023_歓喜の怪物
微かな水の流れる音を頼りに奇跡的に小川を見つけた俺は、簡易的な応急処置を噛まれた足に施す。
処置と言っても水で洗って破った衣服で縛るだけ。
後は布が汚れたら替えるを繰り返す。
医療の知識がある訳でもなし。道具も何もない場所でやれる事はこのくらいだ。
川岸で立ち上がった俺は足の痛みと全身の鈍痛を確かめる。痛いし辛い。体を動かすだけでズキズキとする上に一歩踏み出すだけで噛まれた場所が激痛を発する。
だがそれだけだ。体に気力は満ち溢れたままで、動きに支障はない。
さて。気を取り直して試験に挑まないといけない訳だが。
――もう正直、八方塞がりだ。
魔法学校がある方向に歩けども歩けども距離は縮まらず、危険な存在に鉢合わせするばかり。いつまで経っても試験合格に近づいている気はしないどころか、周囲は少しずつ薄暗くなって夜の気配が近づいてくるのを感じる。
タイムリミットももう近い。
試験合格は絶望的だ。打開策もない。
初めから無理があったな。と弱気な思考が頭を上げる。
ジェスターの奴に無理やり試験を参加させられた経緯だが、最初は少しだけ乗る気だった。
魔耶の立場に甘えて一人だけ楽するのも体裁が悪いし、見事合格してみせたら魔耶や周囲に評価されるかなと夢を見ていた。だが、普通に考えて魔法も使えず特別な知識もない俺が、そのどちらも持っている魔法使いでさえ落ちるような試験を合格できる筈もなかった。
体は傷だらけで、試験時間もあまりない。
……潮時か。
ギブアップ宣言の事が脳裏にちらつく。
ただ一言、ギブアップと宣言するだけでこの苦しみから解放される。
別に魔耶の入学が取り消される訳もなく、俺がちょっと恥をかくだけで済む話。
ああ、その選択肢の何と甘美な事か。抗いがたい誘惑だ。
――でも、
「――そんな心構えで、魔耶の呪いを解けるっていうのかよ」
自然と口を突いて出た言葉に、俺自身が驚く。
意識して喋った独り言ではなかった。半分無意識から漏れ出たセリフだった。
笑える理論だ。一体、魔耶の呪いとこの試験がどう関係しているというのか。
何も関係していないじゃないか。魔耶の呪いの件とは別問題なんだから気軽に辞めてしまえばいい。そりゃあ、魔耶の呪いがかかった事なら死に物狂いでやるよ。でもそうじゃない。
これはただの――周囲に流されて受けているだけの試験なんだから。
「…………」
――お前はいつもそうだ。
心の中でもう一人の俺が吼える。嘲り、見下し、嗤い声を上げる。
――そうやって諦めてきた。困ったらすぐ魔耶に頼ってきた。いつも、逃げて逃げて逃げ続けて、それが癖になっている。
――きっとお前は大事な時にお前自身すらも裏切る。絶対に譲れない瞬間でさえも諦めが心を過り、本当に大切なものすらもその手から零れ落としてしまう。
「ちっ。黙れ」
――いいよな。お前を大切にしてくれる魔耶は強くて、有能で、何でもできて、文句を言いつつも最後はお前を助けてくれるんだから。彼女にも解決しなくちゃいけない問題があるのに、あいつはお節介だもんなぁ。
――お前。救いたいと思っている相手に逆に救ってもらって、それで満足か?
――最後までその有様でいるつもりか? その弱さを抱えたままで本当の困難に挑むのか? 本番じゃないから途中で諦めていいってのか?
「わかった。もうわかったって……はぁ」
もう一人の自分。あるいは男の意地という不条理な感情に折り合いをつけて決意を新たにする。
最近の俺は少し頑固になったらしい。魔耶の呪いを解く可能性が見えてきて、彼女を救う為に異世界に渡った事で心情の変化があったのか。
「失敗はいい。結果は残せなくてもそれが今の俺の実力。甘んじて受け入れる」
現実的に考えて、これ以上頑張っても意味はないかもしれない。
でも――
「――でも、途中で諦めるってのは止そう。それは……心の弱さを招く」
ここが折衷点。理想と現実に折り合いをつけて、後は必死に頑張るだけだ。
俺は眼前で流れる川に視線を送り、そのまま視線を川上の方に移す。
今までは闇雲に学校の方向へ進んでいたが、次は方法を変えて川の上流を目指してみるのも良いかも。
魔法学校は山の山頂から中腹にかけて建物が存在していた。ならば、水が上から流れる上流の地域に行けば学校に近づけるかもしれない。
痛む体を動かして川の源流を目指す。
川辺には生き物も多い筈。
ヘルハウンドのような危険な幻想生物には注意しなければ。
「――お?」
そうして歩く事、数十分。
違和感に気がつく。
森が異様に静かだ。それに視覚からの情報も寒々しい印象が増えた。
先ほどまで聞こえていた鳥や虫の鳴き声がピタリと止み、心なしか草木たちも生気がないように見える。
何というか……森全体の自然エネルギーが枯れ果てているような。刻一刻と死に向かう病人を思わせる雰囲気が空間全体を満たしていた。
ふと、静寂に包まれる空間に一瞬、物音が響く。
音のした方向を探すと、樹木にもたれ掛かって座る一人の受験生を見つける。
身に纏った制服とローブはボロボロで、本人も微動だにせず生きているのかどうかも怪しい行き倒れの男子。
近づいてみると、その赤毛の頭髪に見覚えがあった。
こいつ。確か入学試験開始直後の空中落下で、風を纏って上手く着地していたあの受験者だ。
すでに合格しているだろうと思ったら、こんなところで倒れているとは。
「大丈夫か? おい、しっかりしろ!」
声をかけるが反応はない。
生存を疑って体に軽く触れると、触れた感触によってか赤毛の少年が呻く。
「……く。……っ!」
「生きてる――! 喋れるか!?」
痙攣する瞼がゆっくりと開き、疲れた色を滲ませた眼がこちらを見る。
「ここ……は……」
「意識が朦朧としているみたいだな。ここは『朽ちぬ神代の森』の試験エリアがある『試しの浅林』って場所だ。お前は受験者で、今は受験中だ。――何があったが覚えているか? 自分の名前は言えるか?」
「……試験。そう、だ。俺は……」
歯を食いしばって立ち上がろうと赤毛の少年は、しかし体に力が入らないのか、身じろぎが精一杯で身を起こす事はできなかった。
かなり衰弱している。顔色は土気色だし、表情から刻まれた疲労がありありと読み取れる。彼もまた、この森の異常な様子と同じで生気がまるで感じられない。
明らかに立ち上がれる容体ではないにも関わらず、少年は何とか立とうと藻掻き続ける。
「くそ……くそっ! 何でだ……っ! 精霊よ、何処へ行った……。なぜ応えてくれない!?」
「無理するな! この感じだと試験続行は厳しいだろ。悔しいとは思うがもうギブアップしろ。今すぐ病院……はあるのか? ともかく医療機関に行った方がいい」
少年の体を支えてあげながら耳元で諭すが、耳を傾ける余裕もないのか、彼は俺にしがみついて踏ん張り続けるのみ。盲目的に立ち上がろうとする彼の様子から一種の混乱状態なのではと思い至る。
一体、彼の身に何があった。というかこの森に何が起きている?
やがて、少年の虚ろな目が俺の姿を捉え、表情に疑問の色が浮かぶ。
「お前……」
「俺? 俺がどうした? 俺が代わりにギブアップして回収班を呼ぼうか? わかったちょっと待ってろ。すぐ――」
「お、お前。何で……、枯れてないんだ……?」
少年がよくわからない動詞を口にする。
彼の眼は見開かれて、理解できないものを見る目で俺を凝視する。
――枯れてない?
「どういう意味だ。枯れるって何だ!?」
「…………」
口を開いて説明しようとする赤毛の少年だったが、唇からは荒い吐息を繰り返すばかりで肝心の言葉は出てこない。もう、喋る事すら億劫なほどに衰弱している。
もしやこれは……現在進行形で衰弱が進行しているのか?
