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第170話、敗走―絶望的な差―【迷宮内野営地】


 【SIDE:アルバートン=アル=カイトス】


 ◆魔王は夢を見ていた。


 それは深く長い、幸せな夢。

 魔猫の夢。

 アルバートン=アル=カイトスの身体は白くてふわふわなネコとなっていたのである。


 まだ青い猫の瞳の奥には草原がある。

 羊がいる。

 主がいる。


 これは四星獣となる前の、まだ幸せだった幸福なる夢の中だろう。

 ふわりと浮かぶ魔王の思考。

 映る景色はイエスタデイ=ワンス=モアが帰りたいと願う、あの日の一頁。


 魔猫は主人の足元をくるくると回りながら歩き、ニャーと見上げて鳴いている。

 草原の香りの中に、水の香りが混じり始める。

 羊飼いの主人が魔猫にねだられ、野に咲く綿花に水を上げているのだ。


『参ったね、僕は神々に命じられて羊を育てるのが仕事なんだけど』


 魔猫は困った顔の主人を見上げて、にゃーと催促。

 魔猫は主人が自分の事を大好きだと知っているのだろう。

 どんなわがままも、どんな要求も可愛いから通ってしまう。魔猫は思ったのだろう。


 ぶにゃっふふふふ、主人は我にメロメロなのである。

 ならばこそ、我の命令を聞くのは当然であって? 我が育てたいと感じているモコモコ草を育てるのは必然ニャ?

 と。


『それで、この花はなんなんだい?』


 ぶにゃ? 愚かな主人は知らぬと、見える。

 魔猫はそう思い、タヌキ顔の丸い口を釣り上げジェスチャーで示して見せる。

 ふわふわな尻尾が揺れている、空に伸びた肉球が”ふわふわな雲”を捏ねるように動いていた。


『ああ、なるほど。神々が自慢げに言っていたコットンフラワーを育てて、ふわふわを作ろうとしているのか。しかし、こんな花からふわふわな布団など、本当に作れるのかな』


 綿花から作られるふわふわ。

 空に浮かぶ雲のような綿の中で眠ったら、きっと気持ちいい。

 しあわせのふわふわである。

 魔猫はムフーっと鼻から息を出し、興奮気味にニャーと鳴く。


『なに? もっと水をやれ? それは駄目だろうね、いや、ケチっているわけじゃないさ。猫のおまえには難しいかもしれないが、水をやりすぎると……って、こら! 頭に登るなっていつも言っているだろう?』


 主人は水をケチったが、魔猫は諦めない。

 その日の夜から魔猫はこっそりとテントを抜け出し、しあわせのふわふわを作るために水をやった。

 毎日毎日。

 毎日毎日。

 しあわせのふわふわを作ったら、自慢げに主人を見上げてやるのだ。


 どうであるか?

 このふわふわを作ったのは我であるぞ?

 さあ、褒めよ! 我を撫でよ! 仕方ないから主人も我のふわふわで一緒に眠る権利を与えてやる!

 と。


 にゃー。にゃーにゃーにゃー。

 魔猫は幸せな夢を見た。

 けれどだ。

 毎日毎日、丁寧に水を上げていた筈なのに。


 しあわせを育てるはずの花は枯れてしまった。


『そうか、おまえ僕がいないところでずっと水を上げてしまったのか』

『にゃー?』

『そうか、すまないちゃんと説明していなかった僕が悪いね。いいかい、イエスタデイ。花を育てる時は加減も大切なんだよ。手を掛け過ぎればいいというわけではない、根腐れ……といっても分からないか。ともかく次に育てる時はやりすぎに注意しないとね』


 主人は魔猫の頭を撫でた。

 きっと魔猫が落ち込んだ様子で耳を下げ、尻尾を下げ、枯れてしまった花を眺めていたからだろう。


『にゃー』

『僕が育てている羊もたまに死んでしまうだろう? それと同じだ、これが植物の死。残念だけれど、もう二度と、蘇らない。仕方のない事なんだ』


 もう二度と戻らない?

