011_ようこそ異世界
最初に感じたのは足裏から伝わる固い地面の感触。
立っている。そう認識した後、次に肌を撫でる空気の感触に意識が向けられ、先ほどまでとは違う空気の冷たさと湿度の変化に、今までとは別種の空間に自分がいる事を実感する。
足裏の感触に空気の感触と来て、最後に認識したのは音。――喧騒だ。
多くの人の足音、話し声、ざわめき、紙の擦れる音、車輪が地面を転がる音、食べ物を口にする音、子供の笑い声、くしゃみの音、重いものが落ちた時の音、風が看板か何かを揺らす音、軽い金属音、鳥の鳴き声、水の流れる音、木の葉の揺れる音、そして音楽。
瀑布のように両耳に流れこんでくる数多の情報。
煩いまでの人々の営みの音に、俺は薄く笑みを浮かべて閉じていた瞼を上げた。
「――――ああ」
耳が拾う音ですらパンクしそうなほどの情報量だったのに、この光景ときたら、
「――――――凄い。ここが」
異世界。
何もかもが元いた世界とは違う。――俺たちの新天地。
多くの人が行き交う大通りのど真ん中で、周囲から胡乱な目で見られる事すらも気にならずに、俺は両手を広げて世界の広さを堪能する。
何から意識を向けたらいいものか。そこに広がる何もかもが興味を誘ってくる。
まずそこら辺にいる人々が違う。見渡す限りかなりの数の人が様々な目的をもって行動しているが、様々な髪色に髪形、日本人離れした顔のつくり。見た目の話をするならば、来ている服装も現代日本ではまず見ないような時代錯誤ない衣服だ。一見すると中世ヨーロッパ風かと思ったが、一貫はしておらず、様々な国の文化の特徴が入り混じっている。
というか、人間じゃない人まで混じっている。犬が服を着て二足歩行していたり、肌の色が緑の人だったり、成人男性の腰位しかない身長のおじさんがいたり、と選り取り見取りのオンパレード。
次に建物だろう。これまた中世ヨーロッパ時代を思わせる。白い壁に木材が十字に組み込まれているこの建築物。確か木骨造とか言ったか。街並みの雰囲気もそういうイメージが基本となっている。期待を裏切らないファンタジー感だ。
見上げれば空の色も少し変だ。青いのは日本と同じだが、やや黄色や緑がかっていたり、雲がかかるところによっては紫も少しあるか。
空気の味が少し甘いような気がするのも、大気の性質が違ったりするのだろうか。興味深い。
とは言え、ここまではいい。
実に心弾ませる風景だが、やはり一番目を引いたのは、
「――魔法。やっぱり日常的に使われているんだな」
いざ目にすると非常識なものだと実感する。
今、俺がいるのは露店市場のような場所で、いくつもの商いがあちこちで繰り広げられているが、そんな日常の中でも魔法が溢れている。
――商品の果物を置かずに、宙に浮かせて客に売り込む果物売り。
――絶えず模様が変化している壁紙を自慢げに客にアピールする壁紙売り。
――店の前で箒に跨って宙に浮き、使い心地を試している客を見守る箒売り。
――盗みを働いた悪ガキに、稲妻を矢のように飛ばして捕まえる貴金属売り。
誰も目の前で起きている魔法に驚く素振りを見せない。
彼らにとって日常なのだ。
神秘が当たり前の世界、神秘中央世界ユグドラシル。これから、この世界にいる人々の中に混じって生活しなくてはならない。そう思うと、感動に震えていた心がわずかに引き締まり、緊張感が芽生える。
そこで、ようやく気が付いた。
――魔耶がいない。
「魔耶? おーい! どこにいるんだ!?」
周囲を見渡して声を上げるも、姿は見えず、返答は帰ってこない。
数十秒ほどの間、何か状況が変わるかと期待してしばらく待ったものの、魔耶が物陰から姿を現す事はなかった。
やがて背中に嫌な汗がにじむのを感じ、興奮していた心が急速に冷え込んで凍り付くのを実感する。
どうやら……魔耶とはぐれた、らしい。
俺は頭に手を当てて、どうしようもない現実に嘆息する。
あれほど失敗しないよう気を付けたのに、何故こんな事態になった?
