第177話、世界で唯一蘇生魔術を扱える存在が、ネコだった世界
【SIDE:イエスタデイ=ワンス=モア】
多くの年月を費やし、やりきった――かつての主神。
魔猫であり魔道具に改造された盤上遊戯の核。
イエスタデイ=ワンス=モアは昏い道を歩いていた。
周囲を見渡しても主はいない。
主人の魂は盤上世界の月や大地に移っている、あるいは遊戯盤を齧られた影響で聖父クリストフのレギオンに吸収されているせいだろうか。
タヌキ顔が、寂しそうに揺れる。
口がわずかに開いて、落胆が漏れる。
しかし――。
ここはどこかがおかしい。
本来なら盤上遊戯の核に戻り、力を取り戻すまで眠り続ける状態にある筈だと魔猫は考えていた。
『ふむ……これはいったい――』
魔猫はこの道を知っていた。
ここは死への道。
蘇生を行うヒーラー魔猫である彼がよく介入していた場所だ。
イエスタデイ=ワンス=モアが言う。
『よもや我がこの道を歩むことになるとはな――』
魔道具として破損したことが世界に死として認識されたのか。
いや――。
かつて主神だった魔猫イエスタデイ=ワンス=モアは闇に向かい威嚇をする。
『なにものだ――壊れた魔道具たる我に干渉する者よ』
『おや、もうしばらく君の様子を見ようと思っていたのだが、こちらに気付くとはさすがだね――ああ、悪いが少々待って欲しい。君という存在は力が強すぎる、干渉するのが結構難しくてね……えーと、盤上世界の法則を読み取って……』
なにやら声が聞こえてくる。
いわゆるそれは天からの声。
妙にハスキーで、敬虔なる聖職者と言った様子の声だが――その声質には重みがあった。甘ったるい魅了の魔力が重厚に滲んでいるのだ。
あれでもない、これでもないと様々に魔術を試しているようだが――。
魔猫イエスタデイ=ワンス=モアがジト目で、何もない天を仰ぐ。
『うーみゅ……我も死者を蘇らせる際はこんな風に見えておったんだろうか……なんというか、結構まぬけではあるまいか?』
『はははははは。まあそう言わないでおくれ……って、なんだいアカリくん。お父さんは今、これでも珍しく真面目に神の真似事をしているんだけど――』
直後――。
聖職者の声ではなく、気丈な我儘姫といった空気の声が続く。
『お父様……盤上遊戯用の駒、アバターを作るのにどれほどの時間をかけるつもりなのかしら?』
『そうは言うけれどね、やっぱり格好いいキャラを作りたいじゃないか』
『だいたい……魔猫モードのお父様はもっとデ……いえ、こんなに痩せてはいないのではありません? それに、駒なんて作らなくても直接乗り込めばよろしいでしょう』
『あ、こら! お父さんの駒を勝手に……っ』
なにやら親子が言い争っているようだが。
魔猫イエスタデイとしては、いつまでも茶番に付き合う道理はなく。
『おぬしら、ふざけているのなら我はもう行くぞ? 主人の元に向かわなくてはならぬのでな』
『これは申し訳ありません。今そちらに参りますから――少々お待ちいただけませんかしら? イエスタデイ様。あなたにとっても、悪い話ではございませんから』
言って、闇の中から浮かんできたのは玉座だった。
見覚えのある玉座には一匹のネコが座っている。
黒くて太々しいドヤ顔をした魔猫。その一歩後ろには、赤髪と雪色の肌を妖しく輝かせる、姫姿の絶世の美女がいる。
太々しい顔をした猫が慇懃に礼をする。
『やあ、初めまして――』
禍々しい魔力は間違いなく主神クラス。
瞬時に魔猫イエスタデイ=ワンス=モアは察していた。
『なるほど、大魔王ケトスの類似存在。異なる世界に存在したもう一人の巨鯨神猫。大魔帝ケトスとはおぬしのことか――』
『おっと、名乗り上げの前に言われてしまったね。そうだね――私がケトス、大魔帝ケトス。魔王軍最高幹部であり、果てしない三千世界を観測する魔猫神さ。かつて失ってしまった伴侶を求めていた大魔王ケトスがお世話になっているようだからね、今回はそのお礼に来たのさ』
大魔王よりも多少余裕のある大人猫と言った印象だが、その性質はよく似ている。
間違いなく本人だろうとイエスタデイは理解していた。
『となると――そちらの御令嬢が、世界に逸話書、異界魔術を発動させる因となっている魔導書。グリモワールを無作為に撒き散らしているとされる次元図書館の赤雪姫……といったところであるか。魔導の知識としては存在を把握しておったが、まさか実在していたとはな』
盤上世界に紛れ込んでいる異界の魔導書の数々。
外なる神の知識を記す本。
この赤雪姫こそがその出所であり、大魔帝ケトスの娘であると推測できる。
その強さはおそらく四星獣と並びうる。