 大事な花なのに?

 よく理解できない。けれど魔猫は知っていた。主人は育てている羊が死と呼ばれる現象に襲われ、動かなくなると……とても悲しそうにぎゅっと眉間にしわを寄せる。

 その日は必ず、自分を抱き寄せて眠るのだ。


 二度と動かず、戻らなくなる。

 それが死なのだろう。

 魔猫は枯れた花を眺めて、とても悲しい気持ちになっていた。


 ああ、この花を治せたらいいのに。

 この肉球にそんな癒しの力があったら良かったのに。

 塞ぎ込む魔猫に羊飼いの男が言う。


『さて、土を入れ替えよう。残念だけど枯れてしまった花を取り除こう。うん? 自分でやるのか? そうか、ああ、駄目だよもっと優しく、丁寧にやらないと残った花も散ってしまうからね』


 その通りだと思った。

 もはや枯れてしまい、処分しなくてはならない花とて……とても大切に育てた花だ。

 終わりを与える時であっても、慈悲を。

 せめてそこに在った形が残るように、水を上げたあの日々を思い出しながら……優しく。


『どうしたんだい?』


 魔猫の手は止まっていた。

 枯れた花を片付ける手が、揺れている。


『ああ、そうか。ずっと心を込めて育てていたから……片付けるのが嫌なんだね。お前は本当に、優しいねイエスタデイ』


 けれど今度は失敗しないように、魔猫はしあわせなふわふわを育てるために肉球を動かした。

 魔猫は一生懸命、丁寧に、優しく土を入れ替える。

 本当に優しく。


 月日が経った。

 今度はちゃんとふわふわな花が咲いた。

 綿花が実った。


 魔猫はふわふわを腕いっぱいに抱いた夢を見て、大好きな主人のもとへと駆け寄った。

 このふわふわで一緒に眠るのだ。

 しあわせなポカポカの中で。


 魔猫のしっぽはふわふわに揺れた。

 にゃっにゃっにゃっと口から声が漏れていた。

 主人もふわふわを一緒に育てたのだから、仕方がない。我のふわふわであるが、一緒に寝る許可を与えよう!


 そう、喉を鳴らして草原を駆けた。

 その時だった。

 いつもと違う顔の主人がいる。


 いつも無茶ばかりを言う神々が、降臨している。

 魔猫はふわふわを落として、威嚇をした。

 主人が、神々になにかをされている。


 あれは敵だ。

 主人を虐める者は、全て敵だ。

 だから、魔猫は毛を逆立て唸りを上げ飛び掛かった。


『逃げるんだ、イエスタデイ! ここに来てはいけない!』


 しあわせなふわふわが、散っていく。

 一緒に育てた綿花が、魔猫の手から離れていく。

 ああ、我はただ――。

 主人と幸せに、なりたかっただけなのに……。


 ◆


 魔王アルバートン=アル=カイトスは瞳を開けた。

 回復魔術の波動を感じる。

 幼女教皇マギの幼きぷにぷにな顔が見える。


 他の者はせわしなく動いている。二回目の威力偵察で得た情報をもとに準備を進めているのだろう。

 マギが言う。


「おお! どうやら、目覚めたようじゃな――!」

『お手数をおかけしたようで、申し訳ありません』

「にょほほほほほ! まだまだ子供じゃな、アルバートンよ! そーいう時はありがとうございますと言うんじゃ。たわけが! と、それよりもおぬし……神の意識と繋がっておったのか? 治療中になにやら妙な波動を感じたのじゃが」


 さすがは千年幼女だと魔王は片眉を下げる。


『イエスタデイ様とその主人が、神に連れ去られる前後の記憶を見ました。おそらくあの方の魂と戦い……いえ、接触した事がきっかけとなったのでしょうね』

「なんと!? して何かわかったか?」

『ええ、あの方が僕たちに対して……手心を加え、いえ……まるで本気を出されていないことが分かりました』


 どういうことじゃと言いたげな幼女の瞳に、魔王は応じる。


『あの方は……おそらく。一生懸命に育てた僕たちというふわふわな花を、刈りたくないのでしょうね』

「すまぬ、よくわからぬのじゃが……」

『あの方はとてもお優しいという事です。本当に揺れていらっしゃるのでしょうね……』


 自分の中の言葉を整理できていない。

 どう伝えるべきか言葉を探していた、その時だった。


「ちょっといいかしら?」


 足音が近づいてきて、テントに掛けられた結界をノックする音が響いた。

 マギが結界を解除し、中に入れと促している。

 あまり見慣れない、そして聞きなれない顔と声がそこにあった。


「マギ様と魔王陛下に聞きたいことがあるのだけれど――、あら、やっぱり。ウチの旦那が言っていた通りの時間に目覚めたのね」


 見た目はボサボサ髪の少女のように見えるが、年齢自体は既に少女ではないだろう女性がそこにいた。

 おそらく二十歳と言われても信じてしまうだろうが。

 魔王の瞳にはその年齢も名前も見えている。


 終焉スキル保持者である彼女は――。

 魔王が読み取った名を口にするより前、ボサボサ髪の女性が胸元に手を当て頭を下げる。


「あなたが魔王さんね、ちゃんとご挨拶するのは初めまして。あたしはガイア=ルル=ガイア。これでもレイニザード帝国のアイテム作りの管理者、帝国管理創作者インペリアルクリエイターなのだけれど」

『存じておりますよ、どうも初めましてガイアさん。確かアキレスさんの奥さんですよね? 旦那様にはいつもお世話になっております』

「え? なにか丁寧な感じなのね……魔王っていうともっとこう、ガガガガァっとなっている怖い人を想像していたのだけれど」


 ガイア=ルル=ガイアは頬につけたままの煤を気にせず、じっと魔王の顔を覗き込み。

 なぜか、ふっと勝ち誇ったような顔をして。

 にやり。


「まあいいわ。ウチの旦那のほうが美形ね」

『は、はぁ……』

「いやあ、悪いわね、ウチのが魔王に負けた……って、イジイジしちゃってて。ふふふ、あの人、いつも誰よりも強かったから、自分よりも強い存在に対抗意識を燃やしちゃってるのよ。可愛いところもあるでしょう?」

『え、えーと……』


 助け船を求めた魔王はマギに目線を向ける。


「これガイア=ルル=ガイアよ。急に旦那自慢をされてアルバートンの坊主が困っておるではないか。して、なんの用なのじゃ? 手を離せぬ筈のおぬしが工房を離れ直接やってくるとは――」


 マギの言葉に、ガイア=ルル=ガイアは顔を引き締め。


「今、ちょっと職人たちの意見が割れていて……、えーと簡単に説明すると迷宮を戻ったところに作った工房でね、装備の製造と調整をしている段階なのだけど。相手の強さについて、様々な見解が上がっているわ。でね? ログではなくて実際に戦った人に相手の感想を聞きたくて、こうして来たってわけ。単刀直入に聞くわ、ログを見る限りは戦えているように見えるわ。けれど、実際はどうだったの?」

『それは……』


 魔王が言葉を選んでいた。


「教えて頂戴。あたしはもっともっと強い存在だとみているの。希望的観測は嫌いじゃないけれど、職人なら現実もみないとだし。でね? 幸いにも設置した工房の場所はあの羊様の生み出したステーキハウスの周囲。ネコヤナギ様の加護の範囲だから、あの方の力を借りて工房内の時をある程度調整できている。時魔術というらしいのだけれど……っと、ごめんなさい話が逸れたわね。ともかく――あなたの話を聞いた後でも最高の武器は作れる。あの神と対峙した当事者の意見を聞いた後でも間に合うって事」

