010_別の物語
初めて虎太郎くんに出会った時の衝撃は、いまでも鮮明に思い出せる。
雷に打たれたと錯覚するほど衝撃。
呼吸を忘れ、瞬きを忘れ、ただただ目の前に現れた運命に心囚われる。
これと言って予兆もなく唐突に、けれど今思えば出会うべくして出会ったと確信を持って言えるその人は、まさに地上に顕現した星の輝き。
その光によって私の心は焦げつき、二度と癒える事はない。
私は悟った。今まで気が付かなかっただけで、私の日常には決定的に欠けていたものが存在したと。
さして人生の目的もなく、周囲にこうあれと望まれるがままにフラフラと生きていたけど、今となってはあまりにも馬鹿馬鹿しい。
――彼だ。彼こそが私の特別。無味無臭で無価値な私の人生を意味あるものする存在。彼の事を思えば胸が高鳴り、彼の事を考えればいくらでも思考を回転させ続ける事ができる。どれほど心と思考を占領されようとも、決して飽きる事も枯れる事もない。
彼に出会うまでの人生はくだらないものだった。
実の両親は私が幼い頃に他界し、父方の兄である叔父夫妻に引き取られたのが八年ほど前の事になるか。
彼らは最悪とまでは言わないものの親としては褒められたものでなく、あまり私に関心を示さない人たちだった。私を引き取ったのも他に親戚で私を養えるだけの余裕がある人がいなかったら仕方なくであり、不自由なく育ててはもらったものの彼らからは親子の暖かさを感じた事はほとんどなかった。
それでも育ててもらっている恩がある。だから私は彼らが望む手のかからない優等生を演じ続けてきた。
いや、彼らだけじゃない。私は周囲が望むとおりの人格者の仮面を常に被ってきたのだ。中学から高校まで、毎年、委員長を担当しているのもそう望まれてきたからに他ならない。特にこれといった理由もなく、私はそういう風に振る舞うのが癖になっていた。
本当の自分がわからない。他人に求められる自分が「本当」になるのだろうか?
きっとそれは違うのだろう。
常に感じてきた。「今の私は何かが違う」と、そしてこうも感じていた。「私と私以外の人間は似ているようで違う生物だ」と。
その違和感は結局、今に至るまで何も変わらなかった。やはり私はどこかおかしいのかもしれない。私は異質だ。
だから仮面をかぶって生きていくのが最善なんだと。自分と心通わせる事ができる相手なんて望むべくもない、と。
――でも。しかし。
その孤独は終わった。
虎太郎くんに出会った時、止まっていた私の時間は動き出した。
何故かはわからない。理由を説明できる自信はない。でも、断言できる。
虎太郎くんは私の運命を変える人。この広い世界でたった一人の――同類だ。
彼に出会ってしまった以上、もう知らなかったあの頃には戻れない。
今まで見ていた世界は色褪せて、虎太郎くんだけが色鮮やかに輝いている。
ああ、貴方こそが私の全て。生きる希望。
俗物的な言葉で言い表すのは、彼にとっても失礼なのであまり言いたくはないけど――――要するに、一目惚れだった。
私、黒沢禍恋は――白瀬虎太郎くんに恋をした。
――呪いのような恋を。
* * * * *
「なんで? どうしてかな? 何ゆえに? どういう理由で? ああ、もう全く! なんでなんでなんでなんでなんで!!? なんで――こんな事にぃ!」
帰宅早々、自室に直行した私は愛用の机に両拳を叩きつけ、そのまま机上の私物を床にぶちまける。
それでも怒りは収まる事を知らず、激情に流されるまま落ちた本やティッシュ箱を、踏みつける、踏みつける、蹴り上げる。
「あああぁ!! 最悪っ! 最っ悪!! こんな事があっていい訳がない!」
本日の出来事を思い出し、悪夢のような現実に頭を抱える。
虎太郎くんが高校を自主退学する。
その事実が頭の中をグルグルと巡り離れない。
一分一秒でも多く彼の隣にいたい。けれど、学校で彼と会えなくなってしまう。
唯一にして最大の接点がなくなってしまったら、自然と疎遠になってしまうのは目に見えている。
ただでさえ彼にとっての私は単なるクラスメイトか、頼りになる委員長というだけの存在でしかないのに。その立場を失ってしまったら一体、何時、何処で、どうやって定期的に会えばいいと言うの?