一番あり得るのは、魔耶とは別の場所に転移したという事態。
枝葉の門による転移の失敗だと考えると原因はイメージ不足? いや、これ以上ないってくらい魔耶をイメージして触ったはずだ。落ち度があるとは思えないのだが、しかし現実として魔耶は近くにいない。
門自体は同じところで実施したから、ユグドラシルという世界内にいるの間違いないと思うが……。
思考を巡らせていると、ふと、周囲の人々が俺に近づいてくるのに気が付く。
「おい、どうした坊主? 何やら喚いていたが――迷子か?」
「急に道の真ん中に現れたみたいだけど、もしかして旅行者の方かしらぁ? 今日、泊るところある?」
「いやいや、腹が減ったんだろ! 見てりゃあわかるぜ。なぁ兄さん! うちの商品見ていくかい?」
「……道にお困りなら僕が案内できますよ……格安で」
四方八方から俺に向かって投げ掛けられる言葉。
好意的な声音で親切さを感じさせる態度。
しかし、彼らの目の奥に光るたくまし過ぎる商売魂に一瞬、息が詰まる。
俺を取り囲むようにフォーメーションを組んで話しかけているのは逃がさない為だろうか。やや頭頂部の薄い男性に、妙齢のお姉さん、汗を額につけた好青年に、襤褸切れをまとった少年。
皆笑顔だが、威圧感が半端ない。
言葉は……幸いにも理解できる。
これは確か、聖クウィントル語だ。
俺が話せる日本語以外の二つの言語の内の一つ。特にこっちはル・ターク語よりも得意なので日常会話レベルなら問題なくできる。ただ、ちゃんと習った訳ではないので残念ながら読み書きはできない。
こっちの世界で暮らすなら今後勉強を行う必要があるかもな。
ともかく、親切な彼らには誠実に対応しなくては。
脳中を日本語モードから、聖クウィントル語モードに切り替えて顔を上げる。
俺はポケットを裏返して見せながら、できる限りの笑顔を浮かべた。
「実は無一文なんですけど、それでも道の案内と食べ物と泊る場所――お願いしちゃって大丈夫ですかね!!??」
その言葉を喋り終わるや否や、俺を取り囲んでいた人々がスッと自分の持ち場に戻る。
まるで示し合わせたかのような流れる動作で所定の位置に帰った彼らは、何事もなかったかのようにそれぞれの営みを再開する。それ以降、まるで俺をいないものとして扱う徹底ぶり。
どうやら金なき者はお呼びではなかったらしい。
予想通りの反応だがここまで露骨とは。
別に彼らの心が狭いわけではない。これが普通の反応だろう。
親切心だけで飯は食えないし、日々の銭を稼ぐ彼らにとってただ働きは死活問題なのかもしれない。
「さて、これからどうするか……」
今のコントがあったおかげで不安が少し収まった。
今後の事を考えよう。
少なくとも言葉が通じる。これはデカい。この要素がなかったら絶望的状況だっただろう。それに比べれば現地人と会話可能というのはイージーモードだ。
逆に良くない面は先立つものが何もない事だろう。今の出来事がまさにその例。お金も売れる物もないので、こっから先はコミュニケーション能力だけが生命線。言葉巧みに現地の人と交渉しなくては何も始まらない。一人でできる事なんてたかが知れているのだから。
俺はこっちの世界の常識もなにもわからない状態。まずは情報を集めてこの世界の事を知りつつ、魔耶の居場所を調べる。そうして、何とか魔耶と合流する。それがとりあえずの目標になるのだが……。
「結局どうすればいいんだろうな、これ」
今、何をすればいいのかが見当つかない。そこが重要だというのに。
とりあえず、道の真ん中に突っ立ったままというのも何だ。
他の人の通行の邪魔なので何処かの日陰に行こうかなと、周囲を見渡すと――。
「あの……。すみません!! 困っているんですよね?」
「え?」
可愛らしい鈴の音色のような声。
その声の方向へ振り向くと、立っていたのは三つ編みおさげの年若い少女。
俺と同年代か一つ二つ年下くらいの見た目で、身長は低く結構小柄。村娘と言った感じの地味な服装を身に纏った彼女は、その衣服も相まってどこか垢ぬけない印象を受ける子だった。
何となくだが、この市場の雰囲気から若干浮いているような印象を受ける。
世間慣れしてないというか、そういうイメージ。
ニコニコと笑顔を浮かべる少女に、俺は照れ隠しで頭をポリポリと掻く。
「あー……。ごめん、さっきの俺の発音聞き取りにくかったかな。えっとね。俺は無一文なんだよ。だから俺を助けても見返りは貰えないし、ただ働きする事になっちゃうよ?」
さっきのセールスと同じ類の輩かと思い、先ほどの説明を皮肉なしで伝える。
俺の説明に、しかしキョトンとした風に不思議がる少女の反応に、また上手く伝わってないのかと心配になる。
「い、いやだからね――」
「ああ! いえいえ、ちゃんと聞こえてますよ! お金を持ってない事はわかりました。でも、無償で助けていいなら問題ないですよね? それ」
「え?」
何を言っているんだこいつは?
まさか善意だけでどこの誰ともわからない俺を助けようという事だろうか。
異世界だろうと諸行無常は健在だと実感したばかりだというのに、直後にこんな都合がいい事が起きていいのか。俺は本当に何の見返りも出せないんだぞ。
まあ、魔耶と再会できれば何かお返しできるかもだけど。
向こうはそれを知らない訳だし……。
――まさか、俺の体が目当てなのか?
無一文でも健康な体なら売れるって事なのか!?
こ、こんな年頃の少女がそんな恐ろしい事をするのか。異世界って……。
目の前の少女が魔法で俺の体をパックリ割って、体中から内蔵を抜き出す光景を幻視してしまい、思わず口角が震える。
臓器売買業者を疑う俺の不躾な視線に、少女は笑顔を絶やさないまま小首を傾げたのだった。