第054話、南へ ―親子の楔―【森の我が家】
【SIDE:真樹の森】
真樹の森の奥にある温かい家。
平穏の終わりを告げる時間。かつて殺戮令嬢とよばれた暗黒騎士が親子を説得していた。
年上の貴族で、しかも魔境ズムニの代表である金髪女性に頭を下げられ、事情を説明され、できる限りの報奨も約束され――少年が救援要請を断る確率は、ほぼゼロに近くなっていく。
御者の父親は「本音を言えば反対だ、けれど、アル……おまえはもう冒険者登録もできる成人だ。自分で決めなさい」――と、言葉を絞り出し、飲み物を淹れてくると部屋を出ていたのだ。
自分がいると、きっと息子は考えをゆがめてしまう。
男は父として考え――話しやすいよう、救援を求む令嬢と、息子を二人きりにさせていたのだろう。
小さな家の、応接室の奥。
五十前後となった御者の男は天を仰いでいた。
大の大人が涙が零れぬように、上を向いていたのである。
そんな親子を、鳥が眺めていた。
四星獣ナウナウの眷属にして、小鳥となり少年の肩にとまっていた朱雀――かつてシャシャ家のダメ息子と言われていた元衛兵長は思う。
――やはり、こうなってしまった。
と。
父を襲っていたのは、息子との思い出か。
見送るべき息子の手前、けして泣くまいと堪える男。その鼻を、優しい思い出が刃となって――刺すように叩いているのだろうと、かつて人類だった神獣シャシャには理解できる。
十五年、息子を愛して育てた男の口から、誰にも聞こえぬ程度の言葉が漏れる。
「アル……おまえはやはり、行ってしまうのだな――」
保護者としての役割を終える男の複雑な声は、神獣シャシャにだけは聞こえていた。
御者である父親が家の外に出る。
彼の職業は御者、馬使いだ。
息子を送るための、見送りの馬車を用意しているのだろう。
過去の贖罪のため助けを求める令嬢。英雄となる息子を見送る準備を進める老いた父。そして、英雄となるべく神に愛された子ども。
傍観者たる小鳥は瞳を細め、人類には聞こえぬ声で獣の言葉を漏らしていた。
『親子の別れ、か。神々も惨い事をなさる――』
しかし、これはもう分かっていた事。
神獣と化した衛兵長の瞳にはこうなることが見えていたのだ。あの時、あの瞬間。スクルザードの地。巻き込まれると警告されても奥市場に向かった、少年のまっすぐな表情を見た時に――。
『不服そうであるな、ナウナウの眷属。不死鳥にして朱雀、かつて弱き人類として歴史を動かした者シャシャよ』
誰に言うでもなく漏らした言葉であったのに、声は神獣シャシャのすぐ背後から聞こえていた。
神獣と化したシャシャは強大な存在だった。その彼が存在そのものを察知できないなど――並大抵の相手ではない。候補に挙がるのは当然、四星獣。そして今、この家を見張っているのは四星獣イエスタデイ=ワンス=モアと四星獣ナウナウ。
主人の気配ならばすぐに分かる、けれど分からないとなると――。
神獣シャシャは恭しく礼をしていた。
『これは失礼しました。イエスタデイ様――』
『ほう、すぐに我と分かるか』
『モスマン帝国との戦争当時……十五年前にわたしは一度、ウィルドリアの玉座にて貴方様にお会いしておりますから。そして、ナウナウ様からはあなたの話をよく聞かされております。とても心の広い魔猫神であるとも。ですからどうか、先ほどの言葉は小鳥の戯言とお聞き流しいただければ――』
実際、四星獣を前にしたら朱雀とて小鳥。
あなたの前では、わたしは小さな存在ですと今の言葉に含みを持たせたのだ。
そして、心が広いと言われたら、その言葉を無下にはできないと知っていた。
『にゃほほほほほほ。人であった時よりも駆け引きが上手くなったようだな――だが言葉による小細工など、無粋である――今のは我が勝手に聞いていただけの話。おぬしに罪はない。故にこそ、心の広い我は思うのだ。面倒な畏まりは要らぬとな。それにだ、心の広い我はこうも思う。そなたは我が友ナウナウの配下にある身、我の部下というわけではないからな。突然襲ったりなどせぬし、手を出す気もない。我、心はとても広いな?』
ふわふわ白毛布の体を膨らませた魔猫イエスタデイは、しつこいほどに心が広いとアピールし。
じぃぃぃぃいぃぃ。
神獣シャシャは嘴の上の眉間にシワを刻み思う。ああ、この人もナウナウ様と同じく、ちょっと面倒くさい方だなぁ……と。
『広き心に感謝いたします――』
『宜しい。して、シャシャよ。いったい何が不満なのだ』
神獣シャシャは答えられない。
不敬を買うと判断したのだが。スタタタタタ! ニヤニヤと人の心を楽しむように、わざわざ顔の前に回り込んで魔猫が言う。
『ナウナウに密告したりなどせぬ。言うてみよ』
言うてみよ! 言うてみよ!