不味い。これは本当に一刻の猶予もないかもしれない。
赤毛の少年の意思を確認している余裕はなさそうだ。
もう彼の為にギブアップ宣言をして助けを呼ぼう。
レナード先生の説明が確かなら、試験官は何処かでこの様子を見ている筈。
そう思い、振り返って背後の風景を見遣った俺は――戦慄する。
「森が……黒く……!?」
少年に気を取られいる間に、森の様相は更なる悪化を辿っていた。
先ほどは何となく緑の大自然に元気がない程度違和感しかなかったが、今や視覚的に森の様子がおかしくなっているのが見て取れた。
樹木も草も萎れてやせ細り、黒や灰色に変質して枯れはじめている。
風は乾燥して死の予感を運び、川のせせらぎはどす黒く汚染された汚水に変質していた。
森全体が死んでいく様子に今まで感じた事のない怖気が去来する。
――これは前兆に過ぎない。本能が震えながら危機を伝えていた。
突如、大音量の異音が鼓膜を震わせ、耳から侵入した音が脳を侵す。
「――っ! この音!」
サイレン音に似た煩わしい高鳴りが静寂を切り裂く。
何度か聞こえていたあの音だ。最初は聞こえるかどうかという少量の音だったそれは、もはや憚る事も知らずに爆音を森中に響かせている。
迂闊だった。なぜ気づかなかったのか。
――これは鳴き声だ。
出会ってはいけない何かが発する鳴き声。まさに危険を告げるサイレン音。
空間を震わすほどの音量。音源はそう遠くない事が嫌でもわかる。
とてつもない最悪が訪れる。
それは目前に迫っていた。
「……っ!」
「ぎ、ギブアップ……は、もう、意味がない……っ。俺たち、を、監視している使い魔は……死んでる……。宣言、しても……む、無駄……だ」
体に残った最後の力を総動員しているのか、今にも死にそうな必死さで言葉を紡ぐ赤毛の少年。死相が浮かぶ少年は顔に恐怖を張り付けて必死に俺に縋る。
「俺……を、担いで、に……逃げろ……っ! 奴が……奴……が、…………来る、前にぃ!!!」
「――っっ!!」
問答の余地がない事は本能が理解していた。
不吉な予感で震える手を使って、何とか赤毛の少年を背負う。
まずは森の異常から少しでも離れよう。俺は川の下流の方から来た訳だからその方向に逃げれば今よりはマシになる筈。魔法学校からは離れてしまうかもしれないが、ともかく今は逃げる事が先決。このサイレン音から一刻も早く離れて、学校側がこの異常に気が付いてくれる事を待ちつつ、何とか逃げ回って、走って走ってこの嫌な予感から逃げ――――
――――――どろり
「――――あ」
背後。
水性を感じされる何とも言えない異音と、鼻をつく悪臭。
獲物を恋焦がれるように響いていたサイレン音が、ピタリと鳴り止む。
無音が耳に痛い。振り向かずに今すぐ走り出したらいい筈なのに、逃れられない運命に引っ張られるように顔を背後に向けてしまう。
――――ごぽり
生き物の姿ではなかった。
目も、耳も、鼻も、口も、顔も、毛も、手も、足も、何一つ存在しない。
そして汚かった。汚濁の極みとなり、触れる物を犯し、汚し、食らう。森の風景を飲み込んで己の一部とするほど大きく。多く。蠢いていた。
不定形の塊であるそいつは、周囲一帯から色を奪い。汚れた灰色である自らの色に塗り替えて大地にへばりつき、脈動して零れて流れる。
そいつは――俺を見た。
感覚器官を備えない形なき粘液状の怪物に、外界の存在を感じる術などない筈なのに、そいつの意識に俺の存在が引っかかった事を直感する。
『ゲームとかだと序盤の雑魚にされがちだけど、幻想生物上のスライムって普通に災害級のヤバいエネミーな訳。ないとは思うけど、もし虎太郎が初見で「こいつスライムじゃん!」と思った相手に出会ったら、――全力で逃げる事ね。存在する幻想生物でスライム状の奴は一種類しかいない』
在りし日の魔耶との雑談が脳裏によぎる。
印象に残った会話だったのでよく覚えていた。
確か、彼女はその後に名前を言っていた筈だ。その存在の名は――
「――――『ラプチャー』」
歓喜。あるいは終末の奇跡を意味する名を冠した、破滅を呼ぶ幻想生物。
周囲全てから魔力、生命力、精神力を吸い上げて枯渇させた後、枯れ果てた全てを飲み込む大食いの怪物がそこにいた。




