第068話、零れ落ちる砂【教師マイアの寝室】
【SIDE:女教師マイア】
マイアは重い頭を抱えて目覚めた。
人よりも角が大きい、男デーモンよりも立派だとされるイケ角だからか――いつも頭はわりと重い。けれど今日はいつもとは違う重さがあった。
二日酔いである。
そして今朝は何かが違った。
腹の上の漬物石こと、あの魔猫の姿がない。
邪魔だから降りろと言っても降りず、イビキをかいて我がもの顔で寝ているあの魔猫。横になったままマイアはシーツを探るが、そこには何もない。
ただ指がシーツのシワを伸ばすだけ。頭に酸素と魔力を送るべく、彼女は足先を伸ばした。
ドレスアップ用にネイルを塗った爪が、シーツを擦る。
「おい、猫。どこにいる?」
返事はない。
生意気にも自分の料理をメシマズと断言する、あの魔猫。腹を空かせているだろうと、買い置きの保存食をアイテムボックスから取り出そうとして――彼女は思いだした。
昨日の事だ。
一気に記憶が蘇ってくる――。
「ああ、そうか……」
やってしまった、そう思った。
酒に酔い過ぎると、いつもこうなってしまう。
自分から離れていった男達と、ほとんど同じだった。もういい、ついていけない。そんな顔で男達はマイアの雄々しい角と意思を睨んで、消える。その視線には呆れの色がいつも乗っている。
自嘲気味な声が、口を伝っていた。
「魔獣にすら、振られるとはな――」
謝ろうか。
いや、もうきっと無理だろう。
マイアは頭痛をこらえるように、自らの膝を抱えた。
妹の不治の病。解呪不能の呪いともいえる戒めの力が増している。もしかしたら、それほど長くないかもしれない……。そう、ミリーの旅の連れの男から連絡が来たのは先日のこと。
だから焦っていた。
焦って、焦って、焦って。口ではいつも憎まれ口なのに、本当は姉である自分をずっと心配してくれている妹を安心させてやるため。伴侶を探していた。その筈なのに。
皆が自分から離れていく。
きっと何かが間違っているのだろう。
けれど、それが分からない。孤独な女教師は抱えていた膝から手を伸ばした。しかし、そこには何もいない。いつもいた、あのモフモフがいない。考えを纏めようとする時、魔猫の背中を撫でていたのだ。それが既に癖になっていた行為だと、マイアはようやく気が付いた。
いつもの妹の言葉が、勝手に頭の中で反芻される。
『自分は強いから大丈夫だ? お姉ちゃんって本当にそう。強い事だけが価値になるなら――お姉ちゃんより弱いあたしには価値がない? お父さんにもお母さんにも、価値がないの? そういう意味じゃない? でもそう言ってるじゃない。強者こそが正しいって。世間がそう言っているですって? お姉ちゃんのそういう所、本当に嫌い。大嫌い。たまには自分の頭で考えたら?』
また、言葉が蘇る。
『あたしだって、いつまでも……生きていられるわけじゃないって、知ってるでしょう? だから、もうちょっとしっかりしてよ』
蘇る。
『そんなんじゃお姉ちゃん……いつか本当に独りになっちゃうわよ』
妹の悲しげな苦笑が、脳裏に広がる。
「わたしは……間違ってなどいない筈だ。しかし……」
口も性格も悪く見える妹の、優しい忠告が忘れられない。
おそらく、自分が悪いのだろう。
それでも、強者こそが正しいという世界の在り方を否定する気にはなれない。それを否定するのは魔王陛下を、延いては魔族という存在そのものを否定することになる。
少なくともその価値観の下、女教師マイアは育ってきた。
彼女だけではなく、同じ価値観の存在は多いだろうという確信もある。しかし昨日の一件、生徒が言った言葉も頭を揺すっている。
魔猫の言葉も……。
強さだけではない、力……。
どちらにしても、あの魔猫ともう一度話をしたい。
あの魔猫は腹を空かせているかもしれない。行く当てがなく、路地裏のごみを漁っているかもしれない。自分を求めて、寒空の下でウニャァウニャァ泣いているかもしれない。
声をかけても帰ってこないかもしれない。
しかし。
見つけたらちゃんと謝ろう。
そう思い、探索魔術を発動させようとする。
子供でも出来る簡単な魔術だ。
すぐに会える。あの魔猫は自分から去っていった男達とは違う、やり直せばいいだけだ。
その筈だったのに。
鬼教官ともいえる女の手は止まっていた。
どうして。
空に魔法陣を描き、銀粉を浮かべ――。
そこで、どうしても続きが浮かばない。
魔術に必要な、魔獣の名が思い出せないのだ。
忘れてしまったのか?
魔猫だという事は分かる。おそらくヒーラー魔猫だろう。
しかし探索魔術に必要なのは種族名ではなく個体名。
思いだそうとする。
思いだそうとしてもできず、諦めてログを漁る。ログを追う指が、動く。大丈夫だ。ログに嘘はない。ログを辿れば必ず、帰ってくる。
しかし、該当情報が見つからない。
そこでようやく理解した。
ハッとした。
指が、額を押さえていた。
「わたしは……、わたしは――あいつの名すら聞きもしなかったのか」
猫、おまえ、貴様。
一度も名を呼んだことがない。アレが語った事もない。それもそのはずだ。何度も機会があったのに、一度たりとも、マイアはあの魔猫に名を尋ねたりはしなかった。
その事実が実感となって、孤独な女を襲っていた。
汗が、垂れる。
名を知らず、不発となった魔術が散っていく。
指から、すり抜けるように魔力の流れが消えていく。
それは、二度と掴めぬ砂のように――。
散った魔力に乱れる赤髪が、視界を隠す。
立派過ぎる角を隠そうと伸ばしている髪が垂れ、曇る表情を更に暗く覆っていたのだ。
魔猫のために用意した毛布や、菓子の数々。誰かと共に過ごした時間、思い出の抜け殻たちが部屋の中に転がっている。
部屋を散らかすな、そう怒った。ネコは分かった分かったと頷きながらも、好き勝手に暴れていた。
少しの苛立ちがあった。
けれど、それ以上の楽しさがあった。温もりがあったのだ。
それなのに。
名前すら、知らない。
知ろうともしなかった。
冷徹だと思った。
自分はそんなに冷たく、つまらなく、くだらない存在だったのか。
そう、思わずにはいられない。
静かな部屋。
孤独な時間。
女の唇が、淡々と蠢く――。
「なんだ……。これでは愛想を尽かされて、当然ではないか――」
きっと、今までの男達も……。
きっと、相手が悪かったわけではない。
皆が口にしなかっただけ。マイアが強いから、怖くて真実を口にしなかっただけ。ただ一人、妹のミリーだけは身内だからと、警告と忠告をし続けてくれていた。
もう一度、妹の言葉が蘇る。
『そんなんじゃお姉ちゃん……いつか本当に独りになっちゃうわよ』
後悔をしても遅かった。
もう、あの魔猫はいない。
どれほど強い存在だったとしても。誰よりも強いと自負があっても――。
ネコ一匹、見つける術を彼女は知らない。




