009_枝葉の門
大聖堂を抜けて大扉の先にあったのは無数の扉の世界だった。
先程までの禍々しい神殿という雰囲気は一変し、室内から外に出たような解放感を感じさせる。天井が存在せず星空が頭上に広がっている事と、大理石だった地面が石畳になっているせいでそう感じるのだろう。
目の前には真っすぐに伸びる中央道が地平線の先まで続いていて、そこから枝葉のように別れた横道がいくつもある。
横道の途中には様々な国、時代、文化を感じさせる多種多様な種類の扉が存在し、訪問者を歓迎するかのように開いた状態で並んでいた。
ただ、扉の向こう側は漆黒の闇があって中がどうなっているかわからない。
覗き込むとただの闇ではなく、一寸先すらも見えない闇の帳である事がわかる。
奇妙な事だが、扉が並んでいる間隔の短さや脇道自体の構造から、扉の向こう側に部屋が続いているとは考えづらい。
奥の空間に意味はない。
――この世界のテーマは「扉」そのものなのだろう。
何となくだが、そんな印象を受けた。
魔耶はここに来て以降、キョロキョロと周囲を見渡して足早に先を急いでいる。
フラフラとした足取りと頻繁に変わる進行方向から、どうやら明確な道筋がある訳ではなく何か特定の扉を探しているようだった。
俺は、遠くから聞こえる地鳴りの音に耳を傾ける。
「巨人たちはまだ喧嘩しているみたいだな」
「……そうでなくちゃ困る。巨人たちが我に返って、私たちが枝葉の門に進んでいる事に気がつかれたら、一巻の終わりなんだから」
周囲をぐるっと見渡して目的の扉が見当たらないのを確認した魔耶は、こちらの発言に答えながら足先をさらに奥に向ける。
「というか、魔耶はあいつらの存在を知っていたんだろ? 知っていたから事前に計画を立てて特製シチューを用意した訳だ。――なら、俺に一言説明があってもいいだろ。ぶっつけ本番とか、俺が冷静さを失ったらどうするつもりだったんだよ」
「ごめんごめん! ちょっと虎太郎の驚いた様子を見たくって。幻想生物を見るのは初めてでしょ?」
いつもの悪い癖を発揮した魔耶に俺は口をへの字にする。
こいつのこういう性格には昔から悩まされる。情報を小出しにするというか、大事な話をせずに自分一人で考えて結論を出した挙句、一緒に巻き込まれて慌てふためく俺の様子を楽しむという悪い癖。
大事に至ってないからいいものの、取り返しがつかない事態になったらどうするつもりなのか。
もう慣れたので怒りはしないが、盛大なため息をついて話の続きを促す。
「で? 奴らは何だったんだ?」
「――そりゃ巨人ですよ。伝説に名を連ねるような凄い巨人。彼らの事は数多の伝承や文献にも残っている。曰く、掟に準じてドリームランドに存在する枝葉の門を守り、誰であろうと先に進む事を許さない門番であると。
今回は巨人が好む嗜好品と、掟に従順で喧嘩っ早い性格を利用してその隙をついたけど、実力行使で彼らを突破する事はほぼ不可能。それほどの存在なんだから」
「……やっぱり事前の説明、必要だったと思うけどな」
愚痴をこぼしつつ、魔耶の言に先程の巨人たちの戦闘シーンを思い出す。
あれを倒すとなると個人単位では無理だろうな。戦車や戦闘機を準備した軍隊でようやく戦いになるイメージだ。
「戦闘力はすごいけど……頭はそんなに良くない感じだった。どんな存在にも欠点があるって訳か」
頭の大きい生き物は知性が発達する傾向があるらしいが、人間の数百倍の頭蓋骨を持つ彼らはそのアドバンテージを活かせていないらしい。
魔女の言葉を迂闊に信じてその果てに仲間割れ。
客観的に見ると魔耶が仲違いを誘っているのは明白だったんだが、彼らは気付けなかった。
