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江戸時代の琵琶湖で地域経済学実践してみた  作者: ☆☆☆があるじゃろ?そこを押しておくれ。
19/20

今日も地球は平和です

「それにしても牛も豚もなんど食べても飽きませんね」


「あまり大きな声では言えませぬが」


「ええ、でもたまに無性に食べたくなるのが人の性ですよ」


弥二郎さんは笑みを浮かべながら鍋に箸をつついていきます。今はあの日から四カ月以上がたちました。弥二郎さんとはいつしか友人関係を結ぶことになりました。私が大溝藩の龍之介であることはすでに教えています。こうしてたまに、ももんじ屋で箸を突き合いながら愚痴や世間話をさせて頂いてます。


「龍之介殿は先週まで大溝に居たのでしたか?」


豚の薄切りとネギを頬張りながら弥二郎さんは聞いてきました。


「ええ、夏には水戸藩から時姫がいらっしゃいますから、宴会や、彼女と付き人が住む屋敷の手配をしておりましたので」


「なんどもなんども江戸と大溝を行き来して大変でございますな」


「ははっ、ただ船が遭難しないことを願うばかりですよ。大変ではございますが田沼様にもご贔屓させて頂いてますから」


「いやはや、流石天下の大溝藩でございます。江戸に琉球の通信使が来たときは驚きましたが、瓦版で見たときはもっと驚きましたよ、まさか琉球を薩摩と折半にしてしまうとは」


「琉球ではなく、もう”沖縄藩”ですよ。倭国とおなじであれは中国人の呼び方です。現地ではおきなわと呼んでいるようです」


「こりゃ失敬、あれも龍之介殿の謀略と巷では噂されておりますぞ」


うん、牛肉の味噌煮込みも美味しいですね。


「まぁ…すべては田沼様の手の平でございます。私はなにも」


「はは、そういうことでございますか」


「そう言えば先々週、水戸藩と大溝藩で新たな事業を始めたのです」


「新たな事業ですか?」


「ええ、債権信託屋というものです。債権を買いたいけどなにを買えば良いのか分からない者たちから資金を集め、信託屋で雇った両替商や相場師にその資金の運用を任せるというものです。米を餅にしたいのなら餅屋に渡せばよいのです。貯金があるのなら信託屋の債券を購入なされては?」


「……債権ですか」


「今は新規債の購入が多いですが…いずれ値上がりする前に今買った方がお勧めですよ」


「はは、龍之介様が言うのなら一つ買ってみましょうかね」





「今日は忙しいのに無理を言ってすみませんでした。今度、時間がありましたらまたご飯を奢らせていただきたい」


「いえいえ、こちらこそすみません。本当に何度もお恥ずかしい」


頭を掻きむしりながら会釈を繰り返す弥二郎さんをよそに、私はももんじ屋の大将を呼び寄せました。


「大将、会計を」


「へい、400文です」


店を出た私たちはももんじ屋の前で立ち止まりました。


「じゃ、まだお仕事頑張ってください」


「へい、龍之介様も!!」


俵物を乗せた荷台を引き、走り去っていく弥二郎さんの後姿を見届けた私は大溝藩の武家屋敷に向かって歩き始めました。浅草を南に下っていく途中でした、関東の強い風と一緒に、粉塵が舞いました。近くの女性の軽い悲鳴が聞こえたなか、舞い上がった粉塵の匂いに私は咄嗟に空を見上げました。


「…………煙?」


江戸城よりもっと先の空が一瞬だけ灰色に染まったように見えました。ですがその灰色の空はまるで強風にあおられたように一瞬にして吹き消えてしまいます。そして私が空を見上げて立ち止まっていると、その見つめる人込みの先が段々と騒がしくなっていきました。


「なんでぇ?また無宿同士の喧嘩かいな?」


「ひったくりじゃねえの?」


周りの町人の方々が騒ぎ立てる人だかりに訝し気な視線を向けています。皆さん無宿者がまたなにか問題を起こしたとみている様です。ちなみに無宿とは簡単にいうとホームレスのことです。ここ最近は仕事の無い農村から江戸に多くの農民たちが流入するようになっており、そこで無宿となった者たちによる治安の悪化が問題になっておりました。ふるさと納税と特産品拝借金はそれを解決するため、農村に仕事を作り出そうと新たに始めた政策でございましたが、今日の米が欲しい者たちに、私の考えが届くことはなかったということなのでしょう。