面と向かって特別なアプローチをしなかった事を今になって悔やむ。
こんな事なら、体裁なんて気にせずにガンガン行けばよかった。
人並みに恥ずかしがったり、変な奴だと思われたくないだなんて臆病になっていた自分に心底失望する。
彼なら――私の本性を理解してくれるとわかっていたのに!
ああもう! 何もかもにムカつく!
思い通りにならない現実にも、上手く立ち回れない自分にも!
ドン! と床を強く踏みつける。
足の裏を突く鈍い痛みに、少しだけ怒りが収まる。
「……落ち着け。馬鹿か私は。愚図め。私の愚図野郎……」
胸中に渦巻く怒りが冷静な思考を阻害している事を自覚し、暴れる感情を深呼吸で整える。
そもそもどうしてこうなった?
退学の詳しい理由はわからないのはどう考えてもおかしい。
学校側に問い詰めたが、なぜか担任教師の田中も事情をちゃんと把握していないのか、要領を得ない話しか聞けなかった。
虎太郎くんが何かはぐらかしているだろう事は態度で察したし、東山さんについての件は無関係と言い張っていたけど、明らかに嘘をついていたと断言できる。
そう、虎太郎くんと東山さんの繋がりは特に不自然。
普通、全く同タイミングで退学するとかある?
「やっぱり。そうでしょ? ねぇ、東山さん、貴女のせいなんでしょ?」
私は知っている。――東山魔耶。彼女は虎太郎くんにとって特別な誰かであるという事を。
血の繋がった家族ではないのにも関わらず、同じ屋根の下で暮らしていると判明した時は本当にショックだった。義理の姉妹のような関係性なのだろうけれど、そんな事情は関係ない。同性というだけで論外でしょうに。そこに男女の関係以外の何があるというのか。
そんな人に対して好印象を持つなんて無理。
当然、私は東山さんが嫌いだ。
私には委員長としての立場がある。今となっては役割なんて正直どうでもいいけど、虎太郎くんも委員長として働き者の私を褒めてくれるし、クラス内で役割があった方が何かと都合がいいから、結局、今日まで委員長として振る舞ってきた。
だがら表立って東山さんに対して敵愾心をあらわにする事はしなかったけれど、流石にこんな横暴は許されない。
虎太郎くんは貴女のものじゃない。だというのに――、
今度は私から彼を引き離そうと言うのか。
「許さない、絶対に」
歯が砕けそうなほど強く嚙み締めて、部屋に備え付けのクローゼットを開け放つ。
視界に飛び込んでくるのは虎太郎くんの写った無数の写真。クローゼットの壁一面にびっしりと張り付けられている写真を眺め、少しだけ心に安らぎが訪れる。日常のふとした瞬間を切り取った虎太郎くんはとても素敵だ。自分が撮られていると気がついていない無防備な様子は可愛くて愛おしい。
それと、心痛みながらも大儀の為に拝借した虎太郎くんの私物。棚の上に飾ってあるそれを丁寧にどけて、奥からリュックサックを取り出す。
中身は日課をこなすときに愛用しているちょっとした小道具だ。変装用のウィッグ、衣服、スニーカーとか、そんなの。
とにかく居ても立っても居られない。
まずはいつものように虎太郎くんの様子を見守りに行って、ついでに事情を探らないと。
いきなり今日で退学になったのには何か理由があるはず。つまり、今日もしくは明日あたりに何か重要な用事があるからこそ、急いで手続きしたと考えられる。その場合、嘆いたり悩んだりしている場合じゃない。すぐに行動を起こさないと。
焦燥感が身を焦がす中、私は外出の為の準備を開始した。
* * * * *
「……奇妙」
思わずつぶやいた言葉。
無意識から漏れ出た自分のセリフに、内心で頷き返す。
そう、奇妙な状況だった。
