第176話、最終決戦―終わりの一撃―【静謐の祭壇】
【SIDE:盤上遊戯を生きる命】
成長した我が子らを信じ、主神たる四星獣イエスタデイ=ワンス=モアは最後の魔術を放っていた。
盤上世界のみを、かつて在ったあの日に戻す。
つまりそれは、遊戯盤に改造されてしまった自分と主人を回復する終焉の魔術。
その発動は四星獣を束ねる魔導書によって行われている。
魔性としての赤い目ではなく、元のおだやかな青い瞳で世界を信じたイエスタデイ=ワンス=モアの目の前に浮かんでいる。
この書を破壊すれば、今を生きる命たちの勝利となる。
遡る時間と次元を逆行し、かつて馬だった英雄アキレスが駆ける。
英雄の末裔、スピカ=コーラルスターが弓を引く。
運命に翻弄された殺戮令嬢が、冥界神の慈悲を受けてドレスを蝶の羽のように広げる。
拷問拳闘家ロロナが天高く放り投げた大地神の駒から発生する反動を、その身に受け――膨大な衝撃に耐えるその肩を、ビスス=アビススが支えている。
魔王も猛将も千年幼女も、英雄アキレスが魔導書を破壊できる道を作るため、尽力していた。
だが――。
あと一歩のところで届かぬアキレスの脚。
歯を食いしばり、奥歯をギリリと鳴らして英雄は唸る。
「届かねえで終わりなんて、オレは――認めねえからな!」
最後の一押しがどうしても足りない。
そう誰しもが思った。
その時だった。
フィールド変化を起こし発生していた真樹の森の奥。
音がした。
群れ集うケモノの気配がそこにある。
樹の上に無数の気配がある。
それはまだ記憶に新しい気配だった。
鑑定名は――。
魔導書を目指し駆けるアキレスが横目で目視し、腹の奥から押し出すように吠えていた。
「なっ――ヌートリアだと!? なんで、こんな時に……っ」
ヌートリア化し行き場を失い、真樹の森に消えたヌートリア達がそこにいた。
外来種に憑依され、同胞や仲間からネズミだと追い出され徘徊し――行き場を失った者たちが流れ着く、真樹の森に棲んでいたヌートリア達が森と共に現れたのだ。
最終的に四星獣ナウナウに拾われていた彼らは、かつて人間だったモノ。あるいは魔族だったモノ。
ヌートリア達が一斉に英雄を向き。
いや、その奥で静観する四星獣イエスタデイ=ワンス=モアの魔導書を眺め。
その邪悪そうな口元を、蠢かせる。
『オオ。あれが、原初へのヒカリ――』
『かつてのアノ日に、カエレルひかり』
『あの日に帰レバ』
『ワレらはまたヤリナオセルのかもしれナイ』
ヌートリア達が手を伸ばす。
光に向かい、指を伸ばす。
誰よりも過去に戻りたいと願うケモノたちは、それでも考え。
言った。
『ケレド』
『アア、我々は知ってイル』
醜く軋んだ指を伸ばし。
魔法陣を描き。
生えたヌートリアの髯を蠢かす。
『ワレらは故郷を、穢した』
『ワレらはただ帰りたかったダケだった。ケレド』
『ワレらは人を、魔族を殺シタ』
『タクサン、殺してしまった――』
『ワレらは今を生きる命たちと敵対した。ソレは事実――』
群れ集うヌートリア。
真樹の森が、揺れる。
啼くように、揺れる。
『ソレでも』
『ワレらもまた、今を生きる命』
『神ヨ、四星獣イエスタデイ=ワンス=モアよ。かつてのあの日にカエリタイと願う、そのココロ』
『ワレらには理解できる。とても、とても。深く、理解デキル』
『ナレド――やはりワレらは』
かつて同胞だった仲間を、守ると決めた。
そう言いたげな表情で、ネズミ達は詠唱する。
かつて敵対した山のように蠢くヌートリア達が、一斉に強化魔術を唱え始める。
対象は英雄アキレス。
閃光のように、駿馬のようにただ一条の矢となっている偉丈夫に全ての強化が集っていく。