それほどまでにグロシチューに夢中だったか。
頑張って調理したかいがあったぜ。
そういや、大鍋はあの場に置いてきたなと、今後のグロシチューの行方に思考が流されていると、
「――――見つけた」
一つの扉の前で魔耶が立ち止まる。
石造りの両開きの扉だ。なかなかの高さと横幅を持つ扉は他と同様に開け放たれていて、奥には光を通さない闇が膜を張っている。
「この場所の名は枝葉の門。ドリームランドは並行世界に隣接する狭間な世界、その中でも枝葉の門と呼ばれる場所は次元の橋頭保として世界へ渡る際の足掛かりとする場所。そこには無数の扉が存在し、その数だけ宇宙が存在する。そしてこの扉が私たちが向かうべき世界に繋がる扉」
俺に説明しているのか、それとも独り言なのか。
静かに、囁くように呟きながら石の扉に触れた魔耶はその存在を確かめるように扉を撫でる。
「本来、世界に名前なんてない。私たちの生まれ育った世界にもね。でも例外として全ての神秘が生まれた場所、神話の始まりにして根源の世界には名前がある。――――神秘中央世界、ユグドラシル」
扉から手を離した魔耶。
俺も改めて大きな扉を見上げ、この先に待ち受ける幻想の世界を夢想する。
俺たちのいた世界は神秘が枯渇した場所で魔女からしたらド田舎。
いや、最後の魔女がその地を離れたのだから、見捨てられた辺境と言った方が正しいかも。
これから向かう場所は今までいた日本とは何もかもが違う。
文化も、常識も、法律も、そして何より神秘が当たり前の世界なのだ。辺境から大都会へ。俺の想像を絶する事なんて当然のようにあって然るべき世界に飛び込む。神々の住まう別天地に。
今更怖気づいたりしないが、不安がないとは言い切れない。
こちらを振り向いた魔耶が口を開く。
「今からこの扉を通る方法を教える。諸注意を頭に入れて」
「り、了解」
「この扉は通る時に必要なもの。――それはイメージ。どこに行きたいかを強く明確にイメージしながら扉の奥の空間に触れる事で、自動的に扉がそこへ連れていってくれる。逆にイメージが不完全だと思いもよらない場所に連れていかれてしまう危険性があるから、決して甘く考えてはいけない」
宇宙空間や活火山の中、海底一万メートル深海など、人間が生存できない場所に放り出される危険性を淡々と説明されて、俺はふと重大な事に気が付く。
向かうべき場所の確かなイメージが必要だと言うが、その世界に行った事も見た事もない人はとてもじゃないが明確なイメージなど想像できない事を。
「ちょっとまて、俺はどうすればいい? イメージなんてできないんだが……っ」
「大丈夫。方法はある」
嫌な汗が背中を濡らし、恐る恐る尋ねる俺に魔耶は落ち着けという風に両手を見せる。
「必要なイメージは別に場所に限定される訳じゃない。この場合、人物でもいいのよ。ユグドラシルに存在する特定の人物をイメージすれば、扉はその人の傍に連れて行ってくれる」
「……! それって」
「つまり手順はこう。まず私が先にこの扉でユグドラシルのある街に転移する。虎太郎は私が扉の前から消えたのを確認したら、十秒……ここは余裕をもって三十秒後くらいでいいかな。私が転移して三十秒後に同じように扉を使って転移する。イメージするのは他の誰でもない私。東山魔耶の事をイメージして」
「それで魔耶の傍に転移できるって事か」
「うん。それで問題なく転移できる」
力強く断言する魔耶に、俺は不安を抑え込むように両手の拳を強く握る。
問題ない。魔耶とは物心ついた頃からの仲だ。意識しなくてもこいつの姿、顔、声、それらを容易にイメージできる。寝ぼけてたって失敗しない自信がある。
