第160話、黎明期の神々【真樹の森】
【SIDE:駿足の英雄アキレス】
本物の命が吹き込まれた盤上遊戯の黎明期。
冥界の魂を管理していた神がそこに降臨していた。
全体的な容姿も服装のイメージも漆黒、そして翼も黒、ただ野性的な瞳の色だけは違う。
煌々と赤く照っているのだ。
神レイヴァン=ルーン=クリストフ……クリストフの名がつくことから、あのヌートリア災害を起こした聖父クリストフとは血縁関係にあるのだろうか。
盤上世界を代表する英雄のアキレスは、妖しげな男を睨み警戒する。
ログに表示される鑑定名は、魔兄レイヴァン。
肩書は本人の名乗りと一致しないが、名は正しい。
クリストフという名も、たしかに最後についている。
それが――災害で友を失ったアキレスの顔をきつく尖らせていた。
「クリストフだぁ? あんたも正体はヌートリアなのか?」
『ヌートリア? 何言ってるんだ、おまえ、頭大丈夫か?』
真顔で返され――。
実際によく考えたら反論ができないでいるアキレスに、レイヴァン神は真樹の森の樹に体を預けながら考え――言葉を口にしていた。
『って――ああ、悪ぃ悪ぃ。そういや”俺”のクソ親父はカピバラじゃなくてヌートリアを母体にレギオン化したんだったか。随分と嫌われているようだが、そりゃあまあ、アレが気に入らねえってのは理解できるぜ』
「クソ親父……っつーことは、マジで関係者かよ」
レイヴァン神は端整な顔立ちにわずかな笑みを浮かべていた。
神々としての性質があるせいか、男女問わず魅了するほどの容姿からの微笑である。
キシシシシ――と、黒い翼を揺らしているのだ。
『正真正銘、俺はアレの息子だ。義理や形式上じゃなくてな、まあ――親しいわけじゃねえがな』
「アレを助けに来たってわけじゃねえのか」
『俺が親父をだと? はは、冗談は閨の遊興の時だけにして欲しいな――。助けるどころかむしろ、この世界の主神、イエスタデイ=ワンス=モアの主人の魂が入り込んでさえなければ、今頃粉砕してたところだろうよ。悪運だけは強いんだろうな、あの糞鼠は』
相手の素性や考えを探るように、アキレスは言う。
「親子なのに仲が悪いのか?」
『良いも悪いもねえさ、はじめから互いに家族の愛なんてなかった――それに、アレが暴走していたのはお前さんも知っているだろう? 良い機会だから、発見したついでに消してやりたかったんだが、今回の顕現では無駄になっちまったな』
「実の子を愛さねえ親なんていねえよ」
『ああん? 言ってくれるじゃねえか、お前さんは娘を溺愛しているんだろうが。世間一般さま、全部が全部そういうわけじゃねえだろう? なにしろ俺はあの親父に殺されている』
さすがに直接的じゃあねえけどな、と。
レイヴァン神はゆらりと腕を伸ばし、自らの肌に筋張った長い指を這わせていた。
謀殺された時の傷だとばかりに、開襟シャツの隆々とした胸板に残る痕をなぞり――見せつけたのだ。
ただ傷跡をみせているだけなのに、妙に煽情的だった。
魅了への耐性がないものなら、すでに陥落していただろう――が。
全ての判定をゼロに書き換えたアキレスは、引き気味に叫んでいた。
「気色悪い露出してるんじゃねえっての!」
『おっと、おまえ……なかなかやるな。今のは死者の魂を魅了する権能でもあったんだが、なるほどな――それも確率をゼロか百にする能力か』
それに、と。
レイヴァン神は真樹の森とその奥の世界そのものを見渡し。
存外に怜悧な声音で淡々と告げていた。
『盤上遊戯、盤上世界……名前などどうでもいいが、やはり既にその魂は命として認められているってことか。俺の死者を操る能力の対象外、特効にはならんのだろうな。しかし、あのタヌキ猫……まさか命の創造ができるレベルの神にまで昇華されてるとはな。あの頃と比べるととんでもなく強くなってやがるのは分かるが……ったく。これでも自らを人の身で倒せるほどに、大幅な弱体化をさせてやがるってか? もし弱体を解除されて本気を出されたら――冥界に落ちた三千世界を吸った俺でもヤベエんじゃねえか』
神の瞳には、赤い魔力が浮かんでいる。
飄々としているが、やはり神は神なのだろう。どこかいびつな――人ならざる、価値観の違う化生としての不気味な神性を感じさせていた。
ジリジリと後退しながら、アキレスが言う。
「なにを意味が分からねえことを、勝手に意味深なことを連呼するってのは神どもの悪い癖だな」
『悪ぃ悪ぃ。これでも俺様は本物の冥界の管理者でな。死者どもを従えるのには魅了が手っ取り早いのさ』
神たる男は、暗澹とした性的な微笑を浮かべて。
すぅっと腕を英雄に向かい伸ばす。
『ナルシストだとは言うなよ? 俺様はこれでも死者たちの神。堕ちた太陽神としての美貌に満ちた神性も持ち合わせているんだ、見栄えも悪くはねえだろう? 酸いも甘いも、死者も生者も嚙み分け貪った――それなりに力のある神なんだ。ほら、オレ様の方は合格だ。で、おまえさんはというと――いい線いってるぜ。力と魅力には、男も女も神もバケモノも関係ねえ、魅力ある存在には惹かれちