035_亡霊
「これは……想定外ね」
魔耶が震える声で呟く。
俺はそれに反応できない。
全身の穴という穴を冷気の針で突き刺されたような悪寒。
ボタンをかけ間違えたかのような違和感。
絶え間なく襲い掛かる異常に声すらも上手く出せずに、唇は引きつるばかり。
正門前の見張りをやり過ごして校舎内に侵入した俺たちは、しかしそこで無視できない異常に気付く。いや、気付かされたと言うべきか。
唇が乾き、背中に嫌な汗が流れる。
夜のグラズヘイム魔法学校内は何かがおかしかった。
言葉にするのは難しい。
一見した感じでは特に異常はなく、灯りの消えた誰もいない夜の校舎という極々当たり前の光景がそこにあるばかり。子供じゃあるまいし、その程度の雰囲気やシュチュエーションでビビる俺たちではない。
だが、違う。
見た目ではない何かが違う。
予想を遥かに超えてこの場所は異質だった。
深い。深すぎる。あまりにも日常から遠すぎる。人が生きる空間から隔絶し過ぎている。現実から離れすぎている。――魔法も使えず神秘的な感覚を持ち合わせない俺でも感じるほどの濃密な気配。
ドリームランドでは狂気と人に理解できない果ての世界を感じた。
ラプチャーを目撃した時は人の手に負えない脅威の超越性を感じた。
だがこの空間はそれとは違う。
この空間には死が満ちてる。より直接的に本能が訴えかける忌避感。あの世に繋がっていると確信してしまうほど、最も純粋な死に近い。
生者がいていい場所じゃない。
「……おい。何で……、何で道がないんだ?」
瞠目する俺の目の前には純然たる行き止まり。
昼間の校舎では確かにあった筈の東校舎エリアに続く廊下は、始めからそうだったかのように道が壁になっていた。
現実を受け止めきれずに壁に手を当てるが、硬い確かな感触が手の平から伝わってくる。幻などではない。
「……一体、どうなってる? 学校内の嫌な気配といい、俺たちがいる場所は本当にいつもの校舎内なのか?」
答えを求めて魔耶を振り返ると、心強い味方である魔女も不安そうに壁を見つめている。
「――学校側が準備したものだと思う。白の魔女対策として敷設した夜間専用の防衛機構といったところかな。……初日に形代で夜間調査した時はこんなのなかったのに、間の悪いタイミングで警備強化するんだから」
「……どうする? 一旦引き返すか?」
俺は自分で自分の発言に歯噛みしてしまう。
出発前の決意はあっさりと揺らぎ、出戻りの選択を考えてしまうほどに臆病の気にやられている。情けない限りだ。
それでも撤退を考慮しないといけない。
そう確信するほどに本能が警鐘を鳴らしている。
正直、校舎の間取りが変化している等のトラップは面倒なだけで、それ自体で諦める理由にはならない。時間はかかるかもだが魔耶なら何とかするだろう。
だが、この異様な死の気配は別だ。
精神が弱気になってしまう程に恐怖心を逆撫でするこれを、決して甘く見てはいけない。理屈ではなく生者としての根幹がそう告げている。
焦りが募り、一刻も早くこの学校から逃げたいという思いが湧き上がる。
魔耶もまたそれは同様らしかった。
考える素振りを見せる魔耶。
彼女は俺に何かを言おうとして――――背後を振り返った。
「……魔耶?」
「虎太郎。こっちに来て。そして私がいいと言うまで絶対に動かず黙っていて。――いい? これは命令だから」
いつもより数トーン低い声による警告。
尋常ではない様子からは彼女の張りつめた緊張が伺えた。
俺の手を引いて廊下の壁際に寄った魔耶。
壁を背にして張り付くように指示した後、懐から幾何学模様が刻まれた三枚の札を取り出して、魔力と共に宙に浮かべる。
「『生命の歌は祝福の賜り。輪唱は糾い揺蕩う。生きる者はただ命あるだけで素晴らしい』」
小声で呪文が紡がれ、宙に浮かんだ札が静かに光を帯びる。
