第033話、開戦―そして彼は英雄となった―
【SIDE:ウィルドリア防衛戦】
かつてダンジョン塔を囲う人類国家バーストリニアがあった地。
塔からの侵攻に負け、既に滅び、魔物の支配領域となった場所。
現在はモスマン帝国と改名されたエリアにて、その日、千を超える先遣隊の群れが解き放たれた。
地上から見上げるそれらは、料理人職による量産スキルが開発されるまでは稀少とされた黒コショウに近い。
黒い粒なのだ。
しかし、それはそれほどの高さを飛んでいるだけであり、ちゃんとした鑑定の魔術を扱える者がチェックすれば、実際の個体は人間とほぼ同じ大きさであると観測できる。
千を超える奇襲部隊、魔物の総称は――。
蛾人間と書き、モスマン。
知恵ある魔物となった彼らの見た目は、二足歩行の蛾に近いだろう。
翼は一見すると鳥を彷彿とさせるほどに優雅で、骨格の筋が目立つ。
前衛後衛のコンビなのだろう、比翼の姿が基本となって行動している。
知らぬものが見れば、温かさを求め番で飛ぶ、渡り鳥の群れと誤解を招いていたかもしれない。
けれど、鑑定を使用すると見えてくるその種族は昆虫人類。
鳥類ではない。模様と羽の材質を見ればそれが昆虫類の翅であると見て取れるのだ。
鳥類の魔物と誤解されやすい原因は、その身体と翼のアンバランスか。
モスマンの翼は確かに綺麗だが、彼らの身体を支えるには、小ぶり。
人のように大きな身体。
蛾を祖とするそのモフモフな身の浮力は、それなり以上にある。だが、それでも大空を浮かせるには足らぬ蛾の翼。もとよりダンジョンの中では高く飛ぶことがなかったのだ。翼と身体のバランスが悪いのは、外の世界に適応できていない弊害、今後の課題といえよう。
ではなぜ。
このように天高く彼らが飛んでいられるのか。その答えは翅と魔力の合成。翼で飛ぶとされる竜が、実際には魔力で飛んでいるように、彼らも魔力補助を活用しているのである。
その証拠に、鱗粉代わりに空を散っているのは魔力の粉。
彼らは竜を参考にし、はじめてこの大空を舞う事に成功していたのだ。
ギギギギギィィ。
大空を舞う彼らは進む。
蛾帝マスラ=モス=キートニアの命に従い、人間の裏切り者、冒険者殺しスカーマン=ダイナックから齎された街の情報を元に――最も殺戮できる作戦を抱いて。
ギギギギギ。
朝と夜を越え。ダンジョン塔では飛ぶ機会のなかった翼を羽ばたかせ。
天高く。
彼らが向かう先は一番近くのダンジョン塔。
女王の指揮の元、着実に攻略が進んでいる危険な地。
先遣隊となったモスマン突撃部隊は思う。
『モススススス! これは歴史に残る、毒ガス奇襲になるモス』
と。
だから本当に高く飛んだのだ。
それが――星の海から、うにゃーんと地上を眺めていた、巨大モフモフの狩猟本能を刺激してしまったとは知らずに。
◇
ウィルドリアの街は騒然としていた。
突如として山向こうで観測された黒い蛾人間。
その千を越える軍勢に気が付いてしまったのだ。
その群れを観測した人類は、事態の深刻さをすぐに悟っていた。
これは魔物による奇襲であると。
これが人類史において初めての、地上に降りた魔物側からの大規模遠征だと誰の目からも分かったのは、その首からぶら下げた魔法の宝珠の影響だろう。
それはまるで数珠のネックレス。
けれど、色は非常に毒々しい、
アイテム名は巫蠱天明の毒繭。それらはダンジョン中層以上の獣人たちが使用する、攻撃アイテム。
呪いと共に毒が蒔かれる、非常に強力な毒の魔道具なのだ。
なぜ人類がそれを知っているか。それは不敗の老剣士イザールがその経験を纏めた、迷宮心得にして指南書、”我が研鑽の果て”に記載されていたからである。
世界で一番目を通された指南書として有名なので、あえてこれ以上、触れる必要もないだろう。
その毒は極めて強力。ヒーラーがいなければほぼ即死とされる神経毒。
毒矢の材料とし鏃に使われる”テトロード”に近いか。
中級冒険者向けに記された、宝箱にしかけられた罠の項に目を通せばすぐに分かる。
ともあれ、その強力な致死性の毒アイテムの数は千以上。
千を超えるモスマンの全員が、それを装備しているのだ。
彼らは毒に耐性があるのだろう。だが、こんなものを装備されたまま降下されたら。
これが魔物による大規模遠征ではなかったらなんだというのか。
だから、人類は驚愕した。
◇
地上にある街を急襲しようと、魔物達が魔道具を抱えて高速移動している。
その報告を最初に上げたのは、街を徘徊する無実訴え生ごみゴーレムを片付けていた衛兵長の一団だった。時を僅かにさかのぼろう。
先日、冒険者ギルドからの抗議を追い返した衛兵長は、齢三十五の名門貴族の出であった。
とはいっても彼自身に威光はない。
それは全て家の権力。祖父がかつて姫だった頃の女王陛下の護衛であったというだけで、衛兵長は無能でありながらここまでの地位を維持する事ができていた。