私が自分の無力感に目線を地面に落としたときでした、その人混みの先から微かに叫び声が聞こえたのは。最初はただの無宿の怒鳴り声かと思ったのですが、その声が段々と大きくなっていくうちに、私を含めた周囲の人々の脚は止まってしまいました。


「――だ!火事だ!!火事だああ!!目黒から火が出たぞ!!」


「はあ⁉火事⁉」


「ちょっと、あんた!逃げるわよ」


「火事だって…ただのボヤだろ?」


「前もあったろ、火消がやってくれるさ」


周りの町人たちの反応はいまいちです。火事と聞いて慌てて来た方向に戻っていく者や、楽観視する者、不安げな表情を浮かべながらただ立ち止まる者。私のように周りの様子を伺う者もいます。さて、どうすればよいのでしょうか。江戸に来て火事に遭遇したのは今回が初めてです。日々江戸に住んでいる方々ですらこの反応では…でも火事は江戸の華と呼ばれるくらいですし、歴史の教科書に載るほどの火事もあったはず。ただ今回がその火事であるなんてのは分かりません。日本史の大まかな流れは私も知ってますが、○○年に何が起きたのかなんて細かいことは覚えてないです。


「なああれ…………煙…近づいてる?」


「うわっ⁉」


どうしたものかと右往左往している内に、南西の空はいつのまにか灰色になっていました。町人がその揺らめく空に指さしたとき、強い向かい風が辺りの砂を巻き上げました。風に煽られ、煙がこっちに近づいています。江戸では春になると西から東へ風がよく吹きます。また海からも風はよく吹くので、南東に風が流れてくるのもしばしば。まだ江戸に来て日の浅い私でも知っていることです。ここに住んでいる人たちなら知らないわけがありません。そして目黒から北西には当然浅草があります。


次第に私の前に居た群衆たちは、少しづつ後ろに下がっていきました。そしてその群衆の間から煤まみれの人々が一人、また一人と這い出てきました。


「逃げろお!……逃げろお!目黒は火の海だぁ……」


「あんた!目黒からか!」


「ちげえ…麻生からだ…風が強くて……もう麻生にまで火が来てる…」


「そんな……」


「あんたらも早く逃げろ!麻生じゃ火に囲まれて…みんな……燃えながら将棋倒しみたいになっちまった」


「っおい!さっさと逃げるぞ!」


「逃げるってどこにさ!」


これは…まずい気がします。みんな事の大きさに気が付いたのか、周囲は混乱しつつあります。早く安全な場所へ避難しなくては…・・。


「龍之介様!!」「龍之介殿!!」


「あっ……弥二郎さん…に長谷川さん」


「あなたは…以前の」


「龍之介様にご贔屓にさせて頂いております。弥二郎です」


弥二郎の自己紹介に長谷川さんは軽くうなずくと、私の方に顔を戻しました。


「目黒で火事です」


「ええ、知っております。私は周囲の民衆の避難をするつもりです。既に与力と同心たちもここに召集しております」


「避難誘導…私にも手伝わせてください」


私の提案に長谷川さんは一瞬だけその細い瞳を開かせました。


「良いのですか?嬉しい限りですが」


「お願いします。私にも――」


「おい押すなって!」

「ちがっ…こいつが」

「逃げろ!!逃げろ!!」

「こっちまで火が来るって!」


「……どうやら目黒や麻生から大勢人がこちらまで来ているようですな」


「早く誘導しないと…さっきの人が言っていたみたいに将棋崩しになってしまいます!」


「ええ…落ち着けい!落ち着けい!某は火付盗賊改めの長谷川だ!!むやみに騒ぐでない!!目黒から浅草の方向に風は吹いておる!!北東には逃げるな!!西に!西に逃げよ!!」


「弥二郎さん!あなたも手伝って!!皆さん慌てずに西に逃げましょう!!」


「わっ分かりました!足の遅い女子やご老人は道の脇に移動してくだせえ!!共倒れにならないように男は子供を担いで、先に逃げてくだせえ!!」


「風はこっちに吹いてます!北や東には逃げないでください!西に移動して痛っ…みなさん!ゆっくりでいいから!落ち着いて西に移動してください!」


「西に!西に移動せい!!」


私たちは町人の皆さんを西に移動させるため、何度も声を上げました。ですが南の方からどんどんと押し寄せてくる人々の波に飲まれ、いつの間にか長谷川さんと弥二郎さんともはぐれてしまいました。次第に二人の声も群衆の叫び声によって聞こえなくなってしまいました。空を見上げれば、先程より煙の色は黒く濃くなり、その大きさもどんどんと広がって行っております。


「いいから早く逃げろって!」

「おい!早く行けって!後ろ人が来てるぞ!」

「だから押すなってつってんだろ!」

「早く!火がもうこっちまで来てんだい!早く行っておくれ!!」

「母上待って!」「あっ!痛い⁉」

「太郎!!ちゃんと見んか!こっちへ来い⁉」



まずいです。まずいです。まずいです!辺りを見渡しても知っている顏は誰一人もいません。目黒や麻生から逃れてきた人々と、私の前後に居た民衆がこの狭い町人屋敷の通りに詰めに詰めている状態です。中には煤まみれの人までいます。幾つも肩がぶつかり、後ろに押され、転びそうになっても前の人の背中に当たるだけで、右往左往する事しかできません。このままでは……それこそ将棋崩しのように共倒れになって火に飲まれるかもしれません。もうこうなったら……やるしかありません。私は鞘に手をかけると、刀を抜いて天に掲げました。


「北や東に逃げるでない!!西に逃げよ!!」


「きゃあ⁉」

「あぶねぇだろ!!」

「こんな時に刀なんて抜いてんじゃないよ!!」


「黙れえ!!!」


私は周りの人々に当たらぬ様、空を切るように大げさに振りかぶりました。いきなり武士が刀を振り回し始めた光景に、私の周りは一瞬にして人が逃げ出していきます。


「西に逃げろと言っておるのだ馬鹿者め!!いいからさっさと西へ逃げろ!!」


「向こうに家があるんだ!銭だけでも取って来ていいだろ!!」


「これ以降、私を通り過ぎた者はその背中を叩き切られると思え!!」


私はこっそりと横を通り過ぎようとした老婆にむかって刀を向けました。そして返すように私の前で止まった群衆たちの方に刀を振りかぶります。


「聞こえんのか!!火事は目黒から南東へ浅草に向かっておる!!さっさと西へ逃げよ!!西に逃げぬものは全員切り殺すぞ!!」


私は刀を左右に振りかぶりながら少しづつ群衆の方へ近づいて行きます。群衆は犬に吠えられる羊たちのように少しづつ西へと続く路地裏のほうへと流れていきました。


「はよ西へ逃げんかい!!西逃げるか切り殺されるか、焼き死ぬか!!三つに一つじゃあ!!」


「にっ逃げろ…西に」

「西へ逃げなんし!」

「西へ逃げろ!」

「西へ!西へ!火事に飲まれるぞ!!」


私の最後の一押しで民衆たちは雪雪崩のように回れ左して、西へと逃げ始めました。

後ろを振り向けば長谷川さんと弥二郎さんがこちらのほうに走ってきました。


「龍之介殿!お見事です!!」


「長谷川さん…私は江戸城に行きます」


私の言葉にまた長谷川さんは目を見開きました。


「江戸城に⁉ですか…今江戸城の門は全て閉じられてますよ」


「そうですか…それでも行ってみます。西へ町人を避難できましたが、そうなればここで起きたように、西でまた人が詰まって”おしくらまんじゅう”が起きるだけです。避難が遅れた分だけ犠牲者が増えます。出来ることは今のうちにやっておきたいのです」


