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第17話 夜に溶ける薬 前編

「少し、休ませて……」

 

 アパートに入るなり由香莉さんはそう呟き、私のベッドに腰を下ろした。

 その手にはさっき外で飲んでいたのとはまた違う、青くて小さい筒状の薬が握られていた。

 

「ちょっとお薬飲むね」

「あ……お水持ってくるね」

「大丈夫、水がなくても飲める薬だから」


 そう言って由香莉さんは薬の袋を開ける。


「恥ずかしいから、見ないでほしい……」

「ご、ごめん。何かあったら言ってね」

 

 そう言って私は席を外した。祭りのとき、あんなに暖かかった由香莉さんの手は今ではすっかり冷え切っていた。

 由香莉さんの額に浮かんでいた汗を思い出しながら冷蔵庫のドアを開ける。その中からお茶やジュースを取り出し、由香莉さんのそばへ戻る。

 

 「とりあえず何か飲む?」

 

 由香莉さんの顔色はまだ悪い。それでも少し落ち着いたのか、さっきよりは少し明るく見えた。

 

 「ありがとう。でも、今は遠慮しておくね」

 「そっか……ごめん、お腹冷やしたくないよね」

 「ううん、違うの。さっき飲んだ薬、お茶やジュースと一緒に飲むと効果が落ちちゃうから」

 

 申し訳なさそうな顔をしながら由香莉さんがそう教えてくれた。

 知らなかった。薬剤師の卵なのにこんなことも分かっていない自分が猛烈に恥ずかしくなった。

 

「ごめんね、全然知らなくて……」

「謝らなくていいよ。珍しい薬だから知らない人の方が多いの。気にしないで」


 由香莉さんはそう言って微笑んでくれたけど、私は知らないままでは済ませたくなかった。


 「その……見てもいいかな、由香莉さんの薬」

 

 一瞬、由香莉さんは戸惑ったような表情を浮かべた。でも、すぐに小さく微笑んで、そっと私に薬を差し出した。

 

 「……ちょっと恥ずかしいけど朱音ちゃんになら、いいよ。でも、誰にも言わないでね?」

 

 そう言いながら見せてくれたのは、小指ほどの大きさの青い筒状の薬。中身は液体のようだ。中央には赤い文字でリスペリドン内容液と書かれていた。

 

 「これって……」

 

 聞こうとして、言葉を飲み込んだ。

 踏み込んでいい領域なのか、迷った。

 

 「簡単に言うと『精神安定剤』。本当は使いたくなかったんだけどね」

 

 苦笑しながら、由香莉さんがぽつりと呟く。

 

 「私、パニック障害なの。と言っても、ほとんど寛解してるけど」

 

 パニック障害──その病名はどこかで聞いたことがある。

 確か、突然強い不安や恐怖に襲われ、動悸や呼吸困難が起こる病気だ。

 でも、まさか由香莉さんがそうだったとは思わなかった。

 

 「何か……あったの?」

 

 口にしてから『しまった』と思った。今、私が言うべきなのはこんな言葉ではなかったはずだ。

 

 「ごめん、今の言葉、忘れて!ゆっくり休んでていいよ」

 

 そう言って慌てて立ち上がろうとした私の手を由香莉さんがギュッと掴んだ。

 

 「大丈夫、少し落ち着いたから。それよりも今は朱音ちゃんに側にいてほしい……」

 

 真剣な目で見つめられる。思わずそっと抱きしめたくなったが、その衝動を抑えて私は由香莉さんの隣に腰を下ろした。

 

 「中学の頃、電車で痴漢に遭ったの。それから発症してお薬を飲むようになったんだ」

 

 由香莉さんはまるで他人事のように、ぽつりと告白した。

 

 「すごく怖かった。その日はどうやって家に帰ったのか、全然覚えてない。次の日からは電車に乗れなくなった。乗ろうとすると体が動かなくなって息がすごく苦しくなるの。それで親に病院に連れて行かれて、パニック障害だって言われた」

 

