香莉さんにとっても、大きなメリットがあるからこそ提案しています」
私は深呼吸をし、事前に準備してきた言葉を、一つ一つ丁寧に紡ぎ始めた。
「メリット、というと?」
「まず、由香莉さんは長時間の通学のストレスから解放され、学業に集中できます。それに、痴漢被害のリスクがなくなることで、パニック発作を起こす可能性も大幅に減らせます」
「そう……由香莉、話したのね」
光莉さんが驚いたように娘を見つめる。
「私はお金のことももちろんありますが、由香莉さんと一緒に生活することでお互いの勉強の効率が上がります。苦手な分野を教え合ったり、何か調べ物をする時は二人で協力すれば大幅な時間の短縮になります」
「お母さん、私、本当は一人暮らしがしたいの。いつまでも実家に頼ってばかりは嫌。でも、いきなり一人で生活するのは心配でしょ?だから、まずは友達と二人で暮らすことから始めてみたいの」
由香莉さんの声には、確かな意志があった。
「柳さんの言いたいことも、由香莉の気持ちも、よく分かるわ」
光莉さんはふっと微笑んだ。もしかして、私たちの気持ちが、ちゃんと届いたのだろうか。
「でもね、世の中、思い通りにならないことの方がずっと多いの。ルームシェアって、本当にいいことばかりだと思う?」
光莉さんの言葉は優しさを纏いながらも、核心を突いていた。
「お母さん、大丈夫。勉強も家事もきちんと頑張るし、困ったことがあればお互い助け合っていくから」
由香莉さんは、必死に言葉を紡ぐ。その瞳には、揺るぎない決意が宿っているように見えた。
「みんな、最初はそう言うの。でもね、生活って想像よりもずっと、ずっと大変なのよ」
光莉さんの表情がわずかに険しくなる。その言葉には、長年の経験からくる重みが感じられた。
「例えば、家事ひとつとっても食事の準備、後片付け、掃除、洗濯。全部二人で分担するんでしょうけど、どちらかが忙しくなったときは?どちらかが体調を崩して、家事ができなくなった日が続いたら?『私ばっかりやってる』って、不満が募るのよ」
「そんなの……朱音ちゃんと一緒にきちんとするから!」
「最初はね。でもね、一緒に住むと、相手のちょっとした癖や生活習慣の違いがどうしても目についてしまうの。たとえば、どこまで掃除をするのが『普通』か。お風呂の使い方、ゴミの出し方、エアコンの設定温度……そういう些細なことでも、人によって考え方が違うのよ」
「それくらい、譲り合えば──」
「その『譲る』のが、一番難しいのよ。最初は大丈夫って思っていても、小さな我慢が積み重なると、ある日ふと、どうして私ばかり気を遣わなければならないんだろうって、心の均衡が崩れるの。それが、喧嘩の火種になるの」
そんなことない!と反論したかった。けれど、言葉が喉に詰まって出てこない。
私はこれまで由香莉さんと喧嘩したことがなかったから、もし本当にそうなってしまったとき、仲直りできる確信がなかった。
由香莉さんも同じことを思っていたようで、自信を失い、だんだんと声が小さくなっていく。
「そうかもしれないけど……でも、きっと話し合えばすぐ仲直りできるよ……」
「それは、適度な距離があるからよ」
光莉さんが静かに、しかしはっきりと告げた。
「友達っていうのは、お互いに帰る場所があるからこそ、良い関係を続けられることが多いの。一緒に暮らせば、『逃げ場』がなくなるのよ」
「逃げ場……?」
「たとえば、喧嘩をしても、お互いに帰る家があれば、『じゃあ、今日は少し距離を置こう』ってできるでしょ?でも、同じ家に住んでいたら、それができない。気まずいまま、同じ空間にいなければならないのよ」
「でも……」
「それに、もし最悪のケースで、二人の心に深い傷が残ってしまったら?」
その問いに、私は息を呑んだ。由香莉さんもまた、目を伏せ、沈黙してしまった。
「いい?ルームシェアは、楽しいことばかりじゃないの。むしろ、大切な友達だからこそ、一緒に住むことで関係が壊れることもあるってことを、きちんと覚悟しないと」
光莉さんの言葉は優しかったけれど、容赦がなかった。
──甘かった。
まるで、冷水を浴びせられたように私は現実を突きつけられた。
大人から見れば、私たちの計画は所詮、子供の夢物語に過ぎず、あまりにも未熟だった。
反論しようにも、言葉は喉の奥で凍りつき、何も言えなかった。
──説得は、完全に失敗した。
そう、私が諦めかけていた時だった。
「お母さん……私を見てよ」
