第040話、血塗られ少女の願い【崩壊帝国】
【SIDE:スカーマン=ダイナック】
崩壊する城を駆ける中。
傷だらけの女は考えていた。
スカーマン=ダイナックには理解できなかったのである。
なぜあの皇帝は感謝を告げたのか。それが分からない。互いに利用しているだけだった筈。生まれて初めて他人から告げられた、心からの感謝に怪奇は混乱していた。
なぜ感謝されたのか。本当に理解ができなかったのだ。
だからだろう。
混乱は広がっていく。
分からないことは他にもあった。
それは今探している、御者の男。
あの男は本当に弱い男だ。
けれど、身近な命を捨てられなかったのか、あの時、男はモスマン達を助ける策を提案した。不興を買えば殺されるかもしれない、そんな状況で発言をした。
それも怪奇には理解ができなかった。
――理解できねえ。分からねえ。なぜだ、どうしてだ。なんで、他人のためにそんなことができる。
まして相手は魔物だ。本人は殺戮者に誘拐され、脅されて一緒に居ただけ。
理解ができなかった。
できなかったが。
その行動が皇帝マスラ=モス=キートニアに言わせたのだ。ヤツを回収して逃げてくれと。
感謝されることをしたから、救いの手を伸ばされる。なんだ、その連鎖は。知らないことばかりだと彼女は焦燥する。
だから。
女の足は探していた。
崩壊するこの帝国で、あのどんくさい男が自分で逃げ切れるはずがない。
「ちぃ……っ、オレは、アタシは……なにをしているんだい!」
足が探す。
勝手に動く。
「あんな玩具、置いていけばいいだけだろうっ……っ」
どうしてなのか分からない。けれど、モスマンの皇帝が遺した最後の感謝と頼みが胸を突くのだ。
初めてだったのだ。
皮肉なことに、空虚な女が感謝を告げられた事は、今まで一度もなかった。
命乞い以外に頼られたことも一度もなかった。
あの邪悪な魔物の皇帝が初めて、彼女に人間らしい言葉を与えていたのだった。
なぜスカーマン=ダイナックは誰からも感謝されなかったのか。その理由は簡単だ。彼女は生まれて一度も、誰かに感謝をしたくなるような、ごく普通の、当たり前の他人の優しさに触れたことがなかったのだ。
一度も。
本当に、一度たりとも。
望まれずに生まれ落ちたその時から、女は汚泥の中で生きていた。
誰かを助ければ感謝される。助けてもらえる。
そんな簡単なことも、彼女には理解できない。
人の殺し方なら簡単に浮かぶのに、分からない。
感謝という感情を知らないから、彼女は他人に感謝されるという感情も行動も、できずにいた。けれど今の彼女は違う。初めてその感情に触れてしまった。
だから訳が分からなくなっていた。
魔物が彼女に向けた感謝が、怪奇のアイデンティティを揺らしていた。
追われているのに大声を出して呼んだのだ。
「おっさん! どこにいる! 早く逃げねえと、死んじまうぞ!」
誰かを探していると、過去の記憶が蘇ってくる。
母に売られ捨てられたその日も、女はこうして傷だらけの身体で徘徊していた。
お母さん、お母さんと。
見捨てられたのだと知っていても、それでも地べたを這ったのだ。
――嫌な事ばかりを思い出しちまうっ。
自分を守るため。初めて殺した相手はご主人様と呼ぶことを強要した男。
自分を買って、悪趣味な行為を要求する金持ちだった。
金持ちは誠実そうな顔をした紳士だった。世間でも評判のいい商人だった。けれど性格までは紳士ではなかったのだろう。
サディスティックな男だった。酷い男だった。少女の心身が完全に世界を諦めかけてしまうほどに、陰鬱な世界が続いていた。
それでもまだその時には世界を信じていた。いつか幸せになれると。そう、震える膝を抱き、願っていたのだ。
ある日少女は逃げ出した。客人の接待をしている主人の隙をつき、地獄の館から脱走したのだ。助けてと、道行く人に願う。
誰も答えてはくれなかった。
見て見ぬふりで、傷だらけの少女を遠巻きから眺めていた。コレを助ければ、絶対に自分が酷い目に遭う。街の人たちは理解していたのだろう。
少女は連れ戻された。
少女だった女が人を殺したのは、正当防衛と言っても問題のない状態だった。
抵抗できない相手を殴り、刃物で弱い者を嬲ることが好きな悪趣味な金持ち。その凶行から逃れるために、必死に抵抗した結果の殺害だった。
幸か不幸か。
自分を嬲るナイフを奪い取ったその時、少女は自らの才能に開花した。
それこそが血の中に残っていたギフトだったのだろうか。
スカーマン=ダイナックになる少女にあったのは、絶対的な人殺しの才能。
子どもであっても、ナイフを装備したら大人たちの護衛よりも、強かったのだ。
自分を殴り、嗤っていた連中が泣きわめいて許しを乞う。
まず主人の妻を殺した。
主人に内緒で自分を嬲った使用人も殺した。
ゴミを見るめで自分を見てきた、その子供も殺した。
最後に全員の首の中で、主人を嬲り殺した。
それが少女の自尊心を取り戻させた。
理不尽な暴力と恐怖を受け続けた少女が初めて、生きていると実感したのだ。
それが怪奇の誕生だった。
誰も助けてくれないのなら、自分だって誰かを助けたりはしない。好き勝手やっていいのだろう。だってそうじゃないか。今まで出会ってきた他人は、いや、身内でさえ一度たりとも温もりを与えてくれなかった。
生きるための殺しだ。自分は悪くない。
他者を殺戮し続け、少女だった怪奇は思っていた。
自分を助けてくれない世界なら、自分だって助けなくてもいいじゃないか。
泣きわめく、奴隷商たちのハラワタを裂きながら、女は嗤う。
殺されたくなかったら、誰かに助けてもらいなよ。
助けてくれ?
ああ、そりゃあ無理な相談だったね。だって誰も助けてくれないんだよ、この世界は。
残酷しか知らない少女は、そのまま世界の温かさを知らずに殺戮者となった。
初めは、それでしか生きられなかったから。
しかしいつかそれは生活となった。趣味となった。
それができるほどの強者となっていた。
そんな怪奇が今、なぜかあの男を逃がすために探している。
生きていて欲しいと、そう思っていた。
もう共に行動して何日だ。
あいつはこのスカーマン=ダイナックに殺されずに生き抜いている幸運の持ち主だ。どうせ生きているに決まっている。とっとと回収したら、短距離転移を可能にする”ハイエナの微笑”を連続使用し、この領域から脱出する。
どこかウィルドリアとは違う国で男を解放すれば、それで終わりだ。
そう、その筈だった。
脱出の計画を組み立てる中。怪奇は男を見つけた。
生まれてくる命。モスマン達の卵を抱えて逃げる途中だったのだろう。
どこまでもお人好しなバカだと、スカーマン=ダイナックは思った。
「……馬鹿野郎が」
返事はない。
それはそうだろう――。
既に、炎に包まれ死んでいた。
「……ノロマが、勝手に死にやがって――」
吐き捨てた後。
女はぎゅっと唇を噛んでいた。
自分を人間扱いしてくれた魔物の、最後の願いを聞いてやれなかった。
助けてと言われてもいないのに、最後まで命を助けようとしたお人よしの燃える死体。少女だった怪奇の瞳は眺めていた。
もしあの時。
助けを求めて徘徊していた時。この男に出会っていたら。
馬車を引くこの大きな手で、助けてくれたのだろうか?
そんなありえない、もしもが脳を通り過ぎていく。
それが怪奇の口から言葉を出させていた。
「クソの神ども! 見ているんだろう! どいつでもいいっ、出てきな! 交渉だ! こいつを蘇生できる神ぐらいいるんだろう!? それともなにかい? あんたらは偉そうに遊戯を気取って眺めている癖に、人間の一人も蘇生できない無能なのか!? ああん? どうなんだ!」
天に向かい吐き捨てた言葉に反応はない。
そんな挑発に乗る神はいない。
その筈だった。
だが、変わり者の神はいたのだろう。
ピョコピョコピョコと、肉球の音がした。
燃える繭のモスマン城。その闇の中から――それは現れた。
『安い挑発であるが――多くの神が見ている中で、その言葉を無視すれば、我の沽券にかかわる。我だけがその願いを叶える事ができるであろう。だから、でてきてやったぞ――ヴェルザ王家の血を引く怪奇よ』
ふわふわで真っ白な。
けれど顔の中心にココアを零したような色の猫が顕現していた。
今のスカーマン=ダイナックは知っていた。
この観察者こそが四星獣。
魔猫イエスタデイであると。
だから――怪奇は交渉した。
生まれて初めて、誰かのために願ったのだった。
それは人を殺すことでしか生きられなかった少女の、最初で最後の、純粋な願いであった。




