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第8話 私のお薬

千葉で一緒に遊んでから、私と由香莉さんはますます仲良くなりお互いの家に遊びに行くほど仲良しになった。

 友達ができて、毎日が新鮮で楽しかった五月が過ぎていった。


 ところが六月に入ると、大学の空気が少しずつ変わっていく。前期の期末試験が少しずつ近づいてきて、それまで浮かれていた学生の雰囲気もどこかピリピリしている。

 今までは笑い声であふれていた講義の前後も、最近は「この講義の過去問持ってる?」と真剣な声が飛び交うことが増えた。


 楽しかった五月が終わって、いよいよ本当に薬学生って感じになってきた。雨の匂いが漂う六月の空の下、ふとそんなことを思った。



「うう……試験範囲すぎ。こんなの全部覚えきれないよ。由香莉さん、これ全部覚えてるの?」

「流石に全部は無理。先生が『ここ、試験に出るから』って言った場所を効率よく覚えないとね」


 期末試験が近づくと午後の実習授業がなくなる。そうなると大学は午前の講義だけで午後は自宅でゆっくりできるはず……なのだが、実際はテスト勉強に追われる毎日。最近はこうして私の家で由香莉さんと一緒に勉強している。と言っても私が由香莉さんに勉強を教えてもらうことがほとんどだけど……


「生物化学は何とかなりそうだけど物理と分析化学、あとドイツ語が地味にキツイ。それに生薬学が全然覚えられない。ヤバい……」

「生薬は出題範囲が広い割に先生が試験に出るところを全然教えてくれないよね。こればかりは地道に覚えるしかないよ」


 一番の難関は生薬学。初めて見た時は「せいやくがく」と読んでしまったが「しょうやくがく」というのが正しい読み方だ。どんな学問かというと自然の中にある植物や動物、鉱物などを薬として使うために研究する学問だ。


 たとえば、風邪をひいたときに飲む「葛根湯」という漢方薬。この中には葛根かっこんという植物の根が使われている。昔の人は、葛根が体を温めたり、筋肉のこわばりを和らげたりすることを経験的に知っていたが、生薬学ではそうした伝統的な薬のどの成分がどんな働きをするのかを研究する素敵な学問で、私も最初はワクワクしていたのだが……。


「あ〜、もう無理!覚えきれない!根茎とか塊茎とか、もうどっちでもいいじゃん!」


 生薬学では漢方薬に使用されている生薬だけを覚えるという単純なものではない。それぞれの生薬の和名・洋名・薬効・有効成分・薬用部位を「全部」覚えないといけないのだ。例えば葛根湯に含まれている葛根の場合だと


 和名→葛根

 洋名→PUERARIAE RADIX

 薬効→発汗、解熱、鎮痛

 有効成分→フラボノイド

 薬用部位→周皮を除いた茎


 こんな感じでおよそ200種類ほどの生薬の写真とそれに関わる情報を全部覚えないといけないのだ。流石の由香莉さんも覚えきれなくて眉間に皺を寄せながら必死に単語帳を作っている。静かな部屋の中、ペンの走る音だけが響いていく。私も教科書をめくりながら、ふと隣の由香莉さんに目を向ける。由香莉さんは相変わらず単語帳に生薬を書き込んでいたが、少し疲れたのか、それとも私が見ているのに気付いたのか、その手を止めてこちらを見た。


「ねえ、朱音ちゃんはサークル入らないの?」

「うーん、迷ったけど……今はいいかな」

「そうなんだ?」

「時間ないし、そのうちバイトもしたいし」


 私はそう言って、さらりと前髪をかき上げる。


「へえ、バイトするんだ」

「うん。サークルも楽しそうだけど、今は勉強とか生活のリズム作るほうが大事かなって思って。まあ、バイトもする時間なさそうだけどね」


 薬学部は夜遅くまで実習することがよくあるのでシフト制のバイトは難しい。また、試験期間中はそれこそバイトなんてしてる暇がないぐらい勉強が大変なので私の周りでは日雇いのバイトが家庭教師をする人が多かった。私もそのうち落ち着いたら家庭教師をやりたいな。時給いいし。


「幽霊部員でもサークルは入った方がいいよ。先輩がテストの過去問を持ってきてくれるから。それがないと大変なんだって」

「え、そうなんだ。私、試験範囲全部覚えればいいやって思ってた」

「全部は無理だよ。過去問があれば試験の傾向が分かるし凄く効率良くなると思う」

「そっかー。じゃあ私も入ろっかなあ。由香莉さんと同じ、生薬研究会に」


 私がそう言うと、由香莉さんは驚いたように顔を上げる。


「え、本当に?」


「うん。特に入りたいサークル、ないからね」


「生薬研究会は幽霊部員歓迎。でも、たまに畑のお手入れを手伝ってくれると嬉しいかな」

「え、それぐらいでいいの?」

「うん、薬草の管理は研究室の人たちがきちんとやってるから私たちはそれぐらいでいいんだって」


 嬉しそうな顔をしながら由香莉さんは生薬研究会の活動を教えてくれた。それぐらいなら私でもできそうだな。よし、後で学生課で書類をもらってこようっと。そんなことを考えていた時だった。


