013_不法入国の疑い
「何で俺が拘束されないといけないんですか!?」
邸宅二階にあるお洒落な雰囲気のある事務所の一室で、俺は荒ぶる怒りのまま事務机をバンと叩く。
そんな俺を冷ややかな態度で見遣るのは、机の向かいので事務椅子に優雅に座る恰幅のいい中年男性。
堂々とした態度で部屋の主が誰なのかを示す男性は、こちらの剣幕にも一切動じる事なく、ゆっくりと葉巻を口元に持っていき煙を吸う。そしてマイペースに煙を吐いた後、しばらくの沈黙のうちに重い口を開く。
「さっきも言っただろう、小僧。二度も説明しなければわからんのか」
呆れたように嘆息する恰幅のいい男性――保安官は、もう一度葉巻を吸って煙を吐く。
副流煙が俺の顔辺りに漂ってきて、思わず顔をしかめる。
「……小僧。貴様には我が国への不法入国の疑いがかかっている」
ぶっきらぼうに、手を煩わせやがってと言外に苛立ちを露わにする保安官。
「よって身の潔白が証明されるまでは貴様を拘束し、場合によっては然るべき機関へ引き渡す事になる。――理解したか?」
「だ、か、ら!! 事情は何度も説明しているでしょう! ちゃんと入国の手続きは俺の主である魔耶が済ませていました! ただ、こっちの世界に来る時の転移事故で魔耶とはぐれてしまっているので、それを証明できるものは今は持ってないだけです。魔耶を探していただければちゃんとした書類は出せます!!」
「そっちの事情は知らん。私にとってハッキリしている事は、貴様が他世界の住民である事と、我が国への入国許可を示す書類を貴様が提示できない事、その二つだけだ」
こちらの主義主張を一切考慮せず、自分の都合のみで事を進めようとする保安官の言動に、俺は悔しさで両拳を白くなるまで握りしめる。
腸が煮えくり返る思いだ。
何故こうなってしまったのか……。
保安官の言い分も一部理解はできる。そこは別にいい。
外国人がパスポート等を持っていないのは流石にまずいのだろう。身分の証明できない他国の人物を拘束するのは、当人としては困るがまだ納得できる範囲だ。
……問題は、俺を不法入国者と決めつけてかかっている事。
そこが何より許せない。
魔耶を探してもらえば俺は身分を証明する事ができるが、こいつはその可能性をそもそも見ていない。最初から俺を務所送りにする事しか頭にはなく、そもそも自分にとって都合の悪い話は嘘だと断じている節すらある。
魔耶が近くにいると仮定して、少し探せば見つかって身分を証明できる。それを保安官自身が知っていたとしても――こいつはきっと、それをやらない。
俺を助ける気がない。やる気がないんだ。
その怠慢の気配を肌で感じる。こちらを軽んじる雰囲気。
――当事者の言い分に耳を貸さず、無実かもしれない人間を悪として裁く。
これを腐敗と言わずして何というのか。
歯が割れるかと思うほど噛み締めていた口から、力を抜く。
「……。本当に駄目なんですか? 助けてはくれないと?」
「まず、最低でも入国許可証に身分証明書と就労または学業滞在許可証を提示してもらわねば話にならん。それさえ確認できれば、まあ、場合によっては貴様の保護者を探してやっても構わんが……、もしもの話をしても意味がない。貴様はそれを持ってないのだから」
取り付く島もない保安官の言葉に、俺はガックリと肩を落として椅子に座る。
まさかこんな事になるとは。
こうなるとわかっていたら来なかった。
アポなしの訪問であったのに無事に保安官に取り次いでもらえたところまでは良かったが、流れが変わったのはこっちの事情を説明した直後。
書類の有無を聞いてきて、素直に持っていないと言ったらいきなり逮捕扱いだ。
諸々の書類に関しては魔耶が用意していたのは見ていたし、何かそんな書類があるみたいな話は事前に聞いていた。だがあれは魔耶のスーツケースの中だ。今手元には何もない。
異世界は俺が思っていた以上に、憲法や法律がしっかりしている様子。
思い返せば、セイラと話している時のもそれを伺わせる話題があった。そこから考えを広げていれば、今の俺の状態で警察機関に頼るのは良くないと思い至れた筈。完全にぬかった。
文字通り頭を抱える俺を、見慣れた様子で見下す保安官は葉巻の火を消して、「さて」と立ち上がる。
「では、貴様には地下牢に入っていてもらう。沙汰が下るまで待つがいい」
「――っ!」
諦めるわけにはいかない。何か反論しなくては。
そう思って口を開くが、ストレスで乾いた口腔からはうめき声以外の何も出ず、万事休すかと考えたその時――
『お待ちください。保安官殿』
俺のすぐ傍から魔耶の声が聞こえた。
雷に撃たれたかのような衝撃が俺の体を駆け巡る。
慌てて周囲を見渡すが魔耶の姿は何処にもない。
状況が呑み込めず混乱するが、けれど、今のを聞き間違える筈がないだろう。
間違いなく魔耶の声だ。しかも至近距離から聞こえた。
一体どういうからくりで魔耶の声が聞こえたのかと諦めずに周囲をキョロキョロ確認していた俺は、顔をしかめる保安官の視線に気が付く。
彼が見ているのは俺のお腹……、いや、右腕?