 信じられなかった。私の地元の新潟では痴漢なんて全然なかった。でも、都会にはそういうことをする人がたくさんいるって聞いたことがある。

 でも、まさか由香莉さんがそんな目に遭うなんて……。

 

 「ひどい……ひどいよ」

 

 許せない。気がつくと怒りが顔に出ていた。

 

 「ふふ、朱音ちゃん、顔が怖いよ」

 

 由香莉さんがくすりと笑う。

 でも、今はその笑顔が逆に痛々しかった。

 

 「さっきも言ったけどほとんど寛解してるの。寛解っていうのはね、完治ではないんだけど、ほぼ治っている状態のこと」

 

 「えっ?そうなの?」

 

 「うん。お薬と心理療法を根気よく続けたおかげかな。高校を卒業する頃には、ほとんど発作は出なくなったよ」

 

 そう言いながら、由香莉さんはカバンの中から薬を取り出す。

 袋にはそれぞれ『六十』と『七十一』の数字が書かれている。

 

 「それ、さっき外で飲んでいた薬?」

 「うん。漢方薬の四物湯と桂枝芍薬湯。神田橋処方って言って心の傷やフラッシュバックによく効くの」

 

 こんな時でも由香莉さんは持ち前の知識を惜しみなく披露する。やっぱり、由香莉さんは凄いや。私の知らないことをよく知っている。

 

 「神田橋処方……なんか必殺技みたいでカッコいいね」

 

 私がそう言って茶化すと由香莉さんはくすっと笑った。少しでも笑顔になってくれるなら、それが嬉しい。

 

 「でも、さっきみたいな強い不安には神田橋もベンゾもあまり効かない。どっちも頼れる相棒だけど、本当にひどい時は結局これに頼っちゃう」

 

 そう言って彼女は使用済みのリスペリドン液の袋を撫でる。

 その仕草からは由香莉さんがこの病気と、この薬と長い付き合いなんだな、ということが見て取れた。

 

 「もしかして大学受験に落ちたのって……」

 

 思わず聞いてしまった。

 

 「一回目の受験は単純に実力不足。でも、二回目の時は電車でね……」

 

 そう言って由香莉さんは伏し目がちに呟いた。

 

 「あんまり病気を言い訳にしたくないんだけど、あの時はパニックの発作とインフルエンザと、他にも色々重なっちゃって、結局どの大学も落ちちゃった。親にもずいぶん迷惑をかけちゃったな……」

 

 そんなことないよ──そう言いたかった。

 でも、私は由香莉さんの家族ではない。だから何も言えなかった。

 

 「ごめんね、辛いこと、思い出させちゃったね……」

 「ううん。お医者さんからは、誰かに話を聞いてもらうことが大事だよって言われてるの。だから今日、朱音ちゃんが聞いてくれたことが嬉しかったよ」

「そうなんだ……私でよければ、何でも聞くからね。辛かったらいつでも言ってね」


 他人の病気を、薬のことを聞くのはプライベートゾーンを覗き込むようなもので気が引ける。

だから、由香莉さんの薬のことを聞いていいのだろうか、迷ったけど勇気を出して踏み込んでみて良かった。

 そう思っていた、その瞬間だった。

 穏やかに笑っていた由香莉さんの目から突然、大粒の涙が溢れ出した。


「ど、どうしたの、由香莉さん?」


「ぐすっ……ごめん、ごめんねっ」


 突然泣きじゃくる由香莉さんにどう声をかければいいのかわからず、私はただ狼狽えるだけだった。


「本当は私、すごく弱い人間なの。ちょっと触られただけで何もできなくなってしまう、どうしようもないぐらい弱くて……親にも友達にもいっぱい迷惑をかけてきた。どうしてこんなに弱いんだろうって、ずっと、ずっと思ってる……」


「由香莉さん、そんなこと……」


「解剖実習のときもそうだった。私、怖くて何もできなかった。それどころか、発作を起こして先生や朱音ちゃんに迷惑をかけるところだった。多分これからもきっと、いっぱい迷惑をかけちゃう……だから、私っ……私は、こんな自分が……大嫌い!」


