第166話、終わらぬ悪夢を終わらす夢【ダンジョン最奥】
【SIDE:四星獣イエスタデイ=ワンス=モア】
其れは終わらぬ悪夢を見続ける者。
賽を振り続けた者。
願いを叶え続けた者。
其れは長い夢を見ていた。
幸福なる夢だ。
かつての夢だ。
迷宮の奥。
盤上遊戯世界の中心。
長い長い階段を下りた先の夢だった。
そのフロアには隠しエリアが存在する。
静謐の祭壇。
そこには羊飼いの男と、その腕の中にいる猫の像が鎮座されている。
その台座の前には――いつもとあるネコの魂がとぐろを巻いて眠っていた。
硬化した羊飼いの男が必死の形相で叫び、飼い猫を守ろうとしている彫像に似た神像の前。
その魔猫は目を覚ます。
主人がいないことに気付き、周囲を見渡し――主人の気配を察してそのタヌキのような顔を上げる。
さあ、撫でよ。
我はここだ。我はかわいし、我は尊し、我は猫様であるぞ?
さあ、撫でよ主人。我を撫でよ。どうした何故撫でぬ? 何故、そのような顔で固まっている。
それに、その腕の我はなんだ?
なぜ我はここにいるのに、我を抱いている?
目覚めた魔猫が動かぬ像を見て、肉球を伸ばしていた。
肉球を伸ばす先には主がいる。確かに気配がある。
羊飼いとネコの像がある。
けしからん主人だと魔猫はジト目を作り、にゃーと鳴く。
我を撫でよ。
さあ撫でよ。
今すぐ撫でよ、ほらどうした? 主は我を撫でるのがなによりも大好きではなかったか?
さあ。
撫でよ。
さあ、さあさあ! 我の頭を背中を、あの日のように、あの穏やかな草原で我を撫でよ!
何故だ、なぜ我を撫でぬ?
解せぬ、分からぬ。いったい、なにが――。
頭を撫でられることを願い――焦がれ、頭を差し出し。髯を揺らし。自分が可愛いことを知っている魔猫は、頭を撫でられるのを待っていた。
けれど。
いつまで経っても主人は頭を撫でてはくれぬ。
叶わぬ願いを不思議に思いながら、首を横に倒し。
魔猫はじっと見上げた。
動かぬ飼い主を、見た。
見続けた。
そしていつもこのタイミングで思い出す。
『ああ、そうか――これは……』
動かぬ飼い主の腕の中にいるかつての自分をじっと見て。
伸ばしていたネコの手を下げる。
肉球が、凍り固まった死体のように冷たい床に触れる。
『我はまた夢を見ていたのか――』
四星獣は思い出す。
イエスタデイ=ワンス=モアは思い出す。
あの幸せな日々こそが悪夢なのだと。
楽しくて、穏やかで、静かで、何気ない日常こそが幸福で。
それらは全て失った後に気付くのだ。
過去を顧みる時、それが幸せな記憶なほどに失った時の絶望は大きい。
絶望が、魔猫の置物の瞳を赤く染めていく。
他者の願いを叶える魔道具。
他者の願いを叶える四星獣。
他者の願いをどれほどに叶えても、自らの願いを叶える力はない哀れな魔猫。
その肉体はこうして盤上遊戯の核として像となり。
その魂は、魔道具として盤上世界を徘徊する。
あの日の温もりを求めて、あの日に帰りたいと、あの日を取り戻すために動いていた。
楽園の神々に魔道具とされた魔猫は思い出す。
絶望を思い出す。
瞳はますます赤く染まっていく。
終わらぬ悪夢の中で頭を撫でろと鳴き続けている猫こそが、動く猫の置物。
その名はイエスタデイ=ワンス=モア。
あの日を思い続ける、絶望に啼く魔猫。
四星獣の長にして、かつて在ったあの日を顧み続ける者。
◇
目覚めたイエスタデイ=ワンス=モアは周囲を見る。
ここは最終ダンジョン最奥。
死者たちの棲家とされる冥界とほぼ同じ性質を持つ地。
設置された甲羅の隙間のダンジョンから繋がった、盤上遊戯の核。