「そうですか……私は止めませんよ。私には私の役目がある」


「ええありがとうございます……弥二郎さん」


私は鞘に刀をしまうと、その鞘を抜いて弥二郎さんの前に押し出しました。


「はっはい」


「今から貴方を大溝藩の江戸在住火付改めに任命します。この刀、受け取ってくださいますか?」


「えぇ⁉」


弥二郎さんは慌てた様子で、上げた両手を左右に振りました。


「そっそんな!いくらなんでも…そんな恐れ多いこと……」


「時間がありません、受け取ってください」


私は上げていた両手に無理やり刀を押し付けました。


「父からもらった大事な刀ですが、いま私が手を放したら地面に落ちます。掴んでくださいね?」


「あっ…ちょ」


私はそう言って刀から手を放すと、落ちる刀に口を開けながら手を差し出す弥二郎さんをよそに、前に振り返って江戸城の方へと駆け出しました。



「くそ!火がこんなところにまで⁉しかも人がっ……多いっ」


今は私が走っているのは江戸城の外郭にあたる武家屋敷と、町人屋敷を遮る水堀の通りです。逃げ遅れた人々が大勢、江戸城周辺に集まってきているようですね。なんとか背を伸ばし、人混みの先を見れば、すぐ近くで大きな炎が風に煽られ火の粉をまき散らしているのが見えました。


「風が強くて火がもうこっちまで来てる!」

「婆さんなにしてんだ!早く逃げないと⁉」

「もう…脚が…歩けない……」

「なに止まってんだ!もう京橋の近くまで来てるって!」


ある者は肩を寄せ合いながら走り、ある者は名も知れぬ人の背中を押し、ある者は罵声を上げ、ある者は途中で力尽き、またある者は火から逃れようと水路の中に飛び込んでいきます。このままではあと小半刻もしないうちにここに居る人たちは火に飲まれてしまいます。


「くそっ…どいて!頼む!どいてくれ!!


早くっ…江戸城まで向かわなくては……。






「んっ止まれ!今は誰であっても城には入れん!!」


運の良いことかは分かりませんが、武家屋敷へと続く外郭の扉は閉じておりませんでした。逃げ惑う群衆の間を走り抜け、なんとかたどり着いた場所は本丸へと続く内郭の大手門です。私は肩で息を吸いながら、私はゆっくりと静止を促す門番の方へ近づいて行きます。


「私は……大溝藩嫡男大溝龍之介、田沼殿に呼ばれ江戸城に参上した」


「大溝⁉あの……」


「そうだこの紋所が目に入らぬか?田沼殿にご贔屓させていただいている、あの、大溝龍之介だ。緊急の報せアリと、私は田沼殿に呼ばれている。早く門の中に通せ」


鼻息を荒くしながら詰め寄る私に、門番は顔を逸らしながら困惑した表情を浮かべました。


「でっですが……だれも城の中に入れぬなと命を受けており…


「お主に命を与えたものが、田沼殿が私に城へ参上する命を与えたことを知らなかっただけの事。早く門を開けぬか!!」


「あっ貴方様が老中殿の命を受けているという証拠がござらぬのなら、いくら貴方でも通す訳にはございません!!」


「証拠…ですか……」


急に俯き、冷静な態度に変わった私を見て、門番は唾をのみ込みました。


「……証拠なんかねえよっ」


私は目を見開き、口を蛸のように伸ばしながらぐいっと門番の顏に近づきました。


「っ…なら通すことはできませぬ!私にも家族がございます…ご理解して頂きたい……」


「ああそうですか……貴方の顏は覚えました…私が嘘をついていていたのなら切腹するのは私だけですが…もし私が嘘をついていなかったら……貴方はどうなるでしょうかね……あなたの家族はその先どうやって暮らしていくのでしょうか」


「そのようなことを申されても…私は門は開けませぬ……」


顔を逸らしながら頑なに門を開けようとしない男を、私はその衿を掴み体を門にたたきつけました。


「なっ…なにをされるか!」


「そんな家族が大事か⁉あぁ⁉いいかお前!!家族が居んのはお前だけじゃねぇんだよ!!みんなさ!!今、多くの人たちが狭い町人街の道にせめぎ合って、避難が遅れてる!!あんた!それを見捨てるのか⁉いいなぁ⁉多くの人が焼け死んでる中で安全な城の中で食う飯は上手いか⁉あんたの家族だって江戸城の外にいんだろ⁉今ここで俺を通さねえとあんた一生後悔するぞ!!!」