いつも行う日課の通りに、虎太郎くんの自宅(クソ女の自宅でもある)を張り込みしていたら、買い物した帰りなのかスーパーの買い物袋を提げて帰宅した虎太郎くんと東山さんの姿を発見した。
自宅に入ってしまったので、いつもの定位置である向かいのビルディングの非常階段から双眼鏡で室内を覗いてみると、明らかに引っ越しの為に荷造りが済んだ空っぽの部屋で、二人は何やら料理をしている様子が確認できた。
ここまでは別に問題なかったのだが、この後の行動が何やらおかしい。
料理が済んだと思ったらその料理を入れた大鍋をもって二人は外出し、南の方角へと足を進めた。
そして、もうすぐ日が暮れるという時間帯だというのに、暗い林の中に入っていくではないか。
意図の読めない行動に疑問を感じつつも、見失う訳にはいかなかったので私も四苦八苦しながら林の中を進んで見つけたのが、木々の開けたちょっとしたスペースにある一軒のプレハブだった。
中から二人の気配を感じて恐る恐る様子を伺うものの、窓は汚れて室内が見えないし、声も微妙に聞こえない。
僅かに漏れる音から、何かを話しているように思うのだが意外とこの小屋は防音が効いていた。
少し悩んだ末に、とりあえず私はその場に待機する事を選択する。
どういう理由があってこの場所に来たのか見当つかないが、まさかエアコンも照明もない場所で一夜を明かすという事はないはず。しばらく待っていれば出てくるだろう。という希望的観測に基づいた選択。
――だが私はこの選択を後に後悔した。
私は物音を立てないように気を配りながら、林の中で待つ事二時間。
そう。二時間だ。周囲は闇に沈んでまともに視界が効かない状況で、虫やら何やらがそこら中に飛んでたり這ってたりする中、辛抱強く隠れる事実に百二十分。
疲労はピークに達して、我慢の限界はとうに超えていた。
なぜこんな場所でひたすらに我慢していないといけないのか。こんな事、年頃の女子高生がやる事じゃない。
「……というか。気配が感じなくなっているのは気のせい?」
囁くように独り言が口を突く。
いつの間にか、小屋の中から微かに聞こえていた話し声もしばらく聞いてない。
出入りは確認していないので、二人は中にいるはずなんだけど……。
本当にいるのだろうか?
一度そう思い始めるとそればっかりが気になってしまい、焦燥感に精神が引っ掻き回される。状況から間違いなく中にいるはずなのだが、小屋からは光もなく音もしない――まさか寝ている?
「…………。……よし」
思い切って小屋に近づいた私は、即座に隠れられるよう準備しながら入口の扉を軽くノックする。
トン、トン、トン。と三回の叩く音が響く。
サッと身を屈めて耳を澄ますが、――反応はない。
小屋の中は異様なまでに無反応を貫き通していた。
異様な状況に眉根を顰めていた私は、ふと触れた扉のドアノブの感触から鍵がかかっていない事に気が付く。
不用心な事だったが私にとっては僥倖だった。こんなチャンスを見逃す訳もなく、細心の注意をはらってゆっくりと静かに扉を引いて中を伺う。
そして目の前の光景に、驚きで目を見開いた。
誰もいなかったのだ。
小屋の中はよくわからないガラクタがあるばかりで人の姿は欠片もない。
ガラクタの隙間に隠れているとか、そういう話でもなく数坪分の小さな空間には全くと言っていいほど人が身を潜める場所はない。
完全な密室から、人間二人が忽然と姿を消していた。
呆気にとられた私は、慌てて小屋から出てその周りを一周するがやはり人が通れる出入口は見当たらないし、周囲に人影も確認できない。
小屋内に戻って抜け道のようなものがないか見渡すが、そんなカラクリ屋敷のような仕掛けがある訳でもなかった。
まさか……最初から小屋の中には誰もいなかった?