『あら、四星獣様――撒き散らしているなんて悪意のある言い方、心外ですわ。あたしはただ、消えてしまいそうな世界に変化を与えているだけ。不幸で終わってしまう物語なんてつまらないんですもの――どうせ消えてしまう世界なら、改竄しても構わないでしょう?』
赤髪の姫は、悪戯ネコの顔でくすりと微笑み。
『本当にあたしはただ、終わる筈だった世界に介入して魔導書を授けているだけ。あたしの齎した魔導書で物語の続きを紡ぎ出しているのは、あなたたち自身。あたしはただそれを眺めて好奇心を満たしているだけですもの、悪いことをしているわけではないわ』
『ふむ、奇特な娘よ――ようは終わる運命の世界に干渉し、滅びを回避して世界を救っているということか』
感心した様子のイエスタデイ=ワンス=モアに、親子は顔を見合わせ。
娘は視線を逸らし、父は苦笑い。
大魔帝ケトスが眉を下げて苦笑に言葉を乗せていたのだ。
『残念ながらうちの娘はそこまでお人好しじゃないよ。そりゃあ結果として救われる世界もあったのだろうけれどね。この子は物語を眺めるのが大好きなんだ。そして、その物語の中で生まれるその世界特有の新魔術に惹かれている。この子は魔術蒐集しているだけに過ぎないんだ――』
『まあ――あたしの話はよろしいのではなくて?』
『はは、そうだね。というわけだイエスタデイ=ワンス=モアくん。私は君から受けた恩を返しに来たのさ。大魔王ケトスに頼まれてね――』
死んだ間際に現れて。
勝手にいろいろと話を続ける魔猫の親子を見て、主神だったイエスタデイ=ワンス=モアは考える。
『突然現れていきなり話を進める……か。我も、こんな感じであったのだろうなぁ……』
『魔猫の神なんてそんなもんさ。他人の都合に合わせる必要などないのだからね――』
『して、本当になにようなのだ――大魔王ケトスの恩と言っておるが……この空間に干渉する事とて並大抵の魔力消費と労力ではあるまい。実際、既におぬしたちの遊戯駒は消えかけ、乱れ始めておるぞ』
イエスタデイ=ワンス=モアは真面目な口調で、うにゃり。
玉座に座る大魔帝を見るが。
大魔帝は消えそうになる自身の駒を安定させてみせて、にやり。
『君たちを観察していて思ったのだけれどね、このままだと盤上遊戯の性質……法則を無視して願いを叶える便利な魔術が消えてしまうだろう? だからまあ、ちょっと勿体ないと思ってね。神格を失い、数千年単位で眠りにつくはずの君の魂を拾い上げに来たのさ』
『ぶにゃははははは! 随分と容易く言うではないか、大魔帝よ。しかし、それは叶わぬ幻よ。もはや盤上遊戯を見守る魔猫の置物は砕かれた。眠る我が主が見続けるこの盤上世界、夢という不確かな世界を利用した際限のない願いを叶える力も既に散った。我を救いあげるだけの魔力など、どこにもあるまい』
願いを叶えるには対価がいる。
しかし大魔帝は、くははははははは! とチェシャ猫スマイル。
玉座の上で偉そうに投げ出した足の肉球を輝かせていた。
『君は勘違いをしているね。これは提案ではなく確定事項だ』
『と、言われてものぅ……』
『君ほどの存在が消えると盤上遊戯だけではなく世界全体のバランスも崩れてしまうだろうし、なにより――代わりとなる魔力は既に大魔王ケトスから預かっているし、依頼も受けているからね』
告げて大魔帝は虚無たる空を見上げる。
釣られてイエスタデイ=ワンス=モアも空を見上げた。
そこには――三つの星が輝いていた。
『あれは――そうか、あやつらもまた、願いを叶える性質を持つ獣神。四星獣』
四星獣ナウナウ。
四星獣ムルジル=ガダンガダン大王。
四星獣異聞禁書ネコヤナギ。
友と呼べる彼らは祈っていた。
イエスタデイ=ワンス=モアの本体ともいうべき、割れた魔猫の置物に向かい、蘇生の儀式を発動させていた。
それだけではない。
星の輝きの下。
魔王アルバートン=アル=カイトスを中心とした今を生きる命たちが、甲羅の隙間のダンジョンに鎮座された像に向かい跪き――祈りを捧げている。
どうか戻ってきてください――と。
どうかもう、泣かないでください――と。
大魔帝ケトスが言う。
『どうやら君は、慕われていた主神のようだね――だから、かな。観測しているのに無視するのも気が引けるし、同じ猫のよしみってのもあるし大魔王ケトスに恩を売っておきたいって下心もあってだ。私と娘が君に奇跡が届くように、魔術の発動範囲内まで道案内をしにきたってわけだよ』
『お父様、そろそろ時間が――』
『そうだね――これでタイムリミットになってしまったら大魔王の三獣神に何を言われるか分かったものではない。始めるとしよう――ああ、君に拒否権はないよ。もう依頼料も貰ってしまっているからね』
告げて――。
パチン!