詠唱は止まらない。
目を閉じた魔耶は険しい表情で唇を動かし続ける。
「『奪わせるな。気付かせるな。不浄に爛れた亡霊たちより我らが命を守り、隠し、そして献身せよ。ただ一時の加護を持って絶縁の城塞を築く』」
やがて札から光が消え、それぞれが俺たちを守るように右、左、真正面と配置についた。魔耶との使い魔契約上の繋がりを意識できるようになったおかげか、その三枚の札にかなりの魔力が込められているのを感じ取れる。
魔法が完成させた魔耶は、俺の隣で黙ったまま来た道の先に視線を向けている。彼女が先ほど振り返ってみていた廊下の先だ。
俺も釣られてそちらの方向を見る。
宮殿のように豪奢で華美な内装な小廊下。壁には高名な画家が描いたと思われる風景画が並んでいて、ただの廊下にもかかわらずお金がかかっているとわかる一般的な魔法学校校舎内の風景。
その廊下は灯りが消えて暗く、視線の先は暗闇が続いていた。
だからこそ、最初に捉えたのは目ではなく耳だった。
何かを引き摺るような音。
一定の間隔で響きつつ音が大きくなって、それが足音だと理解する。
廊下の向こうから何かが近づいてくる。
「……っっ!」
突如、鼻を突く激臭に顔を顰める。
生ものが腐る臭いとはまた違う異臭。
吐き気を催す香りに鼻の奥がヒリヒリと痺れ、自然と目が痒くなって目尻に涙が溜まる。
死の予感が強くなる。
手が震え、歯が上手く嚙み合わずカチカチとぶつかり煩わしい。
引き摺る音はやがて湿った感触を感じさせる音となって、どの程度の距離から発生している異音なのかわかるほど近くなる。
そして、青い火が見えた。
『……ア……アアァ……。ウ……ァウォ……』
吐息なのか呻き声なのか判別できない音が聞こえる。
口を抑えてないと叫んでしまいそうだった。
根源的恐怖を呼び起こす気配を湛え、闇中から輪郭が浮かび上がる。
くたびれた襤褸切れを纏った影。
闇のせいで詳細はほとんど見えないが、背は低く腰が曲がった姿は老婆のそれに似ている。異様に瘦せ細っていて髪が長く、あまりに長すぎる擦り切れた黒髪のせいで顔を伺えない。
襤褸から伸びた皺くちゃの右手は、青い火の蝋燭をつけた手燭を持ち、微かな光量で廊下から僅かに闇を掃う。
ゆっくりと歩みを進める様は人間に見えるが、直感でわかる。
人間ではない。人の形に擬態している『死』だ。
あるいは亡霊とも言うべきか。
「…………」
魔耶は動くな、喋るなと忠告していたが、その必要はなかった。
全身が金縛りにあったように動けない。
喉は引き攣り、震えるばかりの四肢。
亡霊の影が一歩一歩と足を進め、――最後に俺たちの目の前までやってきた。
魔耶の魔法のおかげか、すぐ傍に居る俺たちに気が付いていない様子で、行き止まりの廊下で立ち止まる亡霊。
人間味を感じさせない、不気味な挙動で周囲を見渡す。
鼻と口から入り込む悪臭。
目線は亡霊に縫い留められ、目も耳も鼻も塞いでしまいたいと思っても叶わず。ただ眼前まで迫った『死』に震えながら耐えるしかない。
早く何処かに行ってくれと、ただただ懇願の思いだけが胸中を支配する。
『……オ、……オオ。……アァ』
顔の見えない亡霊の頭がこちら側を見る。
バレたのかと一瞬絶望に囚われそうになるが、その後動き出した亡霊の様子から俺たちではなく壁にかかっていた一枚の絵画に注目したのがわかった。
絵画に寄った亡霊は襤褸切れから左手を出して、そのまま絵画に手を伸ばして人差し指で触れる。
――瞬間。視界がぼやけて廊下の風景が霞む。
空間全体に起きた異常に驚いた俺は、目の前にいた筈の亡霊が跡形もなく消えている事に気が付いて更に困惑する。
気づけば接近していた死の気配もどこか遠い。全くないわけではないが、この場にはいないと確信できる程度には薄れてしまっていた。