もっとも、他の兄妹は戦略指揮科や実戦魔術理論の講師など、もっとエリートとされる軍学校の要となっているのだ。出世できているとはいいがたい。
それが彼のコンプレックス。
祖父の威光を頼ってここが限界だという事自体が無能な証だと、彼自身が一番知っていた。
だから、衛兵長の地位だけは絶対に守り抜きたかった。
故に、彼は手柄を求めた。多少怪しいとしつつも、ドググ=ラググ指名手配の許可を求める書類にサインをしてしまったのだ。
「別にリザードマン一匹、仮に冤罪だったとしても構わないだろう」
と。
リザードマンが不当に差別されているのではない。衛兵長が優秀で人当たりもよく、人気だったドググ=ラググに嫉妬していたのだ。
いっそこの手で捕まえる。
だから彼は部下を使い、ドググ=ラググを捜索していた。
それでもログの改竄などありえないとされていた世の中だ。彼の行動と判断自体は、過度に非難される行動ではなかった事も事実である。
そんな彼が先日、大叱責を受けることとなった。
祖父の威光を盾に、いままではどんな失敗も見逃されていた。しかし、今回ばかりは相手が悪かった。
衛兵長を呼び出したのはウィルドリアの街において、名実ともに最強とされる剣聖。
老剣士イザール。
籍こそ入れていないが、女王の実質的な伴侶とされる英雄である。
そんな大物が、怒りさえ見せずに、ただ熟練を彷彿とさせる剣士の腕を組み。
こう言ったのだ。
「最後のチャンスをやる。連中を連れ戻してこい」
ドググ=ラググの失踪で、ポーションの全てが使用できなくなったことは国中が知っている。
ギルドと国の不和が確実となってしまったことも、国中が知っている。
大遠征を前に、大失態だ。
ではその責任を誰がとるか。
それで上の連中が混乱していることも知っていた。
だから衛兵長は言った。
「さ、最後とは――わ、わたしは規則に従い指名手配書を受理しただけでして……その」
「ここにはログが残っている。もし改竄されていねえなら、おまえはギルドの構成員に向かい除名になると脅し、また再調査を求める嘆願を放置したまま――いや、もういい。これで最後のチャンスは終わりだ。てめえはドググ=ラググが残していった、あの生ごみの片づけでもしてろ」
言って、老英雄はその場を後にした。
その背を追って、衛兵長は思わず手を伸ばし。
声を上げていた。
「ま、待ってください! あ、あの! わ、わたしは昔、あなたに剣を習ったことがっ」
だから何だというのだろうか。
それは子どもの頃、祖父の権力で頼み込んで、三日ほど、剣の指導を受けただけ。
ただそれだけの思い出。
老英雄は振り返りはせずとも、立ち止まり。
本当に悲しそうな声で告げた。
「……――さっきまでは覚えていたさ」
足音が遠ざかる。
幸か不幸か。
衛兵長は自分のどこが悪かったのか、理解できるだけの知恵はあった。
あの時、変な嫉妬心を起こさなければ。自尊心から、ギルド冒険者の嘆願を突っぱねてしまわなければ。せめて、ちゃんと話を聞いてさえいれば、こうはならなかった。
そんな後悔の中で、彼がとった行動は――ゴミ掃除だった。
衛兵長は憧れていた。
あの老剣士に。
憧れの人から向けられた侮蔑すらない虚無は、かつて英雄譚に憧れた彼の心を深く突き刺していたのだ。
衛兵長は部下と共にゴミを拾って回った。
その時だった。
街の外れ。北部の山の奥にみえる、無数の黒い点を衛兵長が目撃したのは。
生ごみを撒くゴーレムという事で、彼は偶然スキルを使っていたのだ。
スキル名は”ネズミの目”。
汚く暗い場所でも遠くを見ることができる、狩人や盗賊が扱える初級の観測スキル。
はじめ、彼が山の奥を蠢く黒い塊を見た時、それを雷雲だと判断していた。
鈍い音を立て、空を蠢く黒い塊。
それはまさしく雷雲。
けれど、衛兵長はとある男の指南書を読んでいた。
ちゃんと見ろ、分からなければ鑑定を使え。思い込みこそが死を招く、と。
だから彼は名門貴族のコネで手に入れた鑑定アイテム、”鬼天竺鼠の唾液瓶”を使用していた。
そして。
それらが稀代の毒アイテムを装備した、モスマンの群れだと発覚したのだ。
衛兵長は部下たちに急ぎの伝達を指示し。
一人、黒い群れの方角へとユニコーンを走らせた。
何が彼を単独で走らせたのか。
何が彼の使命感を後押ししたのか。
おそらく、家族が聞いたらあいつがそんな勇敢なわけがない。そう、母親でさえ苦笑しながら否定しただろう。
しかし――衛兵長は馬の手綱を握り、魔力を通し黒の群れへと駆けたのだ。
半日の後。
ユニコーンが街に戻ってきた時、その背に衛兵長の姿はなかった。
ただ――街はすぐに彼の蛮勇を知ることになる。街へ危険を知らせる旨と、敵襲の規模が記された報告書がその角に残されていたのだ。
彼が自らの命を犠牲とし、民のため、威力偵察を行ったのだと戦術を知る者はすぐに悟った。
こうしてウィルドリア防衛戦は、一人の男の死から始まった。
その報告書に、とある天才錬金術師への謝罪の言葉が残されていたことを知る者は――少ない。