いや、それはないはず。
確かに二人が小屋の中に入る瞬間は見ていなかったが、話の内容は聞き取れずとも確かに二人の声が室内から聞こえたし、少し前まで懐中電灯の光のようなものが中から漏れていたから、誰かが小屋の中にいたのは確実だ。
証拠も――ある。
ガラクタが放置されて足の踏み場も少ないプレハブの室内、そこに敷かれていた二人分の寝具に軽く触れる。
ここに放置されている物でこれだけ埃を被っていない。しかも触れてみると微かに温かく、先ほどまで誰かが使用していた事を裏付けていた。
勘違いじゃない。間違いなくここに二人はいた。
「……なのに」
何処にもいない。
いくら思考を巡らしてもその事実を説明する推理が導き出せない。
人間二人が密室で蒸発した。二人は一体どこに行ったのか? そのトリックがわからない。
ミステリー小説でありそうな展開だろうけど、生憎と恋愛小説ばかり嗜んできたのでそっち方面の知識は疎い。こんな事なら林の中で様子見なんてせずに何か行動を起こせばよかった。
――もう本当に後悔ばかり。
どうして私はこうも正しい選択ができないのか。
「はぁ。……どこ行ったんだろ虎太郎くん。…………私を置いていかないでよ」
悲報を聞いたストレスで心がやせ細り、長時間厳しい環境の中でじっとしていた事による精神および肉体の疲労。私もう限界だった。
それらの色々な負荷が今になってドッと体にのしかかり、私は崩れ落ちるように寝具の上に体を投げ出す。ただただ心細さを慰めるように置かれていた毛布をギュッと抱きしめた。
彼の匂いがする。
こっちの寝具が彼が使っていた毛布なのだろう。
こうしていると、彼に抱かれているようなそんな気持ちになる。
疲れ果てた心身が要求する通りに、私は目蓋を閉じて毛布のぬくもりに意識を委ねる。
体は重く、意識も泥のように鈍い。
絶望が精神を絡めとり、全身から気力を奪っていく。
本当は寝ている場合じゃない。虎太郎くんを探さなくてはいけない。今、完全に見失ったらもう二度と会えないような、そんな予感がする。
――でも。どうすればいいのだろう? いくら考えても次にどう行動したらいいのかわからない。状況は八方塞がりになってしまった。
もう見つける事はできないのだろうか? これでお別れ? そんなの嫌だ! それだけは許してほしい。どうか――どうか。お願い。お願いだから――。
お願いだから、もう一度あの人に……。
…………。
……。
* * * * *
これは夢なのか。それとも現実なのか。
目の前で起きている出来事は現実ではありえない事ばかりで非現実感は強い。しかし、この疑いようのないリアルな感覚と明瞭な意識。果たして夢だと切り捨てていいのかどうか。私は今までこんなハッキリとした夢を見た事がないし、感覚的には現実と何も変わらない。
少なくとも、私個人の気持ちを反映していいのなら、是非とも現実であってほしい。
虎太郎くんが存在しない現実よりは、どんなに馬鹿馬鹿しい現実でも虎太郎くんがいる方が数百倍マシなのだから。
その意見は変わらない。けれども――。
「……でも、やっぱりファンタジー色強いなぁ。これを現実と認めるには、私には無邪気さが足りないかも」
目の前に広がる正体不明の空間に対して、何度目かのぼやきを口に出す。
アリの巣のように無限に通路が広がる迷宮。空には明るい都会ではお目にかかれないほどの美しい星空。そして見渡す限りの、扉、扉、扉。
先ほどまでいた大聖堂という風な空間も非日常的な雰囲気ではあったけれど、この扉だらけの空間はまさにファンタジー世界と形容するしかない。現実のどこを探したってこんな場所は存在しないだろう。
無数の扉が混在する摩訶不思議な空間の中で、私は先に進む虎太郎くんたちの背中を静かに追う。
正直、今どういう状況なのか説明するのはかなり難しい。
きっかけを一言でいうと、虎太郎くんの寝具に包まって寝落ちしたと思ったら、いつの間にかよくわからない空間に一人で放り出されていた。という経緯になるのだろう。しかし、理由は皆目見当がつかない。
この場所が何処なのか? これはどういう状況なのか? 私はどうしてここに来たのか?