『現段階ではログを見て、調整しているということですね?』

「ええ、それしか情報がないもの。もちろん、ログよりもある程度上の強さを想定して耐久度と威力のバランスを考えてはいるのだけれど……どうしたの、その顔」


 魔王は言う。


『ログ範囲での調整をしているのなら、すぐに現段階での製造計画を破棄してください』

「どういうこと?」

『僕がイエスタデイ=ワンス=モア様との単騎で相対した時のアレは、神の本気ではない。神は、ただ寝ていただけ。全範囲攻撃も攻撃ではなく、ただの啼き声。アレは児戯ですらない……戦いなんかじゃないんです』

「ちょっと待って、あの壮絶なログが戦いじゃないって――ありえるの?」

『あり得るからこそ、あの方は四星獣の長。文字通りの神なんだと思います』


 蒼白になりつつも、逆境に強いガイア=ルル=ガイアは言う。


「参考までに聞かせて。あなたが見えていた範囲で、本気のイエスタデイ様を百とした場合、ログでのイエスタデイ様はどれくらいの――」

『ゼロです』

「ゼロって、ふざけているわけじゃないのよね?」

『はい、あの時のあの方は、あれでもゼロの力しか出していないでしょうね。こちらなど脅威になりえる存在ではないと見向きもせず、わざわざ排除する必要もないと眠っていただけ――僕はそう判断しました』


 文字通り、あれは戦いにすらなっていなかったのだ。


 魔王は思った。

 失敗したと。

 あまりにも絶望的な差だと、装備を作る手を止めてしまうかもしれない。実際にはほぼ力を出していない状況だったとしても、現実としての差だとしても、もう少し届く範囲で言うべきであったのではないかと。

 しかし、ガイア=ルル=ガイアはふふふふふっと肩を揺らし。


「オッケー、了解よ。一度計画を破棄して練り直しね! まあ、待っててちょうだい。あなたたちが最高のポテンシャルで戦える、最高の専用装備を作ってみせるから!」


 まるで太陽のような笑みがそこにあった。

 もっとも疲労からか、その瞳の下には大きな隈ができているが。

 それでも心は輝いていたのだ。


『できるのですか?』

「ま、なんとかなるわよ。いつだってあたしたちはそうしてきたんですもの。あたしは諦めないわ。可愛い娘の件もあるし、娘に近づく厄介な猫の件もあるし……いや、まーじでとっとと平和にしたいのよ……。てか、異界の大魔王が娘に言い寄ってるってなによ。意味わからないし……。だから、あたしたちはこんなところでウダウダしていられないの! 不敬でもなんでもいいわ、あなたも協力なさい!」


 魔王は思った。

 おそらくきっと――。

 イエスタデイ=ワンス=モア様は、この輝きをご覧になっていたのだと。


 ぴかぴかと輝く人の心を。

 温かい光を。

 あの日の枯らしてしまったふわふわと、輝く駒達を照らし合わせ……心のどこかで、壊したくないと思っているのだろう。


 魔王は、人の強さに思わず笑みを浮かべていた。


『ところで、アキレスさんは――姿も気配もありませんが』

「ウチの旦那ならあなたには負けるもんかって、レべル上げを兼ねて、何度も単騎で突入してその都度吹き飛ばされて帰ってきてるわよ? 残念ながら、あなたと違って攻撃を避けることはできても攻撃をあてることができなくて憤慨しているそうだけど。ふふ、あんなに負けず嫌いだったのねえ、あの人」


 光景が想像できたせいだろう、魔王の口からはは……っと苦笑が漏れる。

 また敗北して帰還してきたのだろう。

 アキレスのよく通る英雄声が響く。


「だぁあああああああぁぁぁぁ! ふざけるなよ、あのクソネコ! 次はぜってぇに届かせてみせるからな!」


 絶対的な差だった筈。

 敗北は確定していると普通なら思う。

 けれど、何故だろうか。


 魔王は思った。

 僕たちなら、それでもなんとかできるのではないだろうか、と。


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