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第165話、あの日の笑顔が眩しくて――【殺戮令嬢編、エピローグ】


 【SIDE:暗黒騎士クローディア】


 ずっとずっと、歴史の中で蠢いていても心は動いていなかった。

 何も見えない、闇の中。

 冷たい井戸の底を這うような、昏い世界がそこには広がっていた。


 彼女はいつも思い出す。あの日々を、思い出す。

 幸せな記憶と、そうではない記憶。


 令嬢が気づいたときには、それらの首は飛んでいた。

 愛する者の死。

 それだけでは飽き足らず、醜い人間たちの争い。他人の足を引っ張る者達の悪意にさらされ、その眠る墓まで壊されたあの瞬間に、全てが壊れてしまったのだ。

 どこを向いて歩いたらいいのか、道が分からなくなっていた。

 光が、見えなくなっていた。


 暗黒騎士となり果てた彼女、殺戮令嬢クローディアはそう感じていた。


 消えたい。

 眠りたい。

 何も考えずに、ただ――もう、疲れたのだと。


 その筈だったのに。

 今は目の前に光が見える。

 転生を待つ魂。このまま仄暗い闇でただ静かに――消えるはずだったのに。


 暗黒騎士クローディアは気配を察したのだろう。

 光に向かい、言葉を漏らす。

 蛍のような光となったその魂が、空気を揺らしたのだ。


『黎明の時代の神。冥界神レイヴァンに逆らい、あまつさえ戦いを選択するとは――お前たちも無茶をする』

『クローディアさん、お気付きになられたんですね』


 ここはおそらく次元の狭間の隅。

 何もない、場所。

 ただただ黒い異次元にいたのは、アルバートン=アル=カイトスのみだ。

 あの男はいない。おそらくは、吹き飛ばされた方向の問題だろう。


 掌の光を眺め魔王が言う。


『状況への理解は』

『おそらくは、全てを把握している。もっとも、それはわたしの身近で起こっていたことには限るがな』


 光となった魂が、揺れる。


『お前たちがレイヴァン神と戦う場面を、闇の中からずっと……見ていたのだ』

『なら、僕たちがなにをしようとしていたのかお分かりですね』

『なにをしていたのかは理解している、もっともその行動の意図も理由も理解はできていないがな』


 手皿を作るアルバートン=アル=カイトスの手の上。

 殺戮令嬢の魂は形とはならず、光として揺れていた。


『アルバートンよ。わたしとあのバカ弟子のことは――』

『僕だけは知っていますよ。アキレスさんの、当時のあなたを知る記憶はイエスタデイ=ワンス=モア様の力で完全に消えていますが。僕だけは――っと、すみません。盗み聞きしていたわけではないのですが、やはり離れた場所にいる友人が心配でしたから……まあ、盗聴と言えば、盗聴ですが』


 ふむ、と魂が揺れ。


『ならばおまえは、あいつに嘘をついていたのだな』

『嘘ですか?』

『バカ弟子に言っていたではないか。天地を割るほどの衝撃に驚いてやってきたようなことを』


 アルバートンは神から授けられていた当時と同じ二つの恩寵。

 ”寵愛されし神の美声””寵愛されし英雄の美貌”にて英雄の顔で苦笑を作り。


『僕は魔王ですよ? それくらいのウソもいいんじゃないですかね?』

『魔王、か――それもわたしがこの世界に残した火種の一つ。アルバートンよ、黎明期の神に抗ってまで動いてくれたアキレスとお前には悪いが、わたしはやはり、このまま消えたいと、そう思っている』

『それはできませんね』


 アルバートンが珍しく強い断定口調で言う。


『僕はあなたを助けますよ。たとえあなたがそれを拒んでも――僕は絶対に、あなたの振り払う手を掴んで引き上げるでしょうから。目の前で苦しんでいる人を、僕はどうしても見捨てられない。それをあなたはご存じのはずですよ』


 クローディアは困惑した。

 魔王アルバートン=アル=カイトスの瞳には、かつての輝きが戻っていた。

 そう、それはまるであの日、自らにどれだけの負担がかかることも承知の上で――宗教国家ペイガの姫を助けたあの日のように。

 それは少年だったアルバートンの笑顔。

 まっすぐと前を見る無垢なる英雄の、眩しい程の顔がそこにあったのだ。


『おまえ――それはいったい』

『アキレスさんが言っていたでしょう。ヴェルザの街ではダブル職業、二つの職業を同時に身に付ける技術が開発されていたと。僕もそれを修得しました。もう、二度と人間だったあの日々を思い出せないとは思ったのですが――どうやら、僕も部下の魔族や、新しく出会った人間たちと交流を深めている内に……色々と、吹っ切れたんでしょうね』