「由香莉さん!!」


 もう見ていられなかった。

 気がついたら私は由香莉さんを強く抱きしめていた。


「もういいよ……由香莉さん。辛いよね。頑張ったね。もう、大丈夫だからね」


 私が泣いていた時に由香莉さんがかけてくれた魔法の言葉を、今度は私が由香莉さんに返す番だった。

 あのときの、あの言葉はまるでお薬のように身体に、心に溶け込んで私を癒してくれた。

 だから、今度は私が——彼女のお薬になるんだ。

 そんな想いを込めて何度も何度も魔法の言葉を繰り返す。


「由香莉さんは頑張った。すごく頑張ったんだよ。だから今、こうやって私と一緒に大学に通ってるんだよね。それって、凄いことだよ」


 由香莉さんは私の胸に顔を埋めたまま、しゃくり上げながら泣き続ける。


「毎日あんな遠くから大学に通ってて凄いよ。偉いよ。私なんかこんなに近くに住んでるのに寝坊して遅刻しちゃうこともあるんだよ?ちゃんと勉強も頑張って試験にも一発で合格して凄いよ。私の再試験の勉強にも付き合ってくれて偉いよ。ありがとうね」


 慰めの言葉をいくつ並べても由香莉さんの涙は止まらなかった。

 もしかしたら、何も言わずにただ寄り添っているだけの方が良かったのかもしれない。でも、私には無理だった。

 だって考えるより先に、思ったことを口にしてしまうのが私——柳朱音という人間だから。


「由香莉さんのお洒落なところが好き。少し低めの落ち着いた声が好き。頭がいいところが好き。実は怖がりなところも、好き」


 言葉が、どんどん平易なものになっていく。でも、どれも私の本心なのだから仕方ない。

 だから、次の言葉がするりと出てきたのも自然なことだった。


「由香莉さんが……好き」


 ふと、彼女の肩が揺れた。


「えっ……」


 涙に濡れた瞳が私を見上げる。いつも綺麗だけど泣き顔も相変わらず綺麗だった。


「私、由香莉さんが、好きなの」


「それって……どういう……?」


「由香莉さんのことが好き! いつも優しくて、私の知らないことをたくさん教えてくれて!勉強も服のことも千葉のことも、いろんなことを教えてくれる!私が泣いてたときは側にいてくれたし、困ってる時には助けてくれた!そんな……そんな相場由香莉さんが大好き!」


 気が付いたら私の想いが、言葉があふれていた。

 私の中の、隠そうとしても隠し切れなくなったこの気持ちが止まらなかった。


 由香莉さんの目が一瞬、大きく見開かれる。

戸惑ったように私を見て、やがて自嘲気味に微笑んだ。


「私……そんなにいい人じゃないよ。本当はすごく弱くて、臆病なの。年上なのに、かっこ悪いよね」


「それでもいいの。私にとっては、どんな由香莉さんも好き!カッコいいところも、カッコ悪いところも、優しいところも、弱いところも、それも含めて全部、全部、全部……好きなの!」


 感情が爆発する。震える声で、叫ぶようにそう伝えた。呼吸が荒い。胸が苦しい。心臓が今にも爆発しそうだ。頭の中はもう由香莉さんのこと意外、何も考えられないぐらいぐちゃぐちゃだ。


 由香莉さんの瞳が揺れた。そして、次の瞬間、ぽろりと涙がこぼれ落ちる。


「……私も、朱音ちゃんが好き……」


 そう言って涙に濡れる由香莉さんの泣き顔はとても、とても——今まで見てきたどの顔よりも——綺麗だった。


 気づいたら私も泣いていた。


 どうして涙がこぼれてくるのかよく分からない。


 ただ一つだけ、分かったことがある。


 私たちはお互い、好き同士だったんだ。

パニック障害の標準治療はSSRIとベンゾだけど小説なので許してください

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