第034話、43200秒の価値【ウィルドリア王宮】
【SIDE:人類】
黒い粒が街へと迫る中、動いたのは老兵だった。
――老剣士イザール。
報告書を目にし、悔いと決意を同時に眼光に乗せた彼の行動は迅速。
衛兵長が遺した座標と、単独で帰還したユニコーンの速度を計算。モスマン先遣隊が街へと辿り着くには、およそ半日ほどの猶予があると瞬時に目算。
詳しい時間計算と防衛準備を家臣に任せ、彼は王宮を発った。
むろん、逃げたのではない。
ギルドに赴き頭を下げ協力を取り付けたのは、報告書を目にしてからたったの三十分。
非戦闘員の街の住人を、王宮へと避難させたのはその一時間後。
英雄のイザールが言っているのなら。
住人は疑うことなく避難誘導に従ったのだ。
豪快と老獪。何度も死線と経験を積んだ、八十の老兵だからこその疾風迅雷であったのだろう。
これはその裏。
命を残された王宮での一ページ。
城内では、本来ならば大遠征のために用意されていた人員と資財が、緊急防衛ラインを構築するために転用されている。女王の祈祷が終わらぬ今、そこまでの権限を行使する責任を誰かが取らねばならない。ならば老体がと、全権を行使し、部下たちが速やかに動けるように命令を下していたのだった。
命令を下された男の名は、シャルル=ド=ルシャシャ。
ウィルドリアの軍学校にて、有能な生徒たちに戦術を教えていた名門貴族。指揮官としての特性を持つ特殊な職業”戦術師”の位を頂き、音の魔術師の称号を女王から拝命された軍人である。
神経質そうな銀縁眼鏡はドググ=ラググ特製のオーダーメイド。
生徒たちからのあだ名は鉄面皮。
その出で立ちは、貴族の優美さと軍服の丁度中間。
そんな男の唇はなぜかいつもよりも青黒い、まるで噛んだように鬱血しているのだ。目尻も仄かに赤い。鼻の先には、涙を除去する”涙消しの魔術”の痕跡まで浮かんでいる。
シャルル=ド=ルシャシャは急ぎ部下たちに指示を出しながら、その細い瞳の視線を山奥に……誰にも悟られないようにそっと移していた。
過ぎ去った過去の思い出が、その薄い唇を動かせたのだろう。
「バカな弟だと思っていたが、よもやここまで大バカ者だったとはな」
そう、戦術師シャルル=ド=ルシャシャはあの衛兵長の兄。
名門貴族の出であり、弟とは違い地位も名声も本物だった男。
そんな男の脳裏には無能な弟の顔が浮かんでいた。
兄より、母より先に逝く弟。それは本当に大バカ者だろう。
自分ならもっとうまくやっていた。威力偵察とて、ちゃんと生き抜きもっと情報を持ち帰っていただろう。
だが――。
なぜだろうか、冷静を是とする戦術師の男の瞳は、うっかりすると揺れそうになるのだ。
戦術師の指示を待つ騎士の一人が言う。
「シャルル殿。いかがなさいましたか?」
「いや――」
弟の死を無駄にしないためにも、戦術師の男は冷静になる。
「懸念は多く存在する――。女王陛下は遠征の力を溜めるための祈祷で動けぬ、陸路からの魔物の襲撃など想定しなかったからな――事態の把握すらできていないだろう。ギルドとはドググ=ラググの件で亀裂が生じている。回復アイテムの類もドググ=ラググの失踪により権利をロスト。そして、北の山の奥からは謎のモスマンが致死量の毒を抱えて奇襲してきていた――最悪だな」
「いかがいたしましょうか」
「まずはギルドの連中と和解することからだろうな。双子姉妹。集団への支援と護衛スキルの達人である聖騎士レイン、並びにその姉、遠距離からの破壊魔術を得意とする女魔術師カレン。そして弓矢に魔力と魔道具の効果を乗算できる天才狩人アークトゥルス。あの三人がおらねば話にならないだろう」