「ぐっ……」





「くそ!どこに逃げやがった!!」


「二手に分かれるぞ!」


大手門から内郭に侵入した私は、すぐに異変に気が付いた警備兵に見つかってしまいました。ですがなんとか周りの警備兵をかく乱させ、将軍のいる本丸へと続く中ノ門にまで忍び込んだ私は、門番の前に飛び出して向こうの反応を待たず、すぐに叫びました。


「侵入者だ!!」


「なんだと⁉それは真か⁉」

「先程から周囲が騒がしいかと覚えば…」


「桜田門から何者かが侵入したらしい!捕まえるため応援に来てくだされ!!」


「仕った!!其方はどうすのだ!」


「私はこの事を大番の方々に伝えなくてはなりません!」


「ああ!では直ぐに」


私の切迫した様子に門番の方々は慌てたように門を開けてくださいました。


「かたじけない!私もすぐに後を追います!」


「うむ、では私たちは先に桜田門の方へ向かう」


「頼みましたぞ」


「はい!!」


私は門を潜り抜け、そのすぐ近くにある中雀門でも同じことをしてついに本丸の中へと忍び込む事が出来ました。


「其の方!龍之介殿ではござらぬか⁉なぜ今このような場所に⁉」


「あっ…やべ」


「不審者が門の中に侵入したと報告が入ったが…まさか!」


まぁ当たり前ですけど、すぐにばれますよね。


「あっ!逃げた!」


「追え!!」


さて、本丸の中に入った私は城内に居た新番の静止を振り切り、廊下を走っていきます。止まる訳にはいきませぬ。場内勤めと小太り爺様たちが、この私に付いてこれるでしょうか?


「お待ちくだされ!お待ちくだされ!」


「そちらには行ってはなりませぬ!」



「なにを騒いでおる?」


「お待ちくだされ!龍之介殿!!そちらでは会議が――」


「会議っ……そこかあぁ!!田沼どのおおお!!」


私は大広間の襖を勢いよく開けると、中に転がり込みすぐ田沼殿の姿を確認しました。私はまるで勢い余って転び、回転しながら受け身を取ると、すぐさま土下座いたしました。


「貴様何者であるか!」


「門番はなにをしておる⁉」


「大溝藩嫡男、大溝龍之介でございます!!」


「龍之介⁉田沼殿!!」


「その田沼殿にお伝えしたい事がございます!目黒より出た火事が、すでに神田付近にまで迫ってきております!!」


「なんですと⁉」


「それはまことか!」


田沼さま始め、周りの囲む幕臣たちの方々が驚き声を上げました。手前を覗けば一番上座に座る家治様も静かに目を見開いております。


「まことであります!江戸城の天守閣からならすぐに確認できるやもしれません」


私の言葉に家治さまは急に立ち上がりました。


「家治様?」


「私は天守に行く…会議とこの者への裁定は田沼、お主に任せる」


田沼様の声に対し、家治さまはそれだけ言い残すと大間を後にしてしまいました。突然の事で開いたままの襖を見つめていると、我に返ったのか一人の若年寄と小姓組の数名が家治様の後を追っていきました。大広間に沈黙が続きます。残った全員の目線が私に突き刺さりました。


「江戸城から南西の目黒から発生した火の粉は、風向きに沿って北東へと進んでいる様です。私は先程浅草のほうにおりまして、現地に駆け付けた火付改めの者たちと共に、周囲の町人たちを西へ避難させておりました…」


「うん、それで…」


「避難させておりましたが…町人街は狭く人も過密ですので、奥が詰まり浅草周辺の民衆の避難が遅れております。このまま風向き沿って火事が広がれば…あそこにいる人々の多くが焼け死にてしまいます」


