005_さらば故郷
放課後のチャイムが校舎中に響き渡り、学業から解放された学生たちが自由に行動を開始する。
帰宅する者。部活を始める者。学校に残って友達と会話を楽しむ者。それぞれだ。
俺の場合、とっとと下校して夕飯用の食材や生活用品を買って家に帰るという変わらないルーチンワークがあった訳だが、今日はその例から外れて意味もなくダラダラと校舎全体を見て回っていた。
夕日が世界を橙色に塗り替え、物や人の影を濃く長くしていく。
こうして見回していくと見慣れた学校風景が何だか感慨深く感じる。
――これで見納めだと思うと余計に。
「こ……、し、白瀬くん!」
二階の校舎と旧校舎を繋ぐ渡り廊下を歩いていると、不意の後ろから呼び止めに振り返る。
「ん。黒沢さん?」
やや息を切らしたクラスメイトの姿を捉え、咄嗟に名前を思い出せた事に内心胸を撫でおろす。
同年代の女子の中でも特に長く、腰先まである黒髪。その長さは前髪にも適用されていて、隠れた目元に黒縁眼鏡が悪い意味で目立つ。良く言うなら文学少女、悪く言うるなら野暮ったい女子、という印象を受ける同級生。
やや静かな性格で気弱な面もあるが、しっかり者の委員長。
「どうかした?」
廊下の端から小走りで、目の前までやってきたのを待って口を開く。
「さっき先生に聞いたけどっ、自主退学するって本当!?」
「あー……。その件か」
耳が早い黒沢に、俺は気まずい感情を誤魔化しながら頷く。
魔法学校の入学を決意してからの魔耶の行動は素早く、翌日には魔法学校側との手続きを済ませ、山のようにあった私物もまとめて荷造りを終わらせていた。
ただ当然それだけでは不足であり、異世界転移前の身辺整理の為に高校を中退する必要があった。
本来なら高校を中退するにあたり、学校側と保護者同伴で面談したり、退学届を書いてそれを学校長に受理してもらう必要がある。
なので即日退学を行うのは色々手間なのだが、母が亡くなって保護者がいない事情を学校側に隠していた魔耶は、諸々の面倒事を嫌って魔法による暗示で無理やり退学の話を学校に通してしまった。
結果、かなり唐突ではあるが、俺たちは本日でこの慣れ親しんだ高校ともおさらばする。
現代社会にはいずれ帰ってくるかもしれないが、魔耶が魔法学校を卒業するまで向こうの異世界で過ごすと考えた場合、四、五年は向こうで暮らす事になる。一時的に里帰りする事も場合にはあるだろうが、高校にまた通い始める訳ではない。
クラスの友達や黒沢と出会う事は、もうほぼないだろう。
実質、これが今生の別れになるかもしれなかった。
「この学校も今日で最後だと思と感慨深く感じるよ。クラスメイトの皆には世話になったし、特に黒沢には色々と助けられた。委員長として問題児の魔耶に目をかけてくれたしな」
「その東山さんも退学すると聞いたけど、一体どうなっているの!? 何でこんな大事な事をいきなり……」
「あいつの事情は知らないが、俺の方は家庭内の急な事情で、ちょっと」
嘘をつくのは本意ではないが、魔耶との関係性を疑われない為のカバーストーリーを述べる。
もう高校を辞めるので別に魔耶と同居している事がバレても問題ないではあるが、俺たちが去った後で変な噂がクラス内で広まるのも小恥ずかしい。
立つ鳥跡を濁さずと言うし、嘘は最後まで貫き通そう。
あくまで俺と魔耶の退学は別々の無関係な事柄だと。
俺の言い分を聞いた黒沢はおずおずと遠慮がちに、しかし確かな口調で、
「……やっぱり、無関係だなんて信じられないよ。東山さんと何か関係があるんじゃないの?」
「え? そ、そうか?」
追及の言に苦笑いを浮かべて誤魔化そうとするが、譲らない視線が痛い。
それも当然か。唐突に、しかも全く同じタイミングでクラスメイト二人が自主退学するというのは明らかに不自然だしな。クラス内でそこそこ付き合いのあった男女が揃って退学。
いかにもな邪推を生みそうなシュチュエーションではある。
しかし……。魔耶との関係、か。
「――関係ない」
「え?」
「もし俺と魔耶が仲の悪い関係だったとしても、やっぱり同じ選択をすると思うよ。気に食わない奴でも苦しんでいる家族はほっとけない。」
俺が魔耶についていくのはクラスメイトが邪推するような男女の関係性だからじゃない。純粋にあいつが身が大事だからだ。家族だからだ。そう思うからこそ、黒沢やクラスメイトの連中がするような噂は少しばかり不愉快だった。
こっちが取り繕って嘘をついているのは棚に上げつつ、でもまあ厚かましく言っておく。
最後だし、このくらいは言い残しておこう。
「ごめん。煙に巻くような事を言って。でも退学の件で皆が邪推するような事は何もない。――そうクラスの皆に言っといてくれ」
脈絡のない発言に困惑する黒沢から視線を外し、腕時計を確認する。
そろそろ待ち合わせの時間だ。
「じゃあ俺はそろそろ行くわ。――今までありがとう。元気でな、黒沢委員長!」
「え!? あ、うん。元気でね……。……また会えるよね?」
別に遠いところに行く訳じゃない。何時でも連絡取れるし、プライベートで会おうと思ったら会う事ができる筈。
そういう意図のこもった黒沢の発言。
その最後の問いに答える事ができなかった俺は、ただ笑って誤魔化した。
* * * * *
赤い夕焼けの世界の中。無窮に広がる空の下に、魔女はいた。
何も置いていないガランとした空白の屋上。
