007_狭間の世界
最初に感じたのは冷たい床。
寝ぼけた意識の中、固い床の感触から逃れようと寝返りをうつ。
しかし柔らかくて暖かい布団を見つけられず、気持ちよくない感触を嫌がりながらそもそもなんで布団がないんだと疑問が頭に浮かんだ瞬間。――眠る前の経緯を思い出して意識が覚醒する。
「――ん。……は?」
目を開くと見知らぬ天井が視界に飛び込んでくる。
本当の意味で今まで見た事がない様子の天井だ。学校の体育館並みに天井が高く、そして巨大な古代の天井画が広がっている。
体を起こして周りを見渡すと、先ほどまで別世界の光景に息を呑む。
こっちの常識で言い当てるなら、大聖堂の内部、と答えるのが正しいだろう。
一見した印象ではヨーロッパの古い建築様式のそれ。
その場にある全てが華麗にて豪奢。床から壁、天井に至るまで幻想的な絵や模様が描かれており、柱や窓といった要素一つとっても精巧でないものは一つもない。全体的に円形をモチーフにした丸みを帯びただだっ広い空間だ。
非常に神秘的で荘厳な場所――ではあるが、しかし、
「うっ、っく。なんか……気持ち悪い」
吐き気と共に、素直な感想が口をついて出てくる。
言いようのない違和感。歪なイメージが頭の中に沸き起こり、周囲の光景から目を背ける。
人は均衡と調和のとれた品や場所を目にした際、そこに美しさを見出す。
美しいものとはバランスが優れているものの事だ。像も、絵も、歌も、バランスが取れているものは素晴らしい。見る者聞く者の心に安らぎを与え、人に幸せをもたらす。
そういう意味で、目の前に広がる光景は最悪だった。
芸術家の緻密な計算によって生み出された調和のとれた建築物。
それらの美しさを支える全てのバランスに対して、ほんの少しばかりズレが内包させる。美しさに欠陥が生まれ、一つ一つは大した事のないズレでもそれが幾多にも積み重なって不調和が積み重なっていく。
やがて降り積もった歪みは建築物全体の印象を大きく変え、ただの不揃いでは到達できない領域に昇華していた。
見る者に不安を、その場所に居る者に嫌悪感を。
大聖堂が神を賛美する為の建物ならば。
ここは――神を冒涜する為の場所なのか。
これ以上、ここに一秒たりとも居たくないという感情が胸中を支配する。
「……悪趣味だ。本当に」
「同意見ね。この場所を作った奴の気が知れない。真っ当な精神の持ち主ではない事は確かでしょうけど」
声のした方を振り返ると、苦虫を嚙み潰したような顔の魔耶がいた。
「遅い到着ね? この場所でしばらくの間待っていた私の気持ちも考えなさいよ」
「なかなか寝付けなかったもので……。それで? ここがドリームランドなのか」
現状を確認しながら、立ち上がって手持ちの物をチェックする。
毛布はなくなっているが、衣服をはじめとしたスマホや財布はそのまま手元にある。魔耶の傍を見るとスーツケースと例のグロシチューが入った大鍋もそこにあった。
「第一段階は成功って事でいいのかな」
「もちろん。ここまでは予定通り」
「そうか。それで次は何をする? あんまりこの場所に長居するのはよろしくない気がするし、早めに行動しよう」
言われなくてもわかっていると言いたげな不機嫌顔をした魔耶だったが、揉める時間も惜しいのか黙って大鍋を指差す。
背負えという指示だと理解した俺は、大鍋のロープを縛りなおして体に括る。
スーツケースは……、床がちゃんとした大理石になっているのでキャスターを使おう。これで林の時のように魔耶についていくのに苦労する事はないだろう。
準備完了の旨を魔耶に伝えると、彼女は頷いて、
「じゃあこれから先に進むけど、その前に約束事を伝える。これから言う事をよく聞いて、――そして肝に銘じなさい」
「な、なんだ」
「別に難しい事じゃないから。……まず一つ目。私から絶対に離れない事。何があってもね。……そして二つ目。私が指示する事には絶対服従。勝手な行動はもちろん、口答えも許さない。私が指示したらテキパキと素早く従う事」
指をピンと二本立てた魔耶は、真剣な様子で約束事を告げる。
改まって言うからどんな無理難題を言ってくるかと身構えたが、どちらも心掛けるだけで済む簡単な内容だ。
「それだけ? ならわかった。大丈夫」