しばらくして、黙っていた魔耶が壁から背を離す。
「…………よし。乗り切ったかな」
「――――」
「もういいよ虎太郎。奴はここにはいない」
魔耶の発言に促されようやく体を動かせた俺は、黙って震える両手を見下ろす。
死の気配が遠のいたにも拘らず、心体は未だに恐怖の名残を残していた。
「あ、あれは一体……」
「説明する必要がある? 本当はわかっているんでしょう?」
「……」
「でもまあ、私は説明したがりのお節介だから教えてあげる。あれは私たち生者とは相容れない存在――亡霊よ。死霊術によって操るのは可能だけど、まさか夜間警備にあんなのまで引っ張り出してくるなんて、学校側も手段を選んでられないと言った感じね」
眉根を寄せて言う魔耶の説明は、確かに俺の予感を裏付ける内容だった。
――あれが亡霊。
霊の中でも生者に害する特性を持った忌むべき悪霊。
生きていた頃の名残を残しつつも死に属する存在で、相互理解も叶わず温もりを求めて彷徨う、現世に囚われた存在。
魔獣も精霊もいるファンタジー世界なのだから、幽霊だっているだろう事は知識として承知していたが、実際に目撃してみなければ彼らの本質はわからなかっただろう。知識として知っているだけじゃ駄目なのだ。
実際に出会ってわかった。あれは生者にとって猛毒だ。
魔耶は直接自分自身で対処するわけではなく、お札に魔法を込めて対処を任せた後に戦わずやり過ごすという方法で亡霊をいなした。あれはそれしか方法がなかったと今になってわかる。
例えどんなに勇敢で賢明な人でも『死』に対しては等しく恐怖するしかない。
頭でわかっていても抗えるものじゃなかった。あの恐怖には。
心が凍り付くあの感覚。正直、二度と味わいたいものじゃない。
「この気配から察するに亡霊の数も一体じゃないだろうし、これじゃあ衆人環視の昼間に盗む難易度とそう変わらないかも。リスクが大きいという意味ではこっちが危険かな」
「…………」
「とはいえ、私たちには時間がない。幸いにも先に進む手立ても見つかった事だし、このまま予定通りに進むつもりだけど。虎太郎は大丈夫?」
「――え? この行き止まりの対処法がわかったのか?」
恐るべき亡霊を目にしても怖気づく様子を見せない魔耶。
彼女の精神の強さも驚くべき事だが、「先に進む手立て」とはどういう意味か気になった俺はそっちの話題について言及する。
魔耶は俺を呆れた表情で見ながら壁を指さす。
ちょうど亡霊が消えた辺りを示していて何かと思ったが、壁ではなく掛けられた風景画の方を示しているのだと察し、そして何を言いたいのかを理解する。
「この画……。どこかの通路を正面から見た風景に見えるけど、よく見たら、東校舎エリアに続く廊下だな。ちょうど行き止まりの先にあった筈の……ああ、なるほどな」
亡霊がこの画に触れた瞬間、空間が揺れる違和感と共に姿が消えていた。
つまり、この風景画が隠された道への扉になっているのか。
亡霊と同じように画に触れれば、描かれている場所に移動できるという仕組みなのだろう。これまた不思議の国のファンタジーみたいな仕掛けだ。
東校舎エリアに続く廊下を抜ければ、第七備品室は目と鼻の先だ。
壁に掛けられた風景画の前に立つ。
俺は振り返って、
「俺は大丈夫だぜ魔耶。やるならさっさと用事を済ませよう」
「急に強気。すぐピンとこなかったくせに」
「いいだろ別に。ほら、こんな場所に長居したくないから行くなら行こうぜ」
照れ隠しが半分、焦りが半分の気持ちで魔耶に告げると、しょうがないと嘆息した魔耶は俺の横に並んで風景画を見上げる。
目を細めて顔を近づけた摩耶は、じっくりと画を観察した後、
「ふむ。どうやら魔力を一定のパターンで注ぎ込む必要がありそうね」
「げ!」