『虎太郎、こっち』
俺のすぐ傍。
正確には右腕から聞こえてきたその声に、恐る恐る視線を右腕に落とす。
「――ひっ!」
情けない引きつり声が俺の口から漏れる。
右腕の左手首と肘までの間のちょうど中間。そこに人の唇が生えている。
唇は見られていると気づいたのかニヤリと笑い、その奥に舌と歯がしっかりと用意されているのが覗き見えた。
慣れ親しんだ自分自身の体に見知らぬ異物が生えているという状況に、驚くと共に生理的気持ち悪さが背筋を上って総毛立つ。
「ま、魔耶なのか……?」
『私以外の誰がいるっていうの? それとも虎太郎には体に二つ目の口のお友達でもいるのかしら』
クスクスと笑ってこちらを茶化すそのセリフ。間違いなく彼女だ。
安堵の想いが胸中を溢れると同時に、一体、今の俺の体はどういう状況なんだと疑問が先に立つ。生まれ持った一つ目の口はちゃんと口元にあるわけだし、これ本当に俺の腕に魔耶の口が生えているのか?
好奇心。あるいは怖いもの見たさの為、おっかなびっくり左人差し指で唇に触れてみる。
『がぶり』
「噛んだああーーっ!?」
『乙女の唇に指を突っ込むだなんて、最低ね虎太郎。次やったら嚙み千切るから、そのつもりで』
割とシャレにならない強さで噛まれて、慌てて指を引っ込める。
イタリアにある真実の口なんか目じゃないほど獰猛な口だった。
咬合力は十分である。
何の脈絡もなく唐突に、俺の体に生えた魔耶の唇は「ではでは」と言って、話す相手をチェンジする。
『このような姿でお話を続ける事をお許しください、保安官殿』
「ふん。肉体構成組み換えの魔法か。随分と気色の悪い方法で連絡を取ってくるものだ。……だがまあいい。保護者が出てくるのならそちらと話をつけるまでだ」
『ええ、そうしましょう。どうやら私の連れがお世話になっているようですし』
一応の敬語で保安官と対話する魔耶の唇。
保安官の方も俺の体に生えた唇に対して、特に驚いた様子を見せる事なく淡々と対応している。流石は神秘中央世界の住民という感じだ。
ちなみに耳は何処にも生えてなさそうだが、唇に向かって話してもいいのか?
そんな事を思案しながら念の為に確認する。
「おい、魔耶。ちなみに今の状況はわかっているか……? 話はどのくらい聞いていた?」
『虎太郎が、何で俺が拘束されないといけないんですか!? って言ったあたりくらいかな。大丈夫、状況なら理解しているからあとは任せて』
頼もしい魔女の返答に、これ以上は俺の出る幕はないかと考えて頷く。
こっから先は静観モードで様子を見よう。
保安官が新たな葉巻に火をつけて、
「貴様、今どこにいる? この男の保護者が貴様だというのなら、責任をもって引き取りに来い。もちろん、この男の必要書類は持参してだ」
『はぁ。――それは何故?』
「何故だと!? 話を聞いていたのではなかったのか! 何度も言わせるな! この男は別世界からの我が国に入国したにも関わらず、必要な書類を持参していない! 入国許可証、身分証明書、就労または学業滞在許可証。最低でもこの三つは持って来いと言っているのだ!」
『なるほど。どうやら保安官殿は勘違いしているご様子』
「――なに?」
苛立ちを露わにして怒声を飛ばす保安官に、唇は憐れみを含んだ声で応答する。
訝しむ保安官に対して、ゆっくりと落ち着いた口調で魔耶が喋る。
『保安官殿。彼は私の使い魔です。使い魔を国外から持ち込む際、使い魔自身に身分証も許可証も必要ないのでは? それらが必要なのは使い魔を使役する魔女の方でしょう?』
「この男が――使い魔だと?」
『目の前でご覧になればわかる筈ですが……ふふ。まさかわからないのですか?』
挑発するような物言いに、保安官が額に青筋を立てて俺を睨む。
しばし、その怒りの視線に晒されていた俺だったが、舌打ちと共に保安官の目線が魔耶の唇に移る。
「しかし。法令では使い魔の持ち込みには認可証が必要だ。この男はそれを持っていないではないか!」
