売り物より、売る場所
さてさて、去年はひと悶着有りましたが無事に琵琶湖へと戻って来れました。鯉の養殖事業を始めて三年目となりましたが、今のところは順調でございます。数百万とあった鯉の卵から孵化した三千匹あまりの稚魚たちは、生まれてから半年で10寸以上に成長しております。なのですでに、ため池の隣に作った養殖場に移してあります。それ以外の卵は全て潰して、タテボシ貝で作る餌玉へと混ぜました。最初は早くに生まれて来た稚魚をほっとおけば、腹を空かせて多すぎる卵を処理してくれかと思ったのですが、そんな都合の良い話はありませんでした。稚魚が一斉に孵化しだしたので慌てて卵の多くは引き上げることになりました。タテボシ貝で作る餌玉は主に漁師さんの奥様に手伝ってもらっています。潰してペースト状にしたタテボシ貝を小さな玉にして、そこに細い棒を差し込んだら、抜いて空気が残るように窪みを閉じるだけです。難しい作業ではないので、片手間に副業として手伝ってもらっています。彼女たちも夫の仕事の手伝いや子供の面倒がありますから、手軽に小遣い稼ぎが出来きて喜んでおりました。今年はタテボシ貝と鯉の養殖に専念する事とします。
では、また来年。
さあ皆さん、また会いましたね。私はもう17歳です。ほんの少し前まで砂浜で貝拾いをしていたと言うのに、今では琵琶湖から獲れる全ての水産物の仲介取引を幕府に任せられた、生業奉行の筆頭与力です。琵琶湖全体の仲介取引がもたらす富は莫大でした。大溝藩だけでは毎週の売り上げはやく2000文ほど。ですが今では週に2万文の売り上げでございます。年間売り上げは96万文。両換算で240両。石高換算で240石ほどです。そのうちの半分が大溝藩の取り分です。近年は1石1両でございますが、貨幣改鋳によって1両の価値は江戸時代初期の3分の1程度となっております。つまり物価高――インフレなのですが、米価は変わらず1石1両。米を作っても大して金にならないのが現状です。もっとも多少の変動がありますからそこまで正確な数値ではございませんが。
ただ貨幣が浸透した今の世で、米を作っても金にならないのは大変ですね。それに追い打ちをかける様に最近は東北なんかでも冷害が頻発しているらしく、その地に住んでいる人たちは大変な思いなのではないのでしょうか。この社会構造のなかで私が出来ることは大してないのでしょうけどね。
さて、嫌な話はこれまで。嫌な話をしても嫌な気持ちになるだけでございますから。鯉の養殖は順調でございます。栄養たっぷりのタテボシ貝と、琵琶湖の水に育てられた鯉たちは二年で14寸ほどに成長いたしました。一年目の終わりごろは12寸ほどにまで成長しましたが、もう一年たっても2寸ほどしか成長しておりません。えさの量はむしろ増えているので、効率を重視して一年の終わりの元日あたりから出荷するのが良いと思います。
ちなみに餌の時は暴れまわりますので、三千匹となるとものすごい水しぶきが上がるものですが、普段はおとなしくゆっくりと網でできた囲いの中を泳いでおります。
今は明和4年の春ごろ。鯉の大きさ的に殆どは出荷可能ですが、いきなり全部は売りません。値崩れを防ぐためにもですが、来年には成熟した鯉たちがまた卵を産んでくれるでしょうから。なので今月から毎月100匹ずつ出荷する予定です。そうすれば来年の春にはまた鯉が繁殖活動して卵を産んでくれるでしょうから、その卵が出荷できるまで時間を稼ぐことが出来ます。
そう言えば明和4年が西暦1768年だと最近しりました。なんとなくペリーの黒船が来る前とか、桜田門外の変の前、ということは分かっていましたが、まぁ江戸時代の元号が西暦何年とかそこまで歴史に詳しくはなかったのでね。ただ最近は水産物の仲介業のおかげで、自分で自由に使えるお金が生まれましたので、本を買って読むという文化人のようなことをしております。特に最近ハマっているのがオランダから流れて来た異国風説書――いわゆる蘭学書などを読むことです。その中で今が西暦1768年だと分かりました。確かペリーが来る幕末が1850年代だったと思いますのでその時代から80年前の時代なのですね。私がいま17歳ですから…もしかしたらペリーを目の当たりにする日もあったりなかったり…。
いまだ生まれぬペリーに思いを馳せながらたどり着いたのはいつもの大津でございます。現地での仲介業務に関しては、今は大平さんにまかせており、私は鯉の養殖に専念しておりました。ですが今日はその養殖鯉を始めて市場に出荷する日です。そんなめでたい日ですから、鯉養殖の第一人者である私が出席しない訳にはございません。
ですが今日来たのは魚市場ではなく、鯉を専門に扱っている宿屋に来ております。ここ大津は東日本と西日本を陸路で繋ぐ重要な拠点です。多くの行商人、つまりお金持ちが集う場所でありまして、そんな金持ちが金を落とす、高級料亭でもある”錦鯉”という場所に私は来ておりました。
すでに交渉は大平さんに指示して任せております。私は木箱に詰められた立派な鯉を売って現金を回収するだけです。
「どうですか、立派な鯉でしょう」
私は料亭の裏にて、藩士たち引かせた荷台に積まれた木箱箱を開けて、中身を料亭の店主に見せました。艶のある鯉の鱗がびっしりと詰まっている光景に、店主は一瞬驚いたように声をあげました。
「ええ、大平様に試食させていただいた時はびっくりいたしました。臭みや癖もなく、身も脂も詰まっておりますし。傷も一つもありませんね」
「ええ、ええそうでしょう。大変な縁起物でございます…一匹千文宜しいかな?」
「はい、こちらが代金となっております」
私は店主から受け取った木箱の中身をあけ、小判を数えていきます。
「25両…しかりと頂きました。では商談はこれで成立ですね」