「……バスケはもうやらないの?」


 由香莉さんの唐突な質問に、一瞬言葉が詰まった。

 でも、答えは決まっている。


「うん、高校で燃え尽きた。」


 自分でも驚くほど、あっさりとした声だった。


 薬学部にもバスケサークルはある。月に二回程度、外部の体育館を借りてみんなで楽しくワイワイやる程度。ガチ勢ではなくエンジョイ勢の集まりなのできっと楽しいサークルなんだろう。

 ただ、私たちの大学には体育館がないのでバスケのためにわざわざ遠くにある体育館を借りてそこまで出かけるのが面倒くさい、というのが建前の理由。


 由香莉さんは、机に肘をつきながら、どこか寂しそうに微笑んだ。


「そっか……。ちょっとだけ見てみたかったな。バスケやってる朱音ちゃん」


 その言葉に、胸の奥がきゅっと締めつけられる。


 どうしてだろう。私、やっぱり由香莉さんには嘘つきたくないな。


「……本当はもう、バスケ好きじゃないんだ」


 ふっと息を吐くように、正直な気持ちがこぼれた。


「えっ、そうなの?」


 由香莉さんが驚いた顔でこちらを見つめる。


「うん。膝を痛めてから全然楽しめなくなっちゃった」


 由香莉さんが真剣な表情で私を見て、そうなんだ、と呟く。その声はどこか悲しそうで、私は思わず視線を落とした。

 この話はこれでおしまい。そう思っていたはずなのに。


「高二の時、ウチの学校に新しく赴任したバスケ部の顧問が凄く怖い人でね。練習の時に毎回すごく怒鳴るんだよ。何でこんな簡単なことできないんだ!って。ウチら、真面目に頑張ってたんだけどね〜」


 どうしてだろう、口が勝手に動いてしまう。思ったことをすぐ口に、言葉に出してしまう私の癖が本当に嫌になる。


「それは……酷い先生だね……」


 由香莉さんの表情がさらに暗くなる。

 ごめんね、そんな顔させたくなかったんだけどね。


「最初はみんなで我慢しよう、励まし合って頑張ろうって思ってた。でも、ある日突然、膝が痛くなった。ジャンパー膝って言ってね。バスケの選手によくあることなんだって。それからは思うようなプレーが出来なくなってミスが増えてまた先生に怒られる悪循環。辛かったなあ……」


 あ、これヤバいやつだ……

 胸の奥がぎゅっと締めつけられるのを感じる。

 お願い、止まって、私の口。そう思ってるのに止まらない。


 視界がじんわり滲む。止めなきゃ、こんなことで泣くなんて、と思うのに——


 ぽた、と頬を伝って涙が落ちる。

 世界が白くなっていく。由香莉さんの表情もだんだん見えなくなっていく。

 唇が、喉が震えてる、それなのにわたしの口が止まることを許してくれない。


「その時、私、思ったの。体と心は、繋がってるんだなって。体が痛いと心も痛い。心が痛いと体も痛い。それまでは先生に怒鳴られても私、全然平気だったけど膝を痛めてからはもう駄目だった。みんなの前で何度も何度も泣いた。自分が嫌になって、それで、それで……」


 部活を辞めたんだ。


 そう言おうとしたその瞬間、ふわりと、温かいものが私の体を包み込んだ。

 気がつくと、由香莉さんがそっと私を抱きしめていた。


「もういいよ……辛かったね。よく頑張ったね」


 そう言いながら、由香莉さんは私の頭をそっと撫で、肩に優しく手を添えてくれる。まるで私の心そのものに触れるような温もりに、堪えきれず大きな声で泣いた。


 どれだけ涙を流しても、由香莉さんは何も言わず、ただ静かに抱きしめ続けてくれた。


「大丈夫だよ」「辛かったね」「頑張ったね」——その言葉は優しくて、あたたかくて、私の心の奥深くまで染み渡る。それはまるで、お薬みたいに、私の心の痛みをそっと癒してくれる。


 それからどれぐらい時間が経ったのかわからない。由香莉さんは私を抱きしめたまま何も言わない。

 涙はいつのまにか枯れ果てて、乱れていた呼吸も気づけば落ち着いていた。

 それなのに心臓だけがやたらドキドキとうるさい。


 ——誰の心臓の音だろう。


 きっと、私のだよね?


 だって、由香莉さんの心臓がこんなにドキドキしてるはず、ないもんね……。

生薬の試験、泣きながら全部覚えました。吐きそうになりました。

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