「……絶対に守ってよね。ここの場所は無限に広がる可能性の収束地。もしはぐれたりしたら最悪の場合は二度と会う事もできず、永久に彷徨い続ける羽目になる。そしてお願いだから私の言う事をちゃんと聞いてね。お願いだから」
「わかってるって! そんな念入りに言わなくても」
しつこいほどの念押しに大仰に頷くと、魔耶は不安そうな様子を見せながらも「ついてきて」と一言だけ漏らして歩き出した。
魔耶との距離が離れないように意識しながら、スーツケースを引いてその後をついていく。
今、気が付いたが、魔耶のやつ相当に緊張している。
一般人が緊張するような場面でも堂々とした態度で立ち回り、時に心臓に毛が生えていると思ってしまうほど物怖じする事のない様子で周囲を驚かせる魔耶だが、今回に限ってこれまでの気丈さは鳴りを潜めている。
魔女が怯え緊張する。この場所はそれほどまでに危険な場所なのか。
「…………」
回廊を行く俺と魔耶の足音が大きく響く。この空間は異様に静かだ。この場には俺たち二人しかいなくて、音源も俺たちだけなので当然ではあるが。
だが完全な静寂という訳でもない。
時たま遠くの方で物音や聞いた事の怪音がしたりと、自分たち以外にも何かがこの大聖堂に存在する事を示唆する音が耳に届く。あるいはただの空耳、錯覚なのだろうか。
回廊もただただ真っ直ぐではない。
分かれ道があったり、カーブを描く通路だったり、景色も変わらないので割と迷路と言っても過言ではなかった。
若干の肌寒さを感じ、空いた手で二の腕を摩る。
しばらくの間歩いたのち、暇になった俺は何処までも続く壁の壁画に目を遣る。
「不思議な場所だよなここ。人が作った場所なのか?」
黙っているのも気まずいので、雑談がてらにこの場所について聞いてみる。
魔耶は後ろの俺をチラリと見て、俺の視線の先にある壁画に視線を移す。
「私も成り立ちとか詳しい事は知らない。ヨーロッパ地方のバロック様式に近しいけど似ているだけで全然違うでしょうね。地球の文化がここにあるっていうのも奇妙な話だし。壁の絵も……かなりでたらめ」
「なんか変な絵だよな。微妙に構図が狂っているというか。子供の落書きを絵描きが描きなおした感じがする。描かれている内容は……何だろうな」
「あんまり理解しようしない方がいいと思う。なんだか見ているだけで変な気持ちになるし」
魔耶の言う通り、この場所の壁画や天井画、模様に至るまで、何かを訴えかけているかのような印象を受けて奇妙な気分になる。
少なくとも好感触ではない。嫌な感じではある、なのに、引き込まれるような、飲まれるような、不可思議な引力が狂気の世界に手招きする。
何が描かれているか理解はできない。
――理解できてしまったら、おしまいなのだろう。
ふん。と鼻を鳴らして歩く事に集中する。
そしてまたしばらく無言で歩き続けるが、同じ風景がいつまでも続く。
「しかし結構歩くな。ずっと同じ風景が続くと気が滅入る」
「弱音を吐かない! ……って言いたいところだけど、そうね。もうだいぶ歩き詰め。……私の知識が正しければ、突き当りに螺旋階段が存在する筈なんだけど」
不安と焦りから、歩くスピードが少し早くなる俺たち。
やがて、魔耶の発言を裏付けるように、しばらく歩いた俺たちはこれまた巨大な空間を要した螺旋階段に辿り着いた。
これまた華麗で豪奢な建築物。巨大な中央の吹き抜けに近づき、上を覗いても下を覗いても無限に続く光景に圧倒される。先ほどの回廊も神秘的な感じはしたが、今回はそれに加えてかなりの迫力もある。
階段の先を見てみると、それぞれの階層に俺たちが今しがた通ってきた回廊と同じ形式の道が存在し、それがまた視界に移る限り並んで存在する。
一体、どれだけの道が存在するのか。人知の尺度では測れそうにない。
「ここから下に降りる。しばらくは階段を下り続ける事になるから」
「マジか……。階段を下りるのは普通に歩くよりキツいぞ。スーツケースも持ち上げないといけなくなるし……」
「階段を上るよりはましでしょ。さあ、ついてきて!」
先に行く魔耶の背中を見ながら、ため息をついた俺は再び足を動かす。
案の定、スーツケースの重さが加わった事で負担は増え、一歩一歩足を階段から降ろすたびに背中の大鍋の中身が揺れて、バランスを崩れないように制御するのも結構気を使う事になった。