「脅かすんじゃねえっての! 敵かと思ったじゃねえか!」
英雄がニィっと歯を覗かせ豪胆に笑う。
あと一歩。
あと一歩が近づいてくる。
その時、軍を指揮する四天王は同族の気配に気付いたのだろう。
英雄を強化するヌートリア達、その中心にいる旅鼠に。
軍人の鑑たる猛将マイアが、切れ長な瞳を見開き。
「ミリー……? おまえ――っ、ミリーなのか!?」
そう、そこにいたのは夫婦の旅鼠。
普段は竹林のステーキハウスで働く新婚夫婦。
縦じまの目立つ雄旅鼠と寄り添う、雌旅鼠。
夫婦は仲睦まじい姿を見せながらも、ヌートリア達の中心で魔法陣をくみ上げている。
その周りには、小さな子ネズミ達もいる。
ヌートリアと化した者。
ネズミと化した者。
彼らにももう既に、彼らの暮らしがあるのだろう。
メスの旅鼠は姉に気付いて、にっこりと微笑んだ。
とても幸せなのよ、と。
微笑んだ。
ヌートリア達と共に魔王城を守った。
当時の現場にいたロロナが言う。
「ふぅ……、もう子供がいっぱいできてるって~。これでお姉さんにバレちゃったわねぇ、あの妹さん」
「ロロナ、おまえ――知っていたのか!?」
「あれれ~。あたしぃ、言ってませんでしたっけぇ?」
「旅鼠となり、番となって消えていった顛末は聞いていたがっ、まさかもう既に子供までいるとは――さすがに知らぬぞ!」
「あはははは、齧歯類は子どもができるのも早いですからね~」
キシシシシっとアキレスが野次を入れる。
「ま、新婚夫婦を邪魔するってのはヤボだわな。ロロナの嬢ちゃんは間違っちゃいねえだろう――さ!」
「話が分かるじゃない、さすが英雄さんねぇ」
「っく、とにかく後で詳しく話を聞かせて貰うからな、ロロナよ……っ!」
裏でなにやら動いていたロロナを睨み、猛将マイアも鞭をしならせ更に仲間全体を再強化。
その支援魔術の中にはヌートリア達も混ざっている。
軍全体から強化を受ける猛将マイアの支援を受けたヌートリア達が、相乗効果を発生させながら英雄アキレスを強化する。
尋常ではない強化を受ければ、その身に限界がくる。
しかしアキレスは不老不死。
そして確率……運命を操作する豪運の恩寵を保有している。
「くそったれが! オレはこの程度じゃ止まらねえんだっての――!」
本来なら成り立たない限界を超える強化の中であっても、動いていた。
うねる次元の道を駆ける、英雄の脚が加速する。
そこは記録と記憶の道。
イエスタデイ=ワンス=モアが眺め、肉球を伸ばし続けた盤上遊戯のログが流れていた。ただの道具だった筈の駒達に愛着を持っていく過程が見えている。
もう、届く距離に――神がいる。
魔導書を破壊すれば、全てが終わる。
だがおそらく――。
英雄は叫んでいた。
「魔導書を放棄しな! オレだと――あんたごと、貫いちまう!」
だが、魔猫の神は魔導書を抱いたまま。
静かに瞳を閉じていた。
四星獣イエスタデイ=ワンス=モアの逸話を書き記す魔導書に、新たなタイトルが刻まれる。
《盤上遊戯を愛した魔猫》。
魔猫は瞳を開けた。
そこにはやはり、魔性の赤い色はない。
快晴の空のように、広々とした青があった。
さあ、我を打ち破れと神たる瞳で駒達の成長を眺めている。
協力し合った種族たちを眺め――。
満足そうな顔をしていた。
途方もない程の時の中で命たちを眺め続けた主神。
その神たるネコの口がにやりと動いて告げていた。
『そうか――やはり、ぬしらは我に届きうるか――ぶぶぶ、ぶにゃはははははは!』
「ネコの旦那、あんたは――」
『何も言うでない、なにも――これもまた一つの歴史。盤上遊戯が明日へと進むために必要な、神からの卒業の日。我等のダイスが砕けた時、それが汝らの新たな歴史の始まりであろう。なんてな、楽しかったぞ――我らの子よ。本当に、本当に――』
もう届く距離だった。
攻撃すれば終わる。
だが――。
「なに勝手に終わりみてえな顔をしてやがる! ふざけんなよ!」
アキレスはイエスタデイ=ワンス=モアの逸話を知っていた。
だから攻撃を躊躇する。
だから終わりを忌避する。
すかさず、英雄魔王アルバートン=アル=カイトスが魔導書をクローディアに任せ――。
指定パーティーメンバーの近隣座標へと転移する魔術を詠唱。
『我が身を友の元へ――《特殊座標転移(友)》』
「どわ! いきなり湧くな、ビビるじゃねえか!」
『抗議は後にしてください。あなたを攻撃魔術で吹き飛ばしますので、その勢いで魔導書だけを貫いてください。後は、僕が……いえ、僕たちがなんとかしますから――』
「だが、攻撃しちまったら――」
『僕を信じて下さい――』
魔王が短刀を手に、詠唱を開始する。
「いや、待て待て待ちやがれ! 加速させるためとはいえだ、てめえの魔術で、オレを吹き飛ばすって――」
『アキレスさんなら大丈夫です』
「根拠もなく勝手に決めるんじゃねえ! おい、マジで――」
『時間がありません、行きます!』
短剣に魔力を込めた魔王の魔術が発動される。
ゴォオオオオオオオオオォォォォォォォっと。
爆音と暴風が発生する中――その爆風に押される形で蹴撃者は飛んでいた。
「あとで覚えておきやがれよ、この脳筋魔王――! 唸れ、我が妻が授けし神器:タラリア!」
ガイア=ルル=ガイアが常に更新し続けているアキレス専用装備、タラリア。
翼の生えた靴ごと、魔導書をめがけて跳躍する。
そして――爆風を背にした英雄の、流星を彷彿とさせる蹴撃が――。
閃光となって――。
世界を。
貫いた。
ビリィイイイイイイイイィィィ――!
音が鳴っていた。
世界を回帰させていた魔導書を破壊した音だった。
不死殺し。駒破壊の力が込められた蹴撃は、確実に魔導書を粉砕。
神への攻撃は避けた。
魔導書だけを破壊したはずだった。
それなのに――。
四星獣イエスタデイ=ワンス=モア。その身体が、透けていく。
まるで使用回数を使い切り、魔力を失ったアイテムのように――すぅ……と、光となって消えていく。
魔猫が自らの消えゆく肉球に目を移し。
そして――英雄が言う。
「なんで――……っ」
『良い、我は魔道具。願いを叶えるための――アイテムに過ぎぬのだからな』
魔猫の魂が、今を生きる命たち。
駒達を眺めて。
言った――。
『感謝を告げよう、強き者たちよ。あぁ……これでようやく悪夢も終わる』
ギシ。
アイテムが砕ける。
音が――鳴る。
『主人よ、我が主よ――我もそこで……この世界と溶け込み、永遠に……』
魔猫の魂が肉球を伸ばす。
願うように。
最後の望みを叶えるように――。
自らの願いを叶えるかのように――。
魔猫イエスタデイの魂が、静謐の祭壇の中央。
魔猫を守るように抱く羊飼いの像に導かれ、消えていく。
天を睨み、神を呪い唸っていた魔猫の像の顔から憎悪が消えていた。
ただ静かに。
硬化した魔猫の像は、主人の腕の中で静かに瞳を閉じていた。
彷徨い、悪夢に魘され続けていた魂が元の肉体……つまり、盤上遊戯の核となっているこの像に戻ったのだろう。
天上世界で音がする。魔猫の置物が、割れる音だった。
ログに――。
情報が流れ始める。
▽アイテム名:《魔道具イエスタデイ=ワンス=モア》は消失した。
――と。
イエスタデイ=ワンス=モアの意識が、闇の中に呑み込まれていく。




