命の輝き
「まさか、もう自分の役目は終わったと思っていますか?」
「ふぇ?」
肩を落として溜まっていた息を吐き出していた私に、田沼様は意地悪そうに笑みを浮かべながらこちらを見つめてきました。
「此度の一件、龍之介殿が始めたことです。あなたが来なければ私も、家治様も、あの者たちと同じように見て見ぬふりをしていた…本来なら火災後の復興計画だけで済んだ話でしたし…」
「そっそれは」
べつに田沼様は私を責めている訳ではないのでしょうが、田沼様の話しに私は言葉が詰まってしまいました。
「ですから、しっかり働いてもらいますよ」
「ぁっ……はっ!!」
クスリと笑った田沼様を見て、私は張りつめた糸が切れる様にまた頭を下げました。
「さて、それでは一緒に行きましょうか」
「どっどこにでしょうか」
私は伺うように頭を上げます。すでに田沼様は立ち上がっておりました。
「天守閣ですよ」
「大樹…あまり前に出ますとお体が冷えます…」
私たちは家治様がおられる、本丸の南にあります富士見櫓に来ました。天守閣は過去の明暦の大火によって消失しており、それ以降は再建されていないようです。現在は石垣の上に置かれたこの富士見櫓を事実上の天守閣として扱っている様です。
富士見とありますように、二階建て以上の建物の無い現代の江戸では、江戸城から見て南西の方角にある富士山をよく見ることできます。そしてそれは当然、江戸城の麓から南西にある目黒もよく見えるわけです。
櫓の一番上に上った私たちの前には家治様とお付きの従者たちがおりました。家治様は櫓の小さな窓から顔を出し、田沼様のお声も無視して黙って江戸の南方を見つめておりました。
一瞬、外の強い風が櫓の窓に入り込み、風が吹き込む大きな音が聞こえました。すると、家治様が覗く窓から後ろにいる私たちの元にまで、焦げついた匂いとともに何かが風で飛ばされてきました。
「なんということだ…」
「あぁ…私の武家屋敷が……」
家治様と共に外の様子を覗く従者たちの声が聞こえるなか、私は足元に飛ばされてきたものを拾い上げました。
「………着物?」
紅いの柄が入った小さな布きれでした。布の断面は黒く焦げていました。そう言えば浅草に居た時に、キレイにお化粧された幼少の女の子たちがよく紅色の着物を着せられて、親と歩いている姿を見たことがありました。
私はその布きれを黙って見つめていると、手前に居る従者たちがまた騒ぎ始めました。きっと窓のから城下町一帯が燃え広がる地獄絵図が広がっていることでしょうね。
「田沼、」
従者たちが騒ぐなか、従者と同じ方向を見つめる家治様が急に田沼さまに話しかけました。急の事で田沼さまを始め、私も戸惑っていると、家治様がこちらを一瞬だけ振り返り、外の方に指をさしました。
「見よ」
私と田沼様も隣の窓から家治様がみる方角を覗きました。
「っ……」
江戸城に参上したさい、一度城の窓から城下町を見たことがありました。あの江戸の町並みを上から見つめた時、なんとも懐かしく感慨深い気持ちになりました。みなさんは蜘蛛の巣や蜂の巣であったり、カタツムリの貝殻の模様を見て美しいと感じたことはあるでしょうか。
瓦と漆喰、木造の家屋が無造作に、それでいて秩序だって整列した江戸の町並みは、まるで混沌とした大自然の中で垣間見れる、調律のとれた生物の営みを見ているようでした。
この時代にコンクリートの高層建築物も、大地と人間界を隔てるアスファルトもありません。全てはこの美しい自然の一部であると、日々実感します。
ですが…その美しい模様がみえる蜘蛛の巣も、蜂の巣であっても、人間が棒で叩けば一瞬で壊れるように、嵐が一息吹けば消えてしまうように、江戸の町並みも今、消えようとしていました。
江戸の町は風が強く、粉塵も舞う乾燥した土地です。
北東へと吹き続ける風に煽られ、家屋の壁や屋根は火の海に飲み込まれていました。そしてその飲み込まれた家屋がまた新たな波となり、隣の家々をあっという間に飲み込んでいきます。
