第036話、盤上遊戯 ―魅了する箱庭―【ウィルドリア戦場】
【SIDE:モスマン帝国玉座の間】
魔物帝国の玉座の間。
新しい水晶球による遠見の魔術で現場を眺めていたのは、人類の裏切り者。
非道なる女は思わず声を漏らしていた。
「な……っ!? なんだいありゃあ!?」
『よもや、四星獣イエスタデイまで顕現していたとは……不味い、非常にまずいぞ、これは……っ』
「四星獣イエスタデイだぁ?」
『あの毛並み、あの強さ。間違いなく、ナウナウと同格の神に相違ない……っ』
くそっ、と苛立ちを吐き捨て答えたのは蛾帝マスラ=モス=キートニア。
人類の皇帝を模した異装に身を包む蛾人間の皇帝は、混乱しているのだろう。
触角が、小刻みに揺れている。
首周りの柔い毛のマフラーも揺れている。
空に映るそれは――ふわふわ毛布にココアを垂らしたような獣毛の猫。
リザードマンと一緒に居た魔猫だろう。
残る九百のモスマンの軍勢を弄び、うなななななっと低い声を漏らしジャレていたのである。
マスラ=モス=キートニアは考える。
千匹のモスマンによる急襲。
万全の作戦だった。そのまま人類国家一つを毒殺できるほどの初動だった。
歴史に名を残す奇襲の筈だった。しかし、たった一手のミス。現場を覗き見ていた神に手を出してしまった故に、この奇襲は失敗する。
いや、思えばユニコーンに乗る人間の威力偵察を許してしまった。
人類の抵抗がないままに圧しきれていれば、こうはならなかった。あれのせいで、全てが狂った。命を捨て偵察を行った蛮勇なる敵を称賛しつつも、蛾帝の口が蠢く。
『弱者であっても戦況を左右する……か。反撃という大義名分があるのならば、もはや止まらぬだろうな――神は』
蛾帝は自らの失敗を反省していたのだ。
冷静さを取り戻した魔物の覇者の横。
スカーマン=ダイナックは他人事のように戦場を眺め。紅茶を淹れさせている御者の男の頭をペチペチ叩きながら言う。
「――へえ、あれが四星獣。まさかヤツがソレだったとはねえ。ちゃんと見たのは初めてだよ」
『余とて実際に目にしたのは初めてだ――』
「皇帝さん、あんたの話だと四星獣イエスタデイってのは、ナウナウと同時に顕現する事はほぼない。奇跡に近い可能性なんじゃなかったのかい?」
ゼロに近い可能性を引き寄せてしまった。
その可能性を捨ててしまったのは失態だと、賢き蛾帝は実感しているのだろう。
その触角が思考を加速させるように回転している。
『地上は奇跡すらも引き寄せてしまう地か……考えを改めようぞ。しかし……今が面白ければそれでいいと戯れるナウナウだけならともかく。よりによって、降臨していたのが一番厄介なあのイエスタデイとは……せめて此度の盤上の観測者が人類に非協力的な、未来を手繰る者、”揺れる髯神”であったのなら』
「この猫、そんなにヤバいのかい?」
『問題は、比較的人類に協力的な神ということにある。奴の種族は魔猫ラグドール、すなわちネコ。人間の事をネコを崇め奉るための、ネコのために存在する、ネコに仕えるべくして産まれた奉仕生物だと思っている節がある。人類こそがネコの下僕と思っているからこそ、人間の数が減りすぎることを是とせぬのだ』
「魔猫たちのために動く奴隷を減らしたくないってか、随分と俗物的な神様だねえ」
ケラケラと嗤いつつ、スカーマン=ダイナックは言う。
「で。どうするつもりなんだい」
『どうもこうもあるまい。どうもできまいて』
言って、弦のような口を丸め、皇帝マスラ=モス=キートニアは遠見の魔術映像に目をやる。
そこにあったのはネコの戯れ。
空を神速の猫が、ダダダダダダダッダ!