 魔王アルバートン=アル=カイトス。

 その職業は当然魔王だ。

 しかし、サブとして習得されていた職業は――。


『勇者――英雄の最上位クラスか』

『はい、僕はこの世界を守るために戦います。あの日、人間たちに失望した僕は……魔族の暴走を止めませんでした。魔物の脅威を振り払えるのに、それをしませんでした。人間たちが襲い掛かってきたのなら、僕は僕の大切な魔族を守るために、降りかかる火の粉を容赦なく振り払いました――』


 それが人間衰退の歴史。

 人の心を取り戻したペイガの姫を殺そうとし。

 その姫を守ることで魔王となった英雄を殺そうとし。

 魔王となった英雄に怯え、差し伸べられた和平の道をすべて断り妄執に囚われ魔族を襲い続け――もはや取り返しがつかずに滅んでしまった人間の歴史。


『僕は僕が大切な者を守るために、多くの命を奪いました』

『それはお前のせいではないだろう。アルバートンよ、魔王よ……英雄よ。あの日、お前を強引に連れ戻したわたしが全ての元凶。いや、もとを正せば当時人類と呼ばれていた人間の驕りが招いた、自業自得だ。お前がそこまで背負う事はない。背負う事はないんだ、アルバートン』


 そう。

 クローディアは知っていた。

 英雄は舞台を去った。退場した英雄を舞台に呼び戻したのは――。


 勇者の称号と職業を持つ魔王が言う。


『僕はそれでも、一定の責任はあると感じています。だから、もう一度言います。僕は戦いますよ。この世界を守るために――少なくとも会話ができる程度に、交渉の余地を作れる程度に……イエスタデイ=ワンス=モア様の荒ぶる魂を鎮めたいと、そう願っています』

『そうか……アルバートン。おまえは、本当にあの日の英雄に戻ってしまったのだな』


 戻ってしまった。

 魂から零れた言葉は後ろ向きな言葉だった。

 アルバートン=アル=カイトス。数奇な運命の中で生まれた、死ぬはずだった魂。生まれず消えるはずだった彼を拾ったのは四星獣だった。

 神々が生み出した魔力の繭の中で生き永らえ――神々の恩寵を与えられ。英雄となるべく作られた駒。

 それがアルバートンなのだ。

 魔王となる前の少年は、運命に振り回されていた。


 そしてその運命を振り回した存在の一人が、クローディアなのだから。


『そこでお願いがあるんです、クローディアさん、あなたも協力してくれませんか?』

『協力と言われてもな――』


 もはやこの魂にはそれほどの力はない。

 あるのはこの魂だけ。

 ならばせめてと、魂を燃やした暗黒騎士クローディアは、ぼぅっと赤黒い人の形を作っていた。


 亡霊令嬢は言った。


『この魂を使い、わたしはお前の魔導書となろう。これでも五百年を彷徨った神の眷属の逸話書であり、今もなおレイニザード帝国で語り継がれる殺戮令嬢の人生だ。悍ましき魔術となって発動――』

『そういうのはもう、止めにしませんか?』

『そう言われても、すまないが正直どう返したらいいか戸惑っている――』


 英雄がまっすぐに見ていた。

 あの日の無垢なる英雄少年の成長した顔が、そこにある。

 あの日の笑顔が、目の前にある。


 だが、亡霊令嬢は疲れた笑みを送ることしかできない。


『今のわたしには、たいしてできることはない。自らの道程と記録ログを消化し、ネコヤナギ様の慈悲を受け魔導書に転化する程度が限界だからな』

『たとえ転生を待つ魂としてでもいいんです。ただ居てくれるだけで……見届けてくれるだけで。それで構いませんから』


 赤い令嬢の影は肩を竦めてみせる。


『分からんな――何の力もないモノが見ているだけでいいならば、見ていないのと同じだろう』

『武人の考え方だとそうかもしれませんね。けれど、そうじゃない人もいるんです。あなたが消えずにいてくれる、それだけで――心を落ち着かせる人もいるんです。というか、あなたが戻ってきてくれないとアキレスさんはきっと、ウダウダずっと機嫌が悪くなるでしょうし。こちらの世界に留まってくれている、それだけでいいんですよ』