「それで…龍之介殿、あなたはなにを言いたいのですか」


田沼様の鋭い視線が私に向けられました。私は改めて頭を下げると短く言いたい事を伝えました。


「江戸城の内郭の扉を開けて、中へ民衆を避難させていただきたい」


内郭とは令和の皇居の敷地と同じであります。江戸城の外郭の門は開けられておりますが、外郭には大名屋敷が並んでおり、避難先としては危険です。


「なっなにをバカげたことを…」


「将軍の御わす本丸に有象無象の民を入れることなど許されぬ!」


「外郭の門は開けておるのだ、そこに避難させれば良いことであろう!」


「しかり、外郭の周囲は水路を張った堀で囲まれておる、火がここまで来ることはなかろう」


私の願いに幕臣の方々は口々に反対意見を述べました。田沼様は黙って私の方を見つめるだけです。


「ですが!過去の明暦の大火ではその大名屋敷のある外郭にまで火が及びました。不幸に本丸の一部にまで引火はしましたが、内郭の全焼は防がれております。それに火事の進む方向に大名屋敷は近く、外郭の水路は内郭を囲むものよりも幅が狭いです!大名屋敷が所狭しと並んでいる場所に民衆を避難させるのは非常に難しいと思います!!本丸の扉は開けなくて結構!ですが火事の方向から離れた北西にある”吹上”と”西の丸”の門だけは開けて頂きたい!!」


「っ……だが…内郭に入った町人たちが暴徒化し盗賊行為でも働いたらどうするのだ…ここにいる全員の首だけでは足りぬぞ…」


そう苦虫を噛みしめたような顔を浮かべながら呟いたのは、恐らく若年寄の方でしょうか。


「それはもっともなご心配でございます。ですが避難するのは町人だけではありませぬ。大名屋敷におります武士の方々もいらっしゃる。その者たちに監視を任せればよろしいかと。それに…そのような不届き者から将軍様と江戸城を守るのが大番と先手組の務めでございます。なんのための旗本御家人八万騎でございましょう」


私の言葉に先程の若年寄の方は、口を一の字にして黙ってしまいました。


「吹上と西の丸へと続く門を開けましょう。そこに江戸城周辺にいる町人たちを避難させます」


「田沼殿!!」


「貴方はこの者と随分親しくなされているようですが、言われたことをただ耳に入れるだけでは老中として如何なものか」


「……安心してください。私はそのような聞く耳しか持たぬ者ではありません。現に私はあなた方の忠言には一切流されておらぬでしょう?」


「田沼殿!なにを笑っておられる!」


「当たり前の話しですが、物よりも人の命のほうが大切だと私は思います。それで多少金品を盗まれようが、屋敷を壊されようが人民の生命こそもっと守るべきもの」


「なっ…なんという事を…」


「ご乱心なされたか!」


「家治さまは私に決断を任せられた。あのお方は私の事を良く知っておられます。家治様もきっと同じ思いに違いない。あのお方は見ておられる。私たちが民を救うのか…それとも保身を優先し民を見捨てるのかを………天守閣の上から…今も……そうでございましょう?経世済民の師よ」


最後には田沼様は微笑みを浮かべながら私の方を見つめ返しました。また先程と同じように皆さんの視線が私に突き刺さります。私は黙ってまた畳に額をつけました。


「……内郭の警護は龍之介殿が仰ったように大名屋敷にいる武士を徴集し、また大番と先手組から半分ずつ出して当たらせましょう。会議は以上で終わりとします。皆様方、今決めたことを各々が任せられた院や行所に通達をお願いいたします」


「っ……この者についてはどうなさるのか?」


「彼の行いの裁定は、この火事が全て解決された後でなくては決めることはできませぬ。それまでは私の監視下に置くこととします」


最後の田沼様の合図に会議は終了となりました。その場にいた幕臣の方々は急ぎ足で大広間を後にしていきます。最後に残ったのは田沼さまと私だけでございました。


「大変でしたね龍之介殿」


「……あぁ…」


田沼様がそう笑みを浮かべながら口にしたのを聞いた瞬間、肩から重りが降りるように重たい息が漏れ出ました。あとはもう私にできることはないでしょう。どうか……できるだけ多くの人が助かりますように……。




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