早く終わってくれと願うもののなかなか階段下りをやめようとしない魔耶の道行きに、疲労で重くなる足を動かしてついていく。
それからしばらくは、エレベーターって画期的な発明だったんだな、とかそんな益体のない事ばかり考えていると、ようやく魔耶の歩みが止まった。
魔耶の見ている先には他と変わらぬ回廊への入り口がある。
「ここね。この先に行く」
断言する魔耶の声に迷いはない。
何を目印にしているかは不明だが、ここが進むべき道のようだ。道順とかあるのかもしれないがよく見分けがつくな。
スタスタと先を急ぐ魔耶の後をついていく。
元居た場所からだいぶ下の階層に来た。回廊の景色はやはり今までと変わらない――と思ったが、何かおかしい。
明確な変化がある訳じゃないが今までとは雰囲気が違う。言葉では言い表すのは難しいが、何というか、内装とか装飾が今までよりさらに禍々しく冒涜的になったというか、気持ち悪い感じがより強くなった。心なしか、周囲がより暗くなっている気もする。
動悸が少しだけ早くなる。冷や汗が額を伝う。
「な、なあ。この階層に入ってから雰囲気が――」
「――虎太郎」
こちらの言葉を遮り、魔耶が俺の名を呼ぶ。
「さっきの約束事。覚えてる?」
「え? ……ああ。魔耶から離れない事と。そして魔耶の指示は絶対服従」
約束事を復唱して再認識する。
より一層、緊張の面持ちになっている魔耶は俺の言葉に頷き、もっと自分に近づくよう手招きする。
魔耶の張りつめた感情に引きずられるように俺も緊張が高まってきた。
これから何か起きるのか? 今まではただ魔耶の後についていくだけだったが、これから俺は何かをしなくてはいけないのかもしれない。難しい事なら事前に説明がある筈だし、魔耶の指示に従っていれば問題ない筈……。だよな。
魔耶に近づき、その隣を並んで歩く位置に身を置いた俺。
しばらくただ一本道を無言で進み、やがて――終わった。
そこは広い空間だった。
先ほどまではこの世界を大聖堂のようだと言っていたが、それはあくまで見たイメージであり、実際は長い迷路だったというのが正しい。
だがここは空間の間取りや柱や窓の配置からして、明らかに映画や写真で見た事がある教会内の構図と類似している。
今自分たちが入ってきた入口から中央に向けて身廊が続き、その側面には柱が等間隔に並んで柱の奥に側廊がある。
身廊を真っ直ぐに進むと袖廊という横長い空間を挟んで、奥にはやたら威圧感のある両開きの大扉が存在した。
扉は開いている。遠目からでも扉の奥が今までの空間とは異質な場所が広がっているのが見て取れた。
「あそこが目的地――?」
魔耶に尋ねようとしたその時。
こちらからは死角になっていた袖廊の陰から、灰色の巨大な手が現れた。
それも――両端からそれぞれ二つ。
「――っ!!」
絶句する俺の目の前で巨手は柱を掴み、手の持ち主の姿を引っ張り出す。
二本の手足と髪のない頭。その外見は人型ではあるが、その肌の色は人よりも暗い灰色で覆われている。衣服も真っ当ではなく、ほとんど全裸のような状態で下半身を蓑で隠しているだけの最低限のもの。
この時点でだいぶ異常ではあるが問題はそこではない。
一歩、足を踏み出せば地面が揺れ、聖堂が軋み、立ち上がれば空間を埋め尽くすほどの圧倒的な巨躯。腕も、足も、頭も、指一本すらもが規格外の大きさ。奴らが体を動かすだけで風景が動いたと錯覚するほどの迫力と視界占有率。
見上げるような大きさ。という表現を文字通りの意味で体現する体格差。
「――あ」
トカゲも、ネズミも、ゴキブリも、人間を見たら一目散で逃げ出す。
大抵の人間はそういう小動物が苦手なのだから、必死になって襲い掛かれば殺す事は無理でも一泡吹かせたり、人間の方を逃げ出させるのも可能かもしない。
しかし一部の変わり種を除いて大抵の場合、人と遭遇した小動物は逃走を選択する。
それはなぜなのか?
その理由を俺は――理性ではなく本能で理解した。
「あ、あ、――ああ」
言葉が出ない。恐怖が喉を締め付け、震えが全身の力を散逸させる。
抗いがたい圧迫感に心の全てが制圧される。
恐ろしい。あまりに恐ろしい。
大きいというのは――ただそれだけで恐ろしい。
「「『ここに何用だ――?』」」
二体の巨人が、行く手を阻む。