由香莉さんの瞳には涙が揺れていた。それは、ただの悲しみではなく、内に秘めた強い意志の表れだった。
「私はいつも由香莉を見ている。だから、これが一番良い選択だと思ってる」
光莉さんの声は優しい。
「違うよ……全然見てないよ」
由香莉さんは、震える声で言葉を重ねる。
「お母さんが見ているのは私の『病気』とか『将来』とか、そういう『心配事』ばかり。だから、私がどうな風に生きようが、『不安の塊』にしか見えないんだよね?」
「由香莉……それは、あなたのことを思って……」
光莉さんは戸惑いを隠せない様子で言葉を返す。
「私、いつまでも子供じゃない。お母さんの言う通り、朱音ちゃんと喧嘩したり、傷ついたりするかもしれない。でも、私はそれを全部受け止めたい。そうしないと、私はいつまでも子供のまま……」
「由香莉、落ち着いて。何もそこまで極端なことをしなくても……せめて、卒業するまで待てないの?」
「今じゃないと嫌なの!私、今の弱い自分から変わりたいの!」
「……私は反対よ!せっかく発作も寛解してきたのに、ここでまた環境が変わって悪化したら、それこそ……」
光莉さんの言葉はまるで壁のように、由香莉さんの前に立ちはだかる。このお母さんは何としてもルームシェアを認めないつもりらしい。頑固だとは聞いていたけれど、まさかここまでとは……。
そう諦めかけていた時だった。
「別に、いいんじゃないか?」
予想外の言葉が、静寂を切り裂いた。発したのは、由香莉さんのお父さんだった。光莉さんが、信じられないといった表情で顔を歪める。
「ちょっと、私の話、聞いてたの!?ルームシェアがそんなに都合の良いものじゃないって、散々話したでしょう?」
「うん、聞いてたよ。ルームシェアが良いことばかりじゃないってこともよく分かった。でも、それも含めて、良い勉強になるんじゃないか?」
「それを由香莉に経験させるっていうの?もし、柳さんに迷惑をかけて、二人の関係が最悪になったらどうするの?」
「それも含めて勉強だよ。友達と喧嘩して、仲直りする。もしかしたら、仲直りできないかもしれない。でも、それも人生の貴重な経験だよ」
お父さんは、私たちを真っ直ぐに見つめた。その眼差しは、優しくて、温かい。まるで、私たちの中に眠る可能性を信じているかのようだった。そして、光莉さんの顔を見据えて、言葉を続ける。
「さっき、光莉が言ってた通り、世の中って思い通りにならないことの方がずっと多いんだよ。両親に恵まれて、失恋経験がゼロで、テストも全て完璧で受験しても全部合格して、友達に裏切られたことがなく、仕事は失敗することなく全て順調で、病気もしたことがない、そんな人間を私は見たことがないよ。みんな、多かれ少なかれ『失敗』をして傷を作りながら生きていくんだよ」
光莉さんは、不安そうな顔をしていた。
「あなたは、由香莉がまた傷ついて、体調が悪化して、試験に落ちてもいいの?」
その問いかけに、彼は静かに目を伏せた。しばらくの沈黙の後、ゆっくりと顔を上げる。
「もちろん嫌だ。でも、由香莉はもう昔のままじゃない。自分で立ち直る力を持っていると信じてる」
そう言いながら、優しく穏やかな眼差しで由香莉さんを見つめた。
「それに……柳さんなら、信頼できるから」
「えっ……」
突然名を呼ばれ、今度は私の目を真っ直ぐに見つめられる。心臓がドクンと跳ねる。
「柳さん、この部屋に来てからずっと由香莉の手を握っていたよね。もし由香莉が倒れそうになってもすぐに助けてあげられように、と。その姿を見て、確信したんだ。——ああ、この子は本当に、由香莉のことを大切に想っているんだな、って」
お父さんの言葉に、胸が熱くなる。
確かに、私は由香莉さんの手を——ずっと——握っていた。
リビングに入ったときから、彼女の顔色は悪くて、まるで解剖実習の時みたいに手が震えていた。
だから、せめて、少しでも安心させてあげたくて——
「光莉、大丈夫だよ。この人なら、何があっても由香莉を助けてくれる。信じてみよう」
その言葉に、光莉さんは戸惑いながらも口を開いた。何かを言い返そうとしていたけれど、最初のような強い反発はなかった。やがて、小さく息を吐くと、最後には折れたようだった。お父さんの意見が通ったのだ。
それから私たちが何を話したのかはあまり覚えていない。
ただ、はっきりしているのは、最初は冷たく震えていた由香莉さんの手が今ではすっかり落ち着き、温もりを取り戻していたこと。
その手の温もりが、やけに心地よかった。