魔猫の置物イエスタデイ=ワンス=モアが口を開く。
『主よ――我が主よ。もう少し、もう少しで我等はあの日に帰れる。あなたは喜んでくれるのだろうか、それとも世界を終わらせたことを嘆くのだろうか。もはや我には分からぬ。我には――』
魔猫の置物の瞳が、赤く染まる。
それは外の世界では《魔性の覚醒》と確立された状態。
けれど、それでは強すぎる。
長い歴史の中。駒達を真の意味で愛してしまった瞬間からずっと、常に自らを弱体化させ続けていたイエスタデイ=ワンス=モアは待っていた。
命たちの成長を。
主との日々、駒達の日常。
どちらも大切であるが、心は主人に傾いている。
魔猫は赤い瞳を細め、ダンジョンを進む我が子らを眺めていた。
『神たる我を止める――それが汝らに与えられし試練。あの日の我とは違う結末を汝らが掴めるかどうか、我には分からぬ。もはや、何もわからぬ……分からぬ。分からぬ』
それでも、魔性と化した猫神が言う。
何もない、ただただ無が広がっている空間に告げたのだ。
『大魔王ケトスよ、人知はおろか神すら超えし存在よ。汝には見えているのだろう。汝には聞こえているのだろう? 返事をせよ』
気配が生まれる。
何もない無に亀裂が走り、そこに三日月型の笑みだけが作られる。
気配はもちろん、大魔王ケトスのモノ。
ネコのチェシャ猫スマイルが具現化していき、そこにはモフモフな白猫が召喚されていた。
ちょこんと着地した白猫は、他人事のような顔で肉球を舐め。
毛繕いしたもふもふな尻尾を胴体に巻き付けながら言う。
『おや、なんだい藪から棒に』
『もう少しした後に、最後の戦いが始まる。警告だ、異界の魔猫王よ、汝が愛しく感じている魔猫少女を連れて、この地を去れ。もはや我には我も止められぬ、汝の愛しき者の魂とて、躊躇なく巻き込むことになろう。故に、我は告げる――去れ、大魔王よ』
『まあ、本当にそうなりそうになったらちゃんと消えるさ。彼女を連れてね――』
既に目的は果たした。
そう言いたげな大魔王の顔には敵意も善意も悪意もない。
大魔王ケトスは魔猫。猫なのだ。
これから一つの世界の運命を決める戦いがあるのだとしても、あくまでも他人の世界の他人の物語と、割り切った心を持っているのだろう。
『もしこの世界に掛けられた状態異常が解除され。我が求めるあの日に戻ることができたその時は――』
『結果に興味はないさ。キミはキミの好きなようにやればいい。ただ一応告げておこう』
『なんだ、その偉そうなドヤ顔は――』
『おや、もはや魔性となったキミの、今の偉そうな口調よりはマシだと思うけれど、まあお互い様か。猫は気高き種族、偉そうな位が丁度いいとワタシの主人もよく口にしているからね』
主人と再会できた大魔王ケトス。
主人と再会できない四星獣イエスタデイ。
その違いの影響か、心の在り方は大きく異なっていた。
『楽園を滅ぼした弟神……汝の主人には世話になったが。さすがに汝の主人自慢は聞き飽きた』
『おっと、それは失礼したね。さて、本題だが――キミが寝ている間に、この世界は冥界神と接触した』
『冥界神……兄神……』
悪夢に揺れるイエスタデイ=ワンス=モアはわずかに眉間にしわを寄せる。
心を暴走させている赤い魔力。
魔性として覚醒しているせいだろう――。
思い出すのに時間が必要だったのだ。
『我に盤上遊戯に使用する駒達の命……。彷徨える消えるはずだった哀れなる魂たちを授けた、あの冥界神、か』
『キミ、大丈夫かい……?』
『愚問であるな異界の魔猫王よ。大丈夫であったのなら、我はここにこうしてはおらんだろうて』