「安心して、私と手を繋いでいれば一緒に移動できる筈だから、虎太郎は黙って私の手に縋っていればいいのよ。尻尾を振るだけしか能のない犬のようにね」
「はー……。やっぱ魔法の練習はしておくべきかな……」
いや、まずは読み書きの勉強が先か。
色々と足りない技能が多くて嫌になってしまう。異世界慣れしていない一般人には辛い環境だ。少しづつでも空いた時間にやらないとな……。
思考が脱線しつつも手を繋いだ俺たち。
指先に魔力を漲らせた摩耶が、そっと風景画の縁に触れる。
直後、再び起こる空間がブレるような違和感。上下感覚を失うような酩酊感を味わった後、すぐに感覚が元に戻る。
頭を振って意識をハッキリさせて前を見据えると、そこは風景画として描かれていた通路。見慣れた東校舎エリアに続く廊下だ。
「――成功したみたいだな」
振り返ると背後には行き止まりの壁。
横側には俺たちが先ほどいた大広間への続く廊下が描かれた風景画が飾られている。逆にここから戻る際はこっちの画を使うのだろう。
「よし。第七準備室にいそ――」
急ごう。と、そう言おうとして魔耶の方を見た瞬間。
魔耶が物凄い勢いで俺に抱きつき、ビンタ気味の勢いで俺の口を塞いだ。
急な奇行に面喰って魔耶を受け止めた俺は、なされるがままに口を抑えられて、見開いた眼だけで「何事!?」と魔耶を見る。
唇を堅く閉じて険しい表情のまま黙り続ける魔耶。
その瞳は潤み、接触した体からは微かな震えが伝わる。
混乱の収まらない俺は――――――ようやく気が付く。
――――溢れんばかりに充満する死の香りに。
『ォアァ……。ウ……ィ?』
頭上から聞こえる声。
薄れていた死の気配。それがこの一瞬で膨れ上がり、薄ら寒い霊的な冷気をが天井から静かに降り注ぐ。文字通り、頭上から背筋を伝う最悪の悪寒。
遠く離れた筈だ。
奴が去ってから数分は待った。
歩行速度から考えてとっくにその場から立ち去っていた筈なのに。
まさかそんな。
ずっと動かずに待っていたなんて――。
聞くに堪えない不気味な呻き声と共に、湿気を帯びた粘性の物音が頭上から響く。奴が天井を移動していると、恐怖に慄く本能が察する。
一体、如何なる状態で天井に張り付いているかは目視しなければ判明しない。
だが、とてもじゃないが見上げる勇気は沸いてこなかった。
体は再び金縛りに囚われていた。
俺の視線は魔耶に固定されたまま。
魔耶もまた俺と同じように俺を見る。
お互いに恐怖を顔色から滲ませて前だけを見ていたが、やがて彼女の視線が俺の斜め後ろの背後に向けられる。暗闇の中では瞳に移る影を覗き見るなどできないが、何を見ているかなど簡単に予想できる。
天井から聞こえていた呻き声は、いつの間にか俺の背後に移動していた。
近い。先ほどより更に。近くから奴の吐息が聞こえる。
背中が奴の纏う死の気配を敏感に察知し、鳥肌が全開になる。
『……ウゥ。……ウゥゥゥアァ……ッ』
奴が更に移動した。俺たちの真横に。
もう見ないという選択肢は取れなかった。
逃れられない死に迎え入れられるように、嫌だと拒む理性とは裏腹に勝手に目玉は真横に向いてしまう。
『………………』
すぐそばに、『死』が立っていた。
手を伸ばせば触れれれるほど近くに、先ほどの老婆の影がそこにいた。
顔は見えない。
だがわかる――俺たちを見ている。今度は間違いなく。
呻き声もやめて、ただ無言で顔をこちらに寄せてジッと見つめている。そこに何かがいると確信している。
「――っ!」
何かが足元に落ちた気がして、反射的に視線を向けた俺は息をのむ。
黒ずんで汚れてしまったお札が、枯れ葉のように床に散っていた。
魔耶が亡霊除けの魔法を込めた三枚の札。風景画による転移を行った際も変わらず傍にいてくれた守護の札たち。
その内の一枚が力尽きたと感じさせる有様で落ちたのだ。