『しかしかつてのあいつの記憶は、もう』

『それでもあの人は勘が異常に鋭いですから。観察眼といっていますが、あれはもう答えを見る力と言ってもいい程の能力です。あれだけは神の恩寵じゃなくて、元から持っている力だって言うんですから――ある意味であの人が一番、生まれながらの逸脱者なのかもしれませんね』


 それはまるで友を語る口調である。

 アルバートン=アル=カイトスにできた友達。

 きっと幼女教皇マギや終焉皇帝ザカールとは違った、逸脱者としての友。


 かつてクローディアが愛した、正義感故に死んだ男。

 その生まれ変わり。

 殺戮令嬢が言う。


『お前は強くなったな、アルバートン』

『図々しくなってきたとアキレスさんには言われていますけどね』

『ふふ、そうか――わたしの知っていたあの人はそんな無礼なことは言わなかったからな。きっと本当に、もう別人なのだろうな』


 微笑んだ、その瞬間。

 赤黒く染まっていた亡霊令嬢の色が、消えていく。

 砂埃が落ちたように、さぁぁぁぁぁっと消えていく赤と黒の下から現れたのは、美しい白い肌と、金色。


 金髪碧眼の貴族の令嬢が、気丈そうな顔を緩めて苦笑していたのだ。

 暗黒騎士クローディア。

 その心には様々な思いがよぎっていた。

 そして思い至る。たしかに、最後まで見届ける義務もあるのだろう、と。


『アルバートンよ、わたしはおそらく面倒な女、なのだろうな』

『さあどうなのでしょうか。僕に言わせれば正直――父上達、世界を揺らし続ける四星獣の方々より面倒な存在はいないと思いますよ?』

神々(あれら)と比べられてもな』


 ムルジル=ガダンガダン大王の眷属として動いていたクローディアは知っているのだろう。

 四星獣の面倒な性格を。

 もっともその声には確かな尊敬も含まれていたが。


 令嬢に向かい英雄が手を伸ばす。


『帰りましょう、僕たちの世界へ』

『ああ、分かった。よもや愚かな罪人であるわたし一人を連れ戻すために、冥界神と戦った者達を無下にはできまい。仕方ないといいたいところだが――いや違うな。きっと、こう言うべきなのだろう』


 令嬢は手を取り、言った。


『ありがとう、アルバートン』

『アキレスさんに言ってあげた方が良いかもしれませんが。その言葉は素直に受け取っておきます。アキレスさんも大怪我をして次元の隙間にハマっている筈なので、回収に向かいますが――どうしたんですか? その顔は――』

『いや、しまったと思ってな。消えることばかりを考えていたから、既にわたしに力はない――お前たちの力になれないのは、今となっては少々残念だなと』


 クローディアが令嬢の服装で、戦士の顔で告げる中。

 闇の中で、波紋が生まれた。

 それはまるで堕ちた太陽――井戸の底と似ている次元の狭間が、光で満ち始めていたのだ。


『下がっていてください――』


 アルバートンが前に出て、魔導書を翳す。

 その時だった。

 神が顕現していた。黒い太陽が、翼をもつ人の形を作り出したのだ。


 バサリと翼を蠢かし、着地するそれは――神だった。

 闇の泉の上に立つように、つぅ……っと空間を波紋で揺らしていた。

 スーツに身を包む、野性的な美貌を兼ね備える堕天使がそこにいる。

 両者ともにその神には見覚えがあった。


『冥界神レイヴァン!? どうしてあなたがここに――今はまだ、四星獣の二柱が引き付けている筈じゃ』

『それは俺の分霊。作り出した駒の方だろうさ』


 穏やかだが、荘厳な声だった。

 殺戮令嬢が言う。


『冥界神の本体。あなたは神、そのものか――』

『ご名答だ。彷徨いし令嬢よ――このまま駒に任せて見ているだけのつもりであったが、それじゃあつまらねえからな。これは餞別だ。冥途の土産に持っていくがいい』


 魔力で捏ねられた闇の泉が、形となっていく。

 それはかつての令嬢の肉体。

 クローディア自身も鏡の中で何度も見た、まだ令嬢だった頃の人間が存在した。


『神よ、これはいったい』

『辛く苦しい生の世界へと帰還するお前さんの新しい容れ物だ。人と変わらぬ、死ぬ身体だがな』


 不老不死ではない。

 いつでも死ねる、普通の――。


『ちぃとばかし、サービスが過ぎる気もするが――なに、構わねえだろう。これに入り帰還するがいい。言っておくが拒否権はねえぞ? クローディアよ、汝は罪人。汝は我の安らぎを断ったのだ――これくらいは仕方ねえだろう? 限りある命を人間としての肉体で、生きる。汚れ切った疲れる世界だと、おまえ自身が見限った世界で人の一生を……な。それがお前さんの罰だ――』