やはり主人ナウナウの同類。紛れもなく友なのだろうと思いながらも神獣シャシャは観念する。
『あなたはこの少年を恒久的に世俗から引き離すものだとばかり、思っておりましたので。驚いているというのが本音なのです』
『なるほど、その事か。まあ、息子には平凡であって欲しい。それがこの父親の願いであったからな――』
『では、なぜ今更になって心を変えたのか――わたしには理解ができません』
モフモフな羽毛を揺らす小鳥の問いかけに、狩猟本能をぐっと我慢するように魔猫が言う。
『ではかつて人類だったおぬしに問うが、狭い世界で生きていた少年が、はじめて外の世界を知り。それでも狭い世界に戻ってくることを望むと思うか?』
『それは――まあ。十五の少年ならば、外の世界を知りたいと思うでしょう。つまりアルバートン少年の心を汲み取ったと?』
『然り。英雄気質な少年にこの小屋は狭すぎる――その胸にあった願いは、外の世界で冒険や人と触れ合う事であったしな。我は確かに良きカルマを持つ者の願いを叶える性質がある、なれど、外に出たいと欲する少年と、息子を外に出したくない父親。どちらの願いも同時に叶えることはできぬ。ならば、本人の意思ともう一人の保護者の意志を尊重するべきだと、そう判断したまでよ』
我は悪くなし。
あくまでも人類の願いを叶えているだけ。そんなスタンスを主張しているようだと、四星獣を知る朱雀シャシャの瞳には見えていた。
傍観者を自称しながらも無責任に、気分次第で手を加える。しかも、それは世界を揺らす規模で。魔物にとっても人類にとっても、厄介な存在であると再確認ができる。
『――……それに、まあ一応我も思う所があったのだ』
『と、仰いますと』
『この家を見ればわかるであろう』
言われて神獣シャシャは魔猫と共に振り返る。
そしてわずかに心を揺らした。
たしかに――ここには普通ではない証拠が、山ほどに存在する。
目に入ったのは、アルバートン少年が生み出した奇跡の数々。
息子が父の誕生日に贈っただろう木彫りの彫刻。猫と熊猫とナマズ帽子の猫、そして、ふわふわなネコの尻尾のような植物が描かれた書物。四星獣を模った神像が部屋に並んでいる。
それら全ては、息子が父のために心を込めて彫ったのだろう。それは幸せの形であると同時に、少年の奇異さを浮き彫りにもしていた。少年には四星獣の姿が見えていることを意味しているからだ。
そして、それら全てには――現在の魔術師では付与できぬほどの様々な補助効果が、アイテムエフェクトとして輝いている。神に愛された少年が、魔導彫刻師としての才すらもあるとの証明。
後の時代で、これらが”神の工芸品”として讃えられることはほぼ確定している。
未知の魔物から生み出された調度品は王宮のモノより性能が良い。自らなめした革装備は、一流。鑑定を扱える者なら、伝説の装備に劣らぬ一級品と判断するだろう。それらを、十五に満たない時に、既に生み出しているのだ。あくまでも、生活の一部として――。
なにをしても、英雄なのだ。逃げ場などない。
スクルザードへの荷物運びを許可した段階で、既に賽は投げられていた。
『人とは違う少年、その行動全てが父親を困らせていた筈だ。十五年、あの男はいつ来るかもわからないアルバートン少年の旅立ちに怯え、人生を縛られていたともいえる。親は子を縛る存在だ、しかし逆もまた然り。子どもという存在は、いつまでも親の心と行動を縛り続ける。対象があの少年ならば、その心労は計り知れないものであろうて』
魔猫イエスタデイは、神たる声で告げていた。
『親子の楔は、巣立ちと共に緩むもの――これが正しいとは言わぬ。しかし、いつまでも離れることのできぬ関係が健全であるかどうか、それは果たしてどうであろうか。小鳥よ、そなたはどう思う』
そう。
親として愛しているからこそ、心が疲れてしまう瞬間もある。
親の愛はとても偉大であると同時に、呪いのようなモノであるともいえる。
それを神獣シャシャは知っていた。
小鳥は普通の人間では体験できぬ経験をした。
神に召し上げられ神獣となった事で――自分が死んだ後の世界を、眺める権利を有していたのだ。
十五年前の当時、死した自分を嘆いた身内は、二人。一人は兄。そしてもう一人は、老いた母。
どうして……と。モスマンの奇襲の情報を齎し、救国の英雄となった息子の死を聞いた母は、ボロボロと泣き崩れていた。
あれ以来、母は毎日、空の墓の前で手を合わせて呆然としている。
息子の死という呪いが、母の残り少ない一生を縛り続けているのだ。
今もなお。
ずっと――ずっと……。生涯消えぬ楔となって、母の心を繋ぎとめてしまった。
小鳥が言う。
『これがこの親子のためでもあると、神よ――あなたはそう思うのですね』
『断言はせぬ。英雄気質の少年と言えど、死なぬわけではない。おぬしの母のように、息子の死を嘆き続ける存在となる可能性も否定はできぬからな』
四星獣イエスタデイ。
偉大なる魔猫は小鳥の胸の内まで告げていた。
あの三人の話も決まったのだろう。全員で、御者の男が準備をしていた馬車へ乗り込み始めている。
そして、森を抜ける特殊な馬車が走り出す。
運命の車輪も、回りだす。
当然、彼らについて行く小鳥と魔猫は馬車の上。
親としての最後の務めを果たすべく、御者の男が手綱を引く中。
人類を眺める魔猫は言った。
『これは――けして悲しい別れなどではない。普通であることを望むのならば、避けては通れぬ親の道。ただ保護者としての役割を終えるだけなのだ――人類はそれを子離れと呼ぶのであろう?』
『子離れ……ですか』
『いつか巣立つ我が子を見送る、それもまた親の愛であると我はそう感じておる』
優しい声だった。
魔猫の顔は、世界を優しく眺めている。
かつて人類だった神獣は思う。
この魔猫は、存外に人類をちゃんと眺めていたのだろう。
庇い、守り続けることだけが正しいとも限らないと知っているのだろう。
と。
人類を眺める魔猫の瞳は、まるで巣立つ我が子を見送る親のソレであった。
囀るように小鳥が言う。
『……イエスタデイ=ワンス=モア様。一つ、小鳥の願いを聞いてはくれないでしょうか』
『心が広い我であるからな、言うてみよ』
南に向かう馬車の道。
巣立ち、親離れと子離れをする親子を眺め。
小鳥は言った。
『あなたは偉大な方です。ですから既に察しているのでしょうが――。わたしの母から、少しだけ――わたしへの想いを軽くしてあげることはできないでしょうか。あれから十五年。母ももう、長くはない筈です。ですから――終わる時ぐらいは、安らかであって欲しいと、わたしはそう思うのです』
『死した息子が、子離れを望む――か』
しばし考え。
良かろう、と――ネコの口が、呟いて。
魔猫は静かに瞳を閉じた。
こことは違う場所。
十五年前の後始末。
子への想いに縛られた老婆の呪縛が解けていく。
鬱蒼とした森の道。
かつて貴族を惨殺した、殺戮令嬢の過去が詰まった森の道。
感謝を告げるような、鳥の鳴き声が響き渡る。
成長した息子を乗せて、馬車は進む。
南へ進む。
かつて誰も知らぬ北へと進んだ道を、遡るように――、ただまっすぐに。
南へ――。