残った二枚はまだ宙に浮いていたが、片方の札が墨汁が滴り落ちた和紙のようにあっという間に黒ずんでいく。
その様子から、亡霊に勘づかれた俺たちを必死に隠し通そうとして、込められた効力をものすごい勢いで消費していると理解してしまう。
札の寿命が俺たちの命の時間。
あまりにも短いタイムリミットを消費しながら、しかし何もできない。
絶望が全身を包む。
無力な俺は、肝心な時にまた何もできない。
恐怖よりも強い悔恨に蝕まれて、
「…………!」
――そんな俺を励ますように、体に腕を回していた魔耶が強く俺を抱きしめる。
驚いて視線を交わらせると魔耶は軽く頷く。
彼女の瞳は死んでいなかった。何時ものように、当たり前のように、紫紺の瞳は自信と覚悟に満ち溢れている。
ゆっくりと静かに、魔耶は懐から形代を抜き取った。
呪文を一切口にせず、無詠唱で形代に術式を仕掛けて魔力を注ぐ。
詠唱をするとしないとでは難易度が段違いだと昔聞いた事がある。
命の懸かった窮地。亡霊を間近にして恐怖が絶えず襲い掛かる状況。決して平静ではいられないだろうに、魔耶は鋼の精神力によってそれを成功させた。
魔耶の手から、独りでに形代が動き出す。
俺たちと亡霊から離れて、宙を滑空する形代は廊下の先まで移動する。
形代の行方を見守る俺たち。
二枚目の札が完全に黒くなっただろうかというところで、――突如、形代から鈴の音色が鳴り響いた。
『――――ッッ!!』
大きな音量だったわけではないが、静寂に沈む廊下では鈴音が大きく響き、無音の空間を暴き立てる。
それに対して、亡霊は激しい反応を見せた。
生物らしからぬ急加速急停止で首を回して振り返った亡霊は、音の主である形代に顔を向ける。
音を鳴らし続ける形代は、風に吹かれたような挙動でフワフワと廊下の脇道の方に流されて姿を消してしまう。
その様子を停止したまま見ていた亡霊。
振り向いた姿勢のまま動かない。
何とも言えない微妙な雰囲気が場に流れる。
一秒、二秒、三秒。と、もどかしい時間が過ぎる。
その間にも二枚目の札が床に散って、三枚目の札が黒ずみ始めた。
俺は神に祈るような心持ちで、頼むからさっさと行ってくれと念じ続ける。
その願いが通じたのか、停止していた亡霊が動き出す。
青い火の蝋燭をつけた手燭を廊下の先に向けて、ゆっくりと鈍い動きで歩き出した亡霊は、先ほど形代が消えた脇道の方に進んでその陰に消える。
三枚目の札の消耗が止まり、死の重圧が和らいでいく。
亡霊の姿が見えなくなった後も、俺たちはしばらくはそのままの体勢で体を密着していたが、窓の外から聞こえる雨音に交じって落雷の音が鳴り響き、それを機に体を離した。
「…………っはぁ! はぁ、はぁ、はぁあああぁ……」
無意識のうちに呼吸が止まっていた。
自身の体を認識して初めて、想像以上に憔悴していたことを知る。
呼吸を整える俺をよそに、廊下の脇道を覗き込んだりして周囲を確認する魔耶。
やがて、こちらに戻って来て額に汗を滲ませながら微笑む。
「危ない綱渡りだったね。流石の私も……肝が冷えた。――ごめん。まさか亡霊が動かずに待ち構えているとは予想してなかった」
相互理解が不可能な亡霊の行動を、把握していたつもりになっていたのが悪かった。と、魔耶は自分の判断を反省するように、伏目がちに謝る。
「……」
「虎太郎?」
小首を傾げる魔耶に、しばらく黙っていた俺は照れ隠しに頭を掻いて、
「いや……何でもない。――ありがとう。魔耶のおかげで助かった」
「――。私は貴方の主なんだから守るのは当然よ」
表情を見られないように俺に背を向けた魔耶。
俺は苦笑を浮かべながらその隣に並んで、廊下の先にある暗闇を見据える。
第七備品室はもうすぐだ。
ここにいると亡霊とエンカウントする危険性があるわけだし、さっさと用事を済ませるとしよう。