訳が分からない状況に混乱しかけた私だけども、目覚めた場所から少し進んだ場所に虎太郎くんの姿を見つけた事で、そういった些細な問題は吹っ飛んだ。
疑問はたくさんある。――けど、虎太郎くんを追いかける事に比べれば優先順位は低いに決まっている。
一時は二度と会えないかもしれないなどと悲観した。けど、またこうして巡り合う事ができた。これは紛れもない奇跡。運命の女神が別れ離れになった私たちをまた引き合わせてくれた。だから今は、その奇跡を手放さないよう努めるのが私がすべき事。それ以外は些事。
なので一旦、全ての疑問は保留にして二人の背中をバレないように追いかける事にした。
不測の状況なのに隠れている場合か? とも思ったけど、状況がわからないからこそ迂闊に話しかけるのも躊躇われる。なんたって、向こうには私の敵である東山さんがいる訳だし……。
そうして二人が辿った順路を進み、迷路になっている回廊を抜け、螺旋階段を下り、なんか壁に穴が開いて断続的に振動がする大聖堂を抜けた後、
――尾行している二人の状況が大きく変化した。
「――!」
二人が無数にある扉の一つの前で立ち止まって何か会話していると思ったら、急に東山さんの姿が見えなくなったのだ。
唐突な状況変化に驚いた私は、まさか彼女の姿を見失ったのかと思い、慌てて身を潜めて周囲を警戒する。
あの性悪な女なら、尾行に気がついた末に不意打ちで私を捕まえようとしてもおかしくない。
そう思って周囲を見渡すが、どんなに感覚を鋭敏にして気配を探っても、東山さんの影は感じ取れなかった。
どういう事なのかいまいち理解できず、再び虎太郎くんの姿を伺う。
すると、ちょうど虎太郎くんが扉の先にある漆黒の闇に手を伸ばしているところだった。
恐る恐るという風に、やや震える手で彼の指先が黒膜に触れたと思った瞬間、――彼の姿が掻き消えた。
「――っ!!!」
今度のショックは先ほどの比ではない。
隠れていた事も忘れ、血の気が引く思いで慌てて飛び出して彼がいた場所まで走るが、その場所にたどり着いて周囲を見渡しても彼の姿は何処にもいない。
せっかく再開できたのにまた別れ離れなんて。
――そんなのダメ。駄目だから!
東山さんはいくらでもこの世から消えていいと思っているけど、虎太郎くんは消されたら困る!
心臓が早鐘を打つのを抑えながら、彼がいなくなる瞬間に触れていた扉の闇を見遣る。
事の成り行きから考えると二人が消えた原因はこの扉にある。察するに扉の奥の漆黒の闇に触れる事で姿が消える――いや、「扉」という姿からその機能を連想するに、扉の中にある別の場所に瞬間移動させたという感じだろうか? これまた現実感のない話だがそれしか考えられない。
頬を冷や汗が流れ落ちる。
また虎太郎くんと離れ離れになってしまった。
事は一刻を争うかもしれない。ぐずぐずしていたらまた見失ってしまうかも。
今この瞬間、私がすべき事を考える。答えは一つだ。
恐ろしい。恐怖は確かに存在する。この扉の闇に触れて私が消えてしまったらどうなってしまうのだろう。何処かに移動したかもしれないというのは単なる推察。
私はこの世界の事を何一つ知らないし、法則だって何となくでしかわからない。
無事でいられる確証なんて一つもない。
けど。――けど!
どんな恐怖よりも、虎太郎くんと二度と会えなくなってしまう事の方が果てしなく恐ろしい。
彼の為なら、彼に近づく為なら、私はどんな無謀な事だって躊躇いはしない。私の愛の覚悟を見せてやる。
意を決して、扉の奥に鎮座する闇の帳に手を伸ばす。
暗黒はただ静かにそこに広がっている。光の侵入を一切許さず、この先がどれほど広いのかも狭いのかも感じさせない空虚な黒が、哀れな生贄を迎え入れるのを今か今かと待ち構えている。暗闇から発せられる人の根源的恐怖を掻き立てる雰囲気に、少しだけだが気圧される。
どうして暗黒はこうも恐怖を生み出すのか。
不安を煽る扉の闇に、私は暗闇という存在が持つ抽象的かつ普遍的なイメージを胸に抱いた。――そう、イメージしたのだ。
指先が闇の帳に触れ、体が分解されて黒の世界に吸い込まれる。
意識が途切れる最後の瞬間、闇の高鳴りが聞こえた気がした。