「よし。やろう!」
決意を確かに頷く俺に対して、魔耶も微笑みながら頷き返す。
実際にやってみたら意外とあっけなく一瞬で終わるはずだ。
飛行機は極々小さい可能性だが墜落の危険性があるけど、それを心配する人なんてほとんどいないのと同じ。例え死の危険性があってもまず起こらない確率なら一般人は考慮しなくていいのだ。
荷物は自分で持っていくのか、スーツケースを引っ張って扉の前に立った魔耶は半分だけこちらを振り返る。
「じゃあ、先に行くね虎太郎。――向こうで会いましょう」
「ああ。しばしの別れだ。なに心配するな、すぐ会えるさ」
洋画の登場人物っぽいキザなセリフに、軽く笑った魔耶は、直後、躊躇いなく扉奥の闇に右手を突っ込んだ。
息をのむ俺の目の前で、魔耶の姿があっさり消える。
神秘的な光も、派手なエフェクトも何もない。動画の編集で登場人物のシーンをカットしたかのように、フッと音もなく魔耶の存在はこのドリームランドから掻き消えた。
「…………」
わかってはいても目の前で人が消えるという衝撃的な光景に、俺は少しだけ面食らってしまう。
心なしか少し肌寒くなった気がする。静寂が耳に痛く、遠くの方で聞こえる地響きの音が嫌に大きく聞こえる。
誰かに観察されているような視線を感じて周囲を見渡すが、誰の姿も生き物の影も見当たらない。ただ、一人の無力な未成年がこの場所に立っているだけだ。だというのに、――心がざわつく。何かが今にも視界の陰から飛び出してきそうな予感がする。俺には想像もできないような何かが。
無意識のうちに呼吸が早くなる。目の前の扉がやけに大きく不気味に感じる。
わかっている。全て気のせいだ。俺の心の弱さが不安を煽っているだけだ。
両手で頬を叩き、弱気になる精神に活を入れる。
このドリームランドという未知の空間で、魔耶の存在がどれほど心の支えになっていたかを思い知る。もし今ここで何かが起こっても誰も俺を助けてはくれないし、どう動けばいいか指示をくれたりはしない。
何があろうと、俺一人で対処するしかないのだ。
頼りになる魔女は、もうここにはいない。
深く深呼吸を繰り返して高ぶった精神を整える。
「三十秒。――行くか」
扉の奥に存在する闇の帳。そこに右手をかざす。
目を閉じて。彼女の事を思う。俺のただ一人の家族とも言うべき彼女の事を。
意地悪で、プライドもそこそこ高くて、我がまま娘で、魔法の研究ばかりにかまけて年頃らしい事を一つもやらない変女だけども。
俺は彼女の事が大切だ。彼女と共に生きて育ってここまで来た。彼女がどう思っているかは知らないけど、俺は彼女を自分の半身のように想っている。
彼女こそが――俺の理想であり、誇りだ。
魔法なんていらない。奇跡なんて必要ない。そんな神秘の枯渇した世界からの圧力にも屈する事なく、己の生き方を貫く現代社会最後の魔女。その彼女の使い魔である事を俺は誇りに思う。
今までの俺は彼女に助けられてばかり。だから――彼女を助けて、胸を張って彼女の傍に立ている自分になりたい。
その為にここにいる。彼女の魂と体に巣食う呪いを解く為に、その為に俺は今までの生活を投げ出して新天地へと向かう。後悔はない。彼女の呪いを解く為に俺の人生の大半を捧げる必要があるなら喜んで捧げる。
呪いが邪魔だ。あれが彼女の自由を縛り、無限の可能性を潰して踏みにじっている。――許せない。許せるはずがない。
彼女がやりたいと思う事をやれて、知りたいと思う事を学べて、見たいと思うものを見に行けるように。
その願いが、俺に勇気をくれる。
指の先が何かに触れる。――瞬間。
全身を引っ張られるような強い感触と共に、プツンと意識が途絶えた。