契り
「はは!いやはやそれにしても武士も百姓もエタヒニンも同じにして祭りを開くとは…聞いた時は遂にやりやがったと思ったぞ!」
焼き酒の入った徳利を片手に、顔を赤くしながら治保様は上機嫌に酒を飲み干していきます。治保様はそこまで酒は強くないと言っておられましたが、今日は既に三本目です。随分と楽しそうでなにより。
「神の前に武士も百姓も関係ありませぬ、皆同じく病や苦しみを恐れるのですもの」
「ああ、まさにその通りだ。だがよくできたな」
「全ての人に認めてもらう必要はありません。自分の考えに賛同してくださる人だけでも大切にすればよいだけのことです」
「まぁそれはそうだ……そう言えば…まだ感謝を伝えていなかったな」
治保様はそう言うと私の方に改めて向き直しました。はてなんでございましょう。大政奉還の講義の感謝は既にいただきましたが。
「その方が田沼殿に進言した債券取引所、あれのおかげで随分と儲けさせてもらっている」
「ああ、そのことでございましたか。そんなことで感謝など入りませんよ。儲けたのは治保様のお力のおかげなのですから」
「まぁ私が債権を買っている訳でもないし、金を出してる訳ではないのだがな。その件で江戸に限らず我が藩の中にも苦しんでいる両替商は沢山いる。その者たちを藩士として雇ってな…その方をまねて生業奉行を新たに作ったのだ」
「ほうほう、それで金貸しを?」
「ああ、餅は餅屋だろ?」
「資金はどうしてるのです?両替商から出させてるのですか?」
私の質問に、治保様は待ってましたと言わんばかりに両目を開けて得意げに語り始めました。
「手代を派遣できる商人ならともかく、百姓や普通の町人たちが債券を買うために頻繁に江戸に行くのは無理だろう?それに金があって債権を買いたくてもなにを買えばいいのか分からない者が殆どだ。だから領民から債権を買いたい者を募り、その者たちの資金を預かって債権を生業奉行の方で購入している。もとは両替商だ、どこに金を貸せば良いかはあの者たちが一番分かっている。おかげで1万両も資金を集めることが出来た」
治保さまの話しに私は大層驚きました。だってそれって未来でいう所の投資信託ではないですか。まだ取引所を作って一年ほど。なのにもう投資信託を閃く人が現れるなんて…それも入りによってこの方だとは。
「となると…水戸藩はそこで儲けた金から手数料でも得ているのでしょうか?」
私の返答に治保さまは満足げにうなずきました。
「ああ、龍之介殿が水産物の取引の仲介に入って金を稼いでると聞いてな。私も同じことをしてみたのだ」
前会った時は一揆や財政難に苦しんでいる様子でしたのに…随分と逞しくなられましたね。前世を足せば私は既に40歳の半ばになりつつあります。前世で彼と同い年の時、私は何をしていたのでしょう。大切な大学生活だったというのに、印象に残る事は何一つもないですね…。
「治保様はスゴイお方ですね…徳川家と縁を結ぶと聞いた時は恐ろしくてたまりませんでしたが…貴方様と兄弟の契りを結べるのなら、これほど嬉しいことはないです」
「はっはっはっは!!嬉しい事を言ってくれる!!その方の良い所はそういう所だ。恥ずかしげもなく平気で今のようなことを言うのだからな…その方が女子ならどれほどよかったか」
おっとお?これ以上はいけません。話をそらさないと…。
「あっ…治保様がやり始めた……そうですね信じて託された資金を投じる…投資信託とも言えばよいのでしょうか…それ私とやりませんか?もっと美味しい話がありますよ?」
「ほう…いいないいなそういうの…聞こうか」
私は話をそらすように自分の考え、というか未来の先人たちの猿まねを披露していきました。簡単に言えば水戸藩と大溝藩共同運営の投資信託屋を設立です。そしてその投資信託屋の債券を取引所に売り出せば、もっと多くの資金を集めれると思うのですよ。利息はその手数料を引いた分をあらかじめ出しておけば良いと思います。治保さまは両替商の方々を使ったようですが、債券は購入して塩漬けにもできますが、自由に売り買いが出来るので、売買利益も上げる事が出来ます。ですが債権の値上がり益を目的とした債券の売買は両替商の方たちでも素人とほぼ同然です。ですから主に高金利を狙った長期投資は両替商の方々に任せ、売買差益を狙った短期から中期の債券取引は大阪にある堂島米会所で活躍する相場師を引き抜けばよいと思うのです。彼らも既に債券取引所の魅力と可能性には気が付いているでしょう。大量の資金と報酬を約束する代わりに投資信託屋のもとで稼いでくれれば、藩の財政も領民の財布も、相場師も良いこと尽くめ。まさに三方良しとはこのことでございます。
「今宵はその方に会えてよかった。真の国学者にして賢人である龍之介殿であれば安心して妹を預けられる……時を宜しくお願いいたします」
そう言って真っ赤な顔をしながら頭を下げた治保様を見て、賑やかだった宴会場は一瞬にして静まり返りました。父は私を睨みつけながら顎を小さく動かしました。
「は…はっ!……こちらこそ宜しくお願いいたします!」
時代が違えば彼は大学3年生です。そんな青年が、数万の領民の明日と家族の生活を任せられた一人の男が、21年間ともに暮らしてきた妹との別れを忍んで、また一人の男に頭を下げたのです。彼を一人だけ辱めるわけにはいきません。私が慌てて頭を下げたのを見て、周りを囲む大人たちから安堵の吐息が聞こえた気がしました。頭を上げると治保さまも頭を上げていました。21歳の青年は私と同じように、恥ずかしそうに苦笑いを浮かべました。酔いが回ったからかは分かりませんでしたが、先程よりも彼の顔の色は赤くなっている気がします。
「どうでしょう、もう夜も遅いです。今宵はこれぐらいにして…」
何とも言えない微妙な空気を割ったのは治保様に使える年寄の一人でした。周りの大人たちは微笑みを浮かべながらうなずくと、まだ物足りなさそうな余韻を残しながらも宴会は粛々と終わりました。