 一方的に告げ、神たる光は薄れていく。

 冥界に落ちた太陽が、闇の中へと消えていく。


 人間としての肉体に吸い込まれていくクローディアが、慌てて神に手を伸ばしていた。

 魔力を含まない声が漏れる。


「待って欲しい、神よ、冥界神よ――! この肉体を用意されていたという事は、あなたは――あなたは初めからこうなると知って」

『いや、その肉体は今この場で作ったものだ』

「しかし――」


 いくら冥界神と言えど、異界の神なのだ。

 現地の服装備まで瞬時に用意できるはずがない。

 もし事前に準備していたのだとしたら。全てが、神の掌の上で進んでいたのだとしたら。


 答えに気付いた令嬢に、神は長い人差し指を口の前で立て。

 キシシシシと微笑する。


『そういう事にしておきな――それが淑女の嗜みってもんだろう? なんてな、はははははは。さらばだ――生ある者達よ、せいぜい足掻いてみせると良い。お前たちが消えるか、世界が残るか、それは俺にも分からねえがな。言っておくがお前たちの主神は、相当に強いぞ――』


 それは四星獣を示す言葉。

 イエスタデイ=ワンス=モアの強さへの警告だったのか。


『まあ、お前たち盤上世界の住人が冥界に落ちてくるなら、それはそれで良い夢の続きが見られる。全員を歓迎して、愛してやるさ――ああ、それも悪くねえ。悪くねえな……』


 やはり一方的に告げ。

 太陽は闇の中へと沈んで消えた。

 寝息が、響く。


 おそらく、冥界神の本体は逸話の通りに眠りについている最中なのだろう。

 彼にとっては、これは一時の夢の記憶。

 盤上世界という名のドリームランドと接続した、夢の一頁に過ぎないのだろう。


 レイヴァン神が顕現した空間には、一冊の逸話魔導書が残されていた。

 異界の冥界神の物語を記した書。

 盤上遊戯の駒達の、本物の命の誕生に関わった黎明の神の魔導書である。


 折れた翼と血塗られた体躯で――地の底より天を睨み叫ぶ、楽園を恨んだ神が表紙に描かれた死者の王の書。

 神話級の書は持ち主を自動的に定めたのか。

 クローディアの手には、いつのまにかその書が握られていた。


 冥界神レイヴァン。

 かつて楽園に在った神。

 まだ願いを叶えるネコの置物に過ぎなかったイエスタデイ=ワンス=モアに、真実を教えるべく動いた兄弟神の一柱。

 その性質は――善でも悪でもないが、お人好し。


 殺戮令嬢は、人間の肉体を得た。

 不老不死を失い、能力は低下したと言えるだろうが――。

 クローディアは、眠りに戻った神に向かい、静かに頭を下げていた。


 魔王であり勇者でもあるアルバートンが言う。


『それでは急ぎましょう。おそらくアキレスさんは自力での復帰は難しいでしょうから、僕たちが回収しないと永遠にこの空間から出られませんし』

「そうだな」


 亡霊令嬢は寿命という名の終わりを手に入れた。

 それはデメリットである筈なのに。

 クローディアの表情はまるで憑き物が落ちたかのように、とても美しく、穏やかな微笑を浮かべていた――と。

 後にアルバートン=アル=カイトスは友に語ったのだとされている。


 その逸話をアルバートンが語ったのは、盤上遊戯内か。

 あるいは冥界か――。

 合流した今を生きる命たちは、幸福なる悪夢に魘される猫神の元へと急いだ。




 彷徨う殺戮令嬢。

 暗黒騎士クローディア編 ―終―


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― 新着の感想 ―
[良い点] 永遠の安らぎを蹴り、限りある人の姿に… やっぱり自分で決めたわけではなく、押し付けられた、流されたと言っていい結末でしたけど、 不幸属性の塊だったクローディアさんの生に今後救いが生まれると…
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