ぶにゃははははは! っと、駆けまわっているのだ。
遠見の魔術による遅延映像でこそ観測できるが、実際にあの場にいたら複眼であっても視界に捉えることは不可能。
不可視の衝撃波が襲っているように見える筈。
神々の声がする。
『ぶにゃははははは! 愉快愉快! 汝らから攻撃を仕掛けてきた故、これは正当防衛。我、悪くないのであるな?』
『えへへへへ~、面白いな~。ねえねえ~、久々にアレをやってよ~♪』
『おう! ナウナウよ。我の奥義の一つがみたいか、よきよき! たまには披露せんと、魔術が腐ってしまうし構わぬぞ!』
告げた魔猫が、肉球でそっと空を撫でる。
蟲が飛び交う大空に、魔法陣が展開されていた。
ぞっと表情をこわばらせたのは、六人。
老剣士と、弓兵。聖騎士と魔術師と戦術師。
そして、この光景を眺めている蛾帝マスラ=モス=キートニア。
魔力を飛ばし一時的にモスマン達を強化したのだろう。
杖を振るう皇帝が、唸る。
『逃げよ! モスマンリーダーよ!』
『我、魔猫イエスタデイが命じる。我らの盤上から、降りよ――蟲よ!』
つぅぅぅ……。
世界が――ぶれるように、揺れた。
◇
うなうなと鳴くネコの声。
それが。
詠唱だったのだろう。
一瞬だった。
そこには青空が広がっていた。
戦場の空を舞って逃げていた筈の、およそ五百のモスマンが消えていたのである。
眺めていたスカーマン=ダイナックがまともに顔色を変え。
「は……!? 今ので、半数以上のモスマンが一瞬で消えたってのか!?」
『な、なんという……』
人類も、何が起こったか理解できていないのだろう。
動揺が広がっている。
生き残ったモスマンも、人間たちもただ神の御業に立ち竦むことしかできていないのだ。
思考を巡らせる蛾帝が言う。
『おそらく今のが《存在削除》。かつて魔竜の一族を滅したとされる神の御業、特殊な魔術体系であろうな――』
「存在削除? 聞いたことのない魔術だね」
『魔猫イエスタデイ=ワンス=モア。ヤツは過去を司る故、攻撃対象者の先祖を遡り、因果に介入し歴史の中から存在を消去する能力を有している。そう過去の同胞……英雄魔物たちが語っていたことがある』
分析しながら蛾帝は続ける。
『我らモスマンは同じ苗床に無数の魂を植え付ける卵生故に、近親者が多い。あの先遣隊の大半の親は、モスマンリーダーの血族であった。故に――モスマンリーダーがターゲティングされたことで、その血脈に連なる者達は、消える。結果的に、連鎖して五百の兵がログから排除されたのであろう』
「ログから排除だぁ? ログっつったら、あのログだろう? 行動を記録している……だがなあ、蛾の王様よ。保存されている記録をいくら弄っても、本体が消えるわけねえだろう」
『それができるからこそ、四星獣は四星獣。神々にさえ畏れられる特別な存在なのだろうよ』
続けて蟲の皇帝が言う。
『先遣隊の救出は……無理であろうな。作戦は中止、遺憾だが奴らは切り捨てる。作戦の練り直しが必要となろう』
蛾帝マスラ=モス=キートニアは冷静さを取り戻しつつある。
熟慮の末、先遣隊を完全に捨てたのだろう。残ったモスマン達もそれを受け入れる。このジェノサイドを見たら、当然といえる。
スカーマンも納得し、映像を切ろうとするが――。
「ま、待ってくれ!」
「ああん? んだよ、オッサン」
それを止めたのは、スカーマンの玩具扱いとなっていた御者の男だった。
「あ、あの……お見捨てになるのですか。まだ四百ぐらいは生きているのでしょう?」
「かぁああぁぁぁぁ! これだから非戦闘員ってのはダメなんだ。オッサンよお、てめえは本当に馬鹿だなあ。あんな神相手、戦うだけ無駄。無駄にモスマンへのヘイトを稼いでみろ。下手すりゃ、そのままこっちに飛んでくるだろうさ」
『いや、待て怪奇よ。馬使いよ、なにか策があると?』
愚者と思われる相手であっても、その意見を聞く。
蛾帝は存外に、王者としての資質を持ち合わせていたのだろう。
たった一人の弱き人類が、奇襲で終わる筈だった戦況を変えてしまったように。
それが教訓となって、モスマンの皇帝に耳を傾けさせたのだ。
御者の男は声を絞り出す。
「あ、ああ、あれが魔猫だっていうのならその性質を利用してやれば……っ。ど、どうせ、見捨てるなら、最後に試したっていいだろうっ」
言って、御者は荷物を運ぶ御者としてのスキルだろう、亜空間に手を伸ばす。
そこから召喚されたのは、ただの空箱。
スカーマンが言う。
「ただの開け終わった宝箱じゃねえか」
「こ、これを戦線に、目立つ形で落下させてみてはいかがかと……」
『まあ、攻撃ではない故、支障はないが――』
告げた蛾帝マスラ=モス=キートニアは空間を操作し、空の宝箱を戦場に落とす。
本当にただの空き箱。
しかしだ。
神が、動いた。
四星獣イエスタデイは、ぶにゃっと目を輝かせ。
そろりそろりと腰を低くさせ、尻尾を左右に揺らしながら空を歩き。
立ち止まり。
じぃぃぃぃぃ。
考え込んだ、その直後。
そのまま吸い込まれるように、ずぼっと宝箱の中に身体をねじ込み。
どやぁぁぁぁぁ!
『ぶにゃはははははは! これぞ神の玉座にふさわしき空間、この空き箱は我のモノぞ!』
我のモノ! 我のモノ! と、肉球をニパニパしながらご満悦。
箱の中で丸まったり、体をグネグネさせたり。手だけ宝箱のふちに乗せ、顔をぴょこっとだし――ともあれ攻撃活動は止まっていた。
魔猫による蹂躙は、停止されたのだ。
空に蛾帝の声が響く。
『神が再び荒ぶる前に、撤退せよ――!』
と。
モスマン達は動揺しつつも撤退の好機と見たか、皇帝の指示に従い退却を開始する。
人類たちも、この状況でモスマンを追うほど迂闊ではなかったのだろう。
戦いは終わった。
◇
モスマン帝国とウィルドリアの戦いはまだ続く。だが、この戦場にて、大きな変革が世界にもたらされていた。
それは弱者が戦場を動かした瞬間の輝き。
それが彼らの興味をそそった。
この時、上位の神々は思ったのだろう。
ナウナウと、そしてナウナウと魔猫を眺めていた他の四星獣も思った。
そして四星獣の悪戯を観測していた他の上位神達も、この光景に魅入られ思ったのだろう。
弱者であっても盤面を動かす。
捨て札だと思っていた駒が、不意に輝きだす。
どう転ぶか分からない。だからいい。
ああ、とてもいい。
とても楽しい。人類は実に面白い。
だからこの悪戯は止められぬ――と。