その空間を囲う無機質な金網フェンスが、逆に高所の実感を強くする。
魔耶はその金網に近づき、眼下に広がるありふれた街並みを見下ろしていた。
「…………」
屋上の扉を開けて足を踏み入れた俺は、沈みゆく太陽の眩しさに目を眇める。
校舎の屋上は普段、扉を施錠されているので生徒の出入りはできない。当たり前だが許可なく入る事も許されない。
しかし、人知を凌駕する魔女にとってそれらは全て些細な問題だ。
彼女は屋上に入りたいと思えばそれを躊躇わず実行する精神性を持ち、鍵のかかった扉は彼女がただ一言、『開け』と命じるだけで自動ドアのように中に招き入れる。魔女に対抗できる力はこの世界には多くない。故に彼女が行きたいと思った場所は、大抵は行けてしまうのだった。
それを承知の上で軽口を叩く。
「屋上に入る権限が魔耶にあるとは思わなかった。ずるいぞ、何で教えてくれなかった?」
「……ふ。生憎と魔女にしかない権限なのよ。ほら、箒で空を飛ぶときに滑走路として使えると便利だから、特別にね」
軽口を返しつつ近づいてきた俺にチラリと視線をやった魔耶。しかしまた視線を戻す。
同じ方向に見てみると、赤い日の光によって赤く照らし出された街並みが少しずつ影を伸ばしながらそこにあった。手前には住宅街が、奥には駅前のビル群が立ち並び、その間を挟むように大きな川が横たわっている。ありふれてはいるがそれなりに見栄えする風景だ。
「いい景色だよな」
「そうね。私が見ていたのは景色というより、あれだけど」
そう言って指さす方向は住宅街からやや南西の方角。ちょっとした林と丘が存在する周辺を指差していた。
正確にどれを示しているのかわかり辛いが、魔耶の憂う表情に気が付いてピンとくる。
「東山邸か。懐かしいな」
「先祖代々東山の魔女が住んでいた歴史ある私たちの家。今は更地になっているから邸宅はもう存在しないけど。……あそこに住んでいたのが遠い昔の事みたい。たかが二年前の事なのに」
「……」
デリケートな話題が出てきた為、思わず息が詰まる。
横目で魔耶を伺うが、特に表情も態度もいつもと同じ飄々としたままだった。声からも特に重い感情は感じない。
だが一瞬。彼女の紫水晶のような輝きを放つ瞳の中で、炎が煌々と燃え上がっている色が見えた気がした。
「私と、お母様と、虎太郎。三人で誰に迷惑をかける事もなく暮らしていたのに、二年前のあの日から全てがおかしくなった。邸宅は全焼して、私は呪いにかかり、そしてお母様はこの世を去ってしまった。あの時の事に何の決着もついていないのに、今度は私までもが呪いによって倒れようとしている。
――それは、断じて納得できる事じゃないわ」
魔耶はこちらを向き直り、強い意志を伺える瞳が俺を捉える。
屋上を通る春の風に吹かれ、なびく黒髪を指で抑えながら次の言葉を紡ぐ。
「今夜。異世界に渡る」
「……!」
「こっちの世界と異世界では時間の流れが違う。正確にどの程度の差があるかは知らない。けど、万が一にも入学式に間に合わなくなったら困る訳で、だからとっとと渡ってしまいましょう」
やっぱり……そうか。
魔法を使ってまで即日退学を推し進めていたからよほど急いでいるなと思っていたが、魔耶の予定ではすでに今日地球を旅立つ事を決定していたのか。
呪いの猶予がわからないと言うのもあるし、できるだけ早く異世界に渡る事に関して異論はない。
「わかった、心の準備はできてる。――でもそうか。という事は現代日本の生活はしばらくお預けか」
「行く前からホームシック? 感傷的すぎるのも勘弁してよね」
俺は屋上の金網フェンスに近づいて、目の前に広がる光景を目に焼き付ける。
人生の大半をこの地域で過ごしてきた。これといって特徴も面白味もない街ではあったが、故郷だ。様々な思い出と共にある。
楽しかった事も、辛かった事も、光り輝いて記憶の中に残っている。
この世界で生まれ育って今日まで生きてきた。
――今日、故郷を去る。
目的はグラズヘイム魔法学校に入学し、どうにかして聖杯を使って魔耶の魂を蝕む呪いを解く事。
難しい事はわかっているが、それを成し遂げるまではおめおめと地球に戻ってくる事などできない。
目を閉じれば瞼の裏に思い出す。二年前の惨劇を。無力だった俺の惨めさを。何もできなかった無能な俺を。このままではこの地に眠る梓魔様に顔向けできない。それをどうにかするために、この地を離れて問題に立ち向かうのだ。
拳を強く握り、名残惜しく感じる気持ちに活を入れて故郷の風景に背を向ける。
俺の様子を見守っていた魔耶が、待ちわびたという風に腕を組む。
「もういい?」
「ああ。で、ちなみにどうやって異世界転移する? そこらへん何も知らないんだけど」
不安と緊張、それとちょっぴりの期待とワクワクを込めて魔耶に尋ねる。
魔法は魔耶が使うところを日常的に見ているがこれから行うのは異世界転移だ。きっと今までの魔法とは質も量も桁外れな大掛かりなものに違いない。そう考えるとテンションが上がるのは男の子の性だ。
やはりマンガなどで定番のドデカい魔法陣で転移したりするのだろうか。
……まさかトラックに轢かれる事が条件だとか言わないだろうな。
「オーケー。じゃあさっそく準備に取り掛かりましょうか」
「準備って?」
「別に難しい事じゃない」
魔耶は顎に指を当ててニヤリと笑い、
「スーパーで食材を買って料理を作るのよ。とっておきの奴をね」