大魔帝ケトスが肉球を鳴らす。
同時に、後ろに従っていた姫が顕現させた図書館から膨大な数の魔導書を展開。
一斉に、魔導書が開かれる。
膨大な書の数に比例した、異常な魔力を制御し――。
大魔帝は魔術を発動させていた。
『多くの願いを叶えた魔猫イエスタデイ=ワンス=モアよ。今度は君の番だ――さあ、最後に君自身の願いを叶えたまえ――』
ぶわぶわっと猫の獣毛が揺れている。
魔力に靡いて、膨らんで。
世界の法則が、乱される。
それは未知の魔術。
消えゆく主神――イエスタデイ=ワンス=モアと、今を生きる命たちをつなぐ魔力の道。
今を生きる命たちは奇跡を願い、それは力となって発動されていた。
そして――。
死者が辿る、いつもイエスタデイ=ワンス=モアが干渉していた闇の道に――。
男は現れた。
「ずっと、待たせてしまったね――イエスタデイ。あの時、君を守れなかった僕を、許してくれるかい?」
そこには主がいた。
羊飼いの男がいた。
主人がいた。
『主人よ。なぜ、あなたがここにいる――』
ヌートリアの姿ではなく、あの日の草原の姿の主人がそこに。
盤上世界という檻に囚われ続けていた主が、そこに――。
『これは……、夢ではないのか』
「はは、僕もそう思ったけれどね――どうやらそうではないらしい」
盤上遊戯が存続しているのに。
主人が解放されている。
魔猫は理解できずに、動けずにいた。
主人は少し困った顔で、腕を伸ばす。
「僕の事が嫌いになってしまったのかい?」
そんなことはない。
ずっと。
ずっと。
『会いたかったのだ――あなたに、ずっと。ずっと――我は、我はずっと、そのために……っ』
「さあ帰ろう、イエスタデイ――皆が待っている」
身体が。
動いた。
魔道具となり果てていた身が、元の魔猫の姿へと戻っていた。
魔道具イエスタデイ=ワンス=モアは確かに消失した。
けれど。
魔猫イエスタデイ=ワンス=モアとして顕現していたのだ。
盤上世界に、ログが流れる。
▽魔猫イエスタデイ=ワンス=モアは蘇生された。
――と。
この時初めて、盤上世界の一つの法則が壊れた。
蘇生魔術を扱ったのは――魔猫だけではない。
ネコだけではない。
主神イエスタデイ=ワンス=モアの帰還を願った今を生きる命たちの想いが、蘇生魔術を発動させていたのだ。
主人を求めて動き続けていた魔猫。
イエスタデイ。
あの日を顧み続けた魔猫の身体は飛んでいた。
足が駆ける。
手が伸びる。
暗かった空間に、草原の青さが広がっていく。
ぬくもりが、獣毛を包む。
そこはずっと夢見た、主人の手元。
魔猫イエスタデイ=ワンス=モアは主人の腕の中で、ゴロゴロと喉を鳴らした。
頬をこすり付け。
額をこすり付け。
あの日の別れを泣いた魔猫は、ようやく主人の腕へと戻ったのだ。
何故、主人がここにいるのか。
何故、ここまで迎えに来られたのか。
大きな魔術と魔力が動いたのは確かだ。
けれど、今だけはただ――。
ふわふわで幸せな草原の中で、魔猫は全身で歓喜を示し。
ニャーニャーと夢中で鳴き続けた。