『特定使い魔認可証なら私の手にありますよ、保安官殿。認可証を使い魔自身が持たなくてはいけないという法令はない。そして、国外からの使い魔不正持ち込みを疑うのならば、使い魔自身ではなく、主の私に問い合わせるのが筋というものです。それを無視して不当に私の使い魔を拘束し続けるというのなら、それは魔導法二十六条の使い魔使役法に違反するのでは?』
良く回る魔耶の舌に、保安官の顔が少しずつ赤くなっていく。
よくわからない単語が出てくるので正当性は俺には理解できないが、それでも保安官が魔耶に論破され始めているのはわかる。
茹でだこのような風貌になりつつある恰幅のいい保安官は、怒りのままバンと事務机を叩く。
「な、ならば! 貴様が代わりにここに来て認可証を提示すればいい!」
『生憎と、私はグラズヘイム魔法学校への入学を控える身。私は今現在、グテールバルド麓町にいますので、今から向かうとなると最短でも一日はかかります。
――そして、ご存じないかと思いますが入学式は明日となっています。
私は諸事情あって魔導委員会経由で推薦入学を受ける事になっていますので、私のみの事情で予定に穴を開けるわけには行きません。どうしてもと言うのなら都合をつけますが、その場合は委員会の方にも事情を話しますがよろしいですか?』
「ぐっ! それは……」
痛い所を突かれたという様子で、表情を歪める保安官。
どういう理由があるかは知らないが、この保安官は自分の管轄に魔導委員会が絡んでくるのは避けたい様子だ。何か後ろめたい事があるのか……あるいは、純粋にお上に面倒事の話を持っていきたくないのか。それはわからない。
俺にわかるのは、保安官にとってこの話の流れは不本意であるという事だけ。
「…………なぜ魔導委員会に話を通さねばならない? これは貴様と貴様の使い魔が起こした不祥事であろう。その事にいちいち委員会を巻き込むのは――」
『ですから、入学するまでの間は私の身柄は魔導委員会預かりになっているのです。今、私がいる宿舎も魔導委員会が用意していただいたもの。今後の予定を変更するならまず委員会の方に相談しなければ何とも……。
ご心配しなくても、同じ宿に私の担当官の方がいらっしゃりますので、相談だけならすぐ済みます。今すぐにでも――』
「ま、待て――!」
『はい? 何か?』
今にも噴火してしまいそうなほど真っ赤になった保安官は、しかし、悔し気に呻くばかりで次の言葉を引き出せない。
押し黙ってしまった保安官に、魔耶が唇を歪ませてニヤリと悪い笑みを浮かべる。
『どうやらご都合が悪い様子。――ならば、あまり大きな声では言えませんが、私から提案させていただきます』
「……何をだ」
『この一件。なかった事にいたしませんか? お互い他言無用という事で』
話の着地点を模索し始めた魔耶に、保安官は唇を睨みつける。
『私も忙しい身の上なので、これ以上この件に煩わされたくはありません。なのでここは、今日、目の前の男は保安官事務所に訪ねてこなかった……という事で終わらせてしまいましょう。お互いの安息の為に』
「…………ちっ。魔女め」
保安官が吐き捨てるように悪態をつく。
返答を待つ魔耶を無視しながら、葉巻を一服した保安官はギロリと俺を見遣るが、やがて俺の後ろの方に視線がゆく。
彼が火のついた葉巻を軽く持ち上げると、その煙が不規則な軌道を描きながら空気中を流れていく。
俺の頭上を越えた葉巻の煙は、最後に事務所の入り口――正確にはその錠前の中に吸い込まれると、カチリという音とともに施錠が解除された。
保安官がふんと鼻を鳴らす。
「さっさと俺の前から消えろ。二度と現れるな」
『賢明なご判断。ありがとうございます』
「ったく。白の魔女の怪盗騒ぎで忙しいという時に、余計な一件を持ち込むとは腹立たしい……」
……怪盗騒ぎ?
保安官の最後のぼやきが気になったが、これ以上何か言えば藪蛇になるのは目に見えている。
椅子から立ち上がって、葉巻を吹かしながらこちらを睨む保安官に軽く会釈しながら、触らぬ神に祟りなしといそいそとその場を後にした。