大規模遠征でも中心となる筈だった冒険者たち。
「東の大陸、ヴェルザに救援を求めるというのはいかがでしょうか。塔を介さぬ魔物からの奇襲は人類にとって初の脅威。事情を説明すれば、賢き幼女教皇ならば……耳を傾けて下さるやもしれませぬ」
「東への海路は謎の大嵐で航行不能となっている。忘れたのか?」
「も、申し訳ありません――」
「大地神どもが土下座せよと街に警告を与えていた。その助け船を、わたし達、人類は拾う事ができなかったということだろう――もし神々が与えてくださった警告に従い、海路を回復できていれば……いや、もう過ぎたことか――ともあれ、猶予は半日。さすがに、他国からの助力が間に合う状態でもあるまい」
後悔してもいい。
人間は後悔から学ぶ生き物だと、戦術師シャルル=ド=ルシャシャは多くの失敗から学んでいた。
人は成長する。
有能とされる彼も、昔から完璧だったわけではなかったのだ。
騎士の一人が言う。
「ただ……本当に、来るのでしょうか?」
「なにがだ」
「モスマンの群れでございます。蛾人間モスマンといえばダンジョン塔の毒使い、単独で行動する類の敵。群れを成し、ましてや雲の高さで空を飛ぶなど――聞いたことがございません」
戦術師の眼鏡が、冷たく輝いた。
「では報告が虚偽であると、無視するか。それもよかろう、嘘であるのならバカな弟の虚言を信じた兄が暴走し、大規模遠征の資材を転用した、稀代の大バカ者として歴史に名を残すことになるだろう。わたしとて、恥ずべき戦術師として後の若者に名を覚えられたくはないからな」
お、おい……と。
衛兵長と戦術師の関係を知っている騎士の一人が、先の発言をした騎士を窘める。
「し、失言をお許しください!」
「いや、今の発言はわたしも冷静さを欠いていた。すまぬ。わたしとて、いっそ虚偽であって欲しいのだ。バカな弟の、虚栄心から来たバカな報告であったと……なれど、どうやらそうではないらしい。宮廷魔術師の連中も北部からの異様な気配を観測したそうだ。本当にモスマンかどうかは判断できぬ、ただ、邪悪な何かが迫ってきていることは事実であると心せよ」
優秀な兄は、部下たちを統率しながら考える。
ちゃんと泣くのは後でいい。
母への報告と詫びは、そのもっと先。
きっと母は泣くだろう。泣き崩れて、年とともに細くなったその膝を折るだろう。かつて兄弟を抱えたその手で、涙を流す顔を覆うのだろう。権利を乱用し、一族の恥とさえ言われた弟であっても、家族。愛していたのだ。自分がこうならば、母はもっと……。
冷静に指揮をする中、思い出だけが脳裏をよぎり続ける。
けれど頭はいつも以上に働いていた。
愚弟が見せた最後の勇気を拾わずして、兄を名乗ることなどできはしない。
そう、心に強く誓い――防衛ラインを組むべく軍を動かしたのだった。
◇
時は遡ること一時間ほど前。
食事の香りが漂うギルドの中。
老剣士イザールは頭を下げていた。
ギルドの皆ははじめ理解ができなかった。
女王の側近で重鎮の英雄が、まさか単身で、息を切らすほどの速度で駆けこんでくるとはさすがに想定外だったのだ。
残念ながら一番快速の馬、ユニコーンに乗る資格がないイザールにとって、最速が自らの足で駆けることだったのだから仕方がない。
事態は深刻だった。
だから老剣士イザールは即座に事情を説明した。
老兵の手に握られているのは、衛兵長からの報告書。
不和であっても、さすがに英雄の言葉には皆、耳を傾けている。
「というわけだ――ここにあいつの、謝罪文も残されている。小者だった貴族の坊主が最後に残した言葉だ。そこに嘘はない、オレはそう信じている」
聞き終えたギルドの面々の表情は――重い。
その報告者というのが衛兵長の事だと、ギルドの面々も知っている。
有力な冒険者。双子姉妹の姉、女魔術師カレンが老剣士イザールに言う。
「事情はだいたい理解できたわ。それで、この報告書の彼……衛兵長は――」
「王宮で作戦を指示している戦術師のスキル、”家臣名簿”から名が消失していた。何らかの手段を使って自主的に強制除隊したんじゃねえのなら――そういうことだろうさ。終わった後に、回収する」
「そう……」
死亡したのだと察したのだろう。
つい先日、顔を突きつけるほどに絡んだ狩人アークトゥルスは、静かに瞳を閉じていた。
閉じた瞳の意味は、彼本人にしか分からなかっただろう。
「国との関係が拗れていた件は、今は忘れるわ。街が狙われているのなら協力する。別に、その彼のためってわけじゃないけれど。アークトゥルス、あなたはどうする?」
「……ここは俺の街だ。色々とむかつくことはあったが、見捨てたりはできねえよ」
「なら、決まりね」
他の面々も頷く中、聖騎士で妹のレインが姉に向かって眉を下げ。
ふっと男装の麗人スマイル。
「おいおい、姉さん。ボクには確認しないのかい? ここは妹に、一緒に死んでくれないかしら? そう、お願いする場面だと思うのだけれど?」
「いや、騎士道精神にうるさいあなたに……聞く必要あるかしら……?」
聖騎士レインにはムードメーカーの特性があるのだろう。
衛兵長の死で沈んでいた空気がわずかに元に戻っていく。
協力を取り付けた老剣士が、再度、深々と頭を下げる。
「助かる。正直、ギルドの協力抜きにして相手にできる軍勢とは思えねえからな。それでだ、可能ならドググ=ラググに連絡を取って戻ってきてもらいてえんだが……」
この件に関して、ギルドの冒険者の表情は明るくない。
心情の問題ではなく、可能かどうかの問題だった。
「無理ね。こちらからの連絡は届かないわ」
「そうか……ポーションの使用権がロストしている件だが」
「ギルド側が意図したものじゃないから、そっちも解除できないわ。たぶん、ドググ=ラググがギルドのエリア範囲外に出ていることが原因でしょうね……。彼のご先祖様って、ポーションの基礎を開発した錬金術師だったって話ですから……そのまま権利も彼が引き継いでいる。だから、もしポーションが必要なら他国の、ドググ=ラググの血族が開発したポーションとは別の回復薬……たとえば薬草系のアイテムに頼るしかないと思うの。まあ……彼が戻ってくれば、すぐに使用権も復活するとは思うけれど」
だが彼は、冤罪を擦り付けられた結果。
この街から退避してしまった。
スキルや技術を保持するギルドシステムも、結局のところは契約魔術。仕様上、あまりにも離れた場所に長時間いると、ギルド名簿から消えてしまう。
女魔術師カレンは考える。
「なんとか連絡を取る手段を考えてはみる。けれど、モスマンの襲撃には間に合わないと思って頂戴」
「承知した。ならばこのまま参戦できる者は王宮に来てもらえるか? 蛾どもがくるより先に、人類は半日の猶予の中で団結する。カレンレイン、アークトゥルス。お前さん達は冒険者の中でも有名だからな、顔を出すだけでも士気が向上するだろう」
ギルドとの不和を招いた男が作った、半日の猶予。
短いようで、しかしとても貴重な半日。
人類は動き出し、そしてやがて時が経つ。
ウィルドリアの街の北部。
避難した人類たちの空き家の上、無数の黒が覆いつくしたのは目算通り。
やはり半日後の出来事だった。
奇襲を察知し、更に十二時間の猶予を人類に齎した。
戦争前の十二時間。
その功績と価値を蔑む者は誰もいなかった。