いま自分が見ているあの燃えている家の中にも人がまだいるかもしれない…。その人はいまどんな思いでそこにいるのでしょうか。その人の家族はなにを思っているでしょうか。すべての人が私と同じように命を抱え、思いを抱いて、考えて生きている。私と同じ人達がいまもあの火の中に――。
無数の命と家屋を燃え尽くした炎の波からは、その犠牲の数を示すかのように、無数の火の粉が空を舞っておりました。
私はこの光景を見てなんの言葉も出てきませんでした。どんな感情を抱いてこの光景を見れば良いのでしょうか。
分からない…でも…この光景から目をそらしてはいけない気がしました。いま、燃え尽きようとしているその命を、思いを、私が最後まで見届けて、記憶に、脳に、焼きつけないと…それが生きている私の勤めなのではないでしょうか。
じゃないと誰にも知られず死んでいった彼らが、彼女らは、瓦版の一報に"死者多数"の一言で片付けられてしまうのです。それではあまりにも不憫で、失礼だと思うのです。
「田沼、裁定はどうなった」
私たちが家々が燃えていくのを呆然と見ていると、家治様がまた田沼様に話しかけました。
「その件なのですが…北と西にある吹上と西の丸の門を開けることにしました」
田沼様の言葉に家治様をはじめ、お付きの従者たちが一斉に田沼様と私の方を振り向きました。
「なんだと⁉」
「門を⁉なぜですか!」
避難するように声を上げた従者たちは、そのまま櫓の反対側にある北側の窓まで急いで走っていきます。家治様も私たちも従者の方たちに引っ張られるように、北側にある窓から顔を覗かせました。
「あっ!門がっ!………開いてる…」
「田沼様!宜しいのですか!外から民衆が入ってきておりますぞ!!」
従者の方々が叫ばれたように、確かに二つの門は開けられておりました。すでに大勢に人たちが門から内郭へと逃げ込んでいます。門の近くには大勢の侍たちが刀や十手、サスマタを手に取り民衆を中へと誘導していました。
「あぁ…よかった………」
窓の外縁に手を押し当てながら、深い息がまた漏れました。このまま江戸城の北と西から人を入れていけば、江戸に居る人々も詰まらずに北西の方角に逃げれるはずです。
「安心してください。あそこでは大番と先手組に警護と人民の避難誘導をさせております。それに本丸の門は開けません。民衆が混乱に乗じて暴動や盗賊行為をすることはないでしょう」
「だ…だがっ……江戸城の門を開けるなど…」
田沼様の説明にまだ従者の方たちは納得できていないようです。この者たちも裁定の時に反対した者たちと同じ、権威主義にこり固まった無能共です。
田沼様も話が通じないと思ったのでしょうか、田沼様は従者を無視して家治さまの前で膝を折り、額を地面に着きました。
「大樹、城の門を開けたのは私の判断と命によるものです。大樹の御怒りは総て私が受ける所存です」
地面に頭を下げた田沼様をみて従者たちは流石に戸惑い、家治様は黙って田沼様を見つめておりました。一瞬の沈黙の後、家治様が田沼様の名前をお呼びになりました。
「田沼、」
「はっ」
「よくやった」
家治様はそう短く口にした後、またすぐに窓から外を眺め始めました。
「はっ…大樹」
外を見始めた家治様に田沼様はまた話しかけました。
「どうした」
「此度の私の判断、後ろにおります龍之介に諭されての事でございます。」
「え?」
田沼様の口からいきなり出て来た言葉に私は体が固まってしまいました。先程は自分の判断と言っていたのに、家治様に褒められたとたん私の事を話し出すなんて…。
「そうか……お主龍之介であったか…ありがとう」
「えっ…あ……はい」
田沼様のこともそうですが、なにより将軍である家治様から感謝を伝えられるとは思っていなかった私は、恥ずかしくも小さく返事をすることしかできませんでした。