もっともだと、大魔王ネコは謝罪するように耳を下げ。
ふわふわな尾の先を揺らしながら、丸い口を蠢かす。
『全てが終わり、全ての命が消え、全ての命が冥府に呑まれたとしても――冥界神はこの世界の命を受け入れるだろう。終わったとしても、消えるわけではない。あの男ならば……キミの駒達の魂を愛してくれる。悪いようにはならないだろうさ』
『そうか――』
『だから、キミはキミで自分の望みを果たすといい。止めたいのならそれもいいだろうけど、もう止められないんだろう?』
大魔王ケトスは、肥大し魔性となり果てた悍ましき四星獣を見上げた。
絶望と回帰。
過去を顧み続け、泣き続けたケモノがそこに在った。
過去を愛するケモノが言う。
『大魔王よ、我が子らは我を滅ぼせると思うか?』
『さあどうだろうね。あまり興味はないよ』
本当にあまり興味がないのだろう。
既に大魔王はこの世界で願いを叶えた。
ナウナウの竹林、ステーキハウスで愛する者との心の駆け引きに戸惑い、楽しんでいる魔猫であるが――大魔王の性根も魔性。
全てを憎み、嫌悪する憎悪の魔性。
一見すると人畜無害で愛嬌もある愉快そうな魔猫だが、その本質は世界を滅ぼしかねない破壊神。
全てを破壊するエネルギーが、ネコの皮を着込み、道化を演じているようなもの。
大魔王が言う。
『それじゃあワタシはもう行くよ。そろそろピザが焼きあがるんだ。愛しいあの子と、ワタシはずっと共にある。これからはずっと……ね。盤上遊戯の神よ――彼女と再会させてくれた、それは本当に感謝しているよ』
『せいぜい嫌われぬように気を付けるのだな』
『それは困るね、でもそうはならない。ちゃんとご機嫌取りをするさ――』
全ての世界を破壊できるほどの大邪神は、幸せそうな顔を一瞬見せ。
その身を消しかけるが――。
ふと思い出したように、大魔王はネコの口を上下させていた。
『ああ、そうだ。もしキミが勝ち、世界をかつてあったあの日の草原に戻した後の事だけれど。その後はもう、眷属たちは必要ないだろう? ワタシが連れ帰っても問題ないかな?』
『魔猫達をか……構わぬが、なにゆえ』
『決まっているだろう。戦力になるからさ――ワタシはワタシの主人を苦しめた楽園の残党を許さない。ヌートリアをレギオンの核とした、キミの世界の聖父クリストフの中に楽園の神の残滓があったように……他にも同じ、或いは類似手段で生き残った神がいないとも限らない――』
それはもし、全てが終わっても問題ない。
楽園の神々は必ず大魔王がなんとかする、そう言っているのだとイエスタデイは解釈したのか。
ケモノは僅かに口元を緩めていた。
『なるほど、なぜ目的を果たしても帰らぬのか不思議であったが――汝は策士であるな大魔王よ。盤上遊戯を取り巻く此度の最終決戦。その隙間で漁夫の利を狙う楽園の神々の残党、未だ姿を見せぬあの憎き神々の残りカス……その命と魂を汝は狙っておるのか』
闇に溶けかける大魔王はニヤリと嗤う。
『好きにとらえてくれて構わないよ。ワタシはワタシの目的のために、ただ動くだけさ――』
言った、直後――。
ザァァアアアアァァァァっと黒い霧が発生し、大魔王ケトスの身体は霧の中へと消えていた。
つまりは、仮に外からの襲撃があったとしても全てなんとかするから、気にせず動け。
大魔王ケトスが暗にそう言っていたのだと察し――。
四星獣イエスタデイ=ワンス=モアは瞳を閉じる。
『まったく、外なる神々が皆、あの兄弟神や大魔王のようであったのなら――いや、ありえぬか。我は忘れぬ、あの日の屈辱と嘆きを、我は――』
四星獣は夢を見る。
終わらぬ悪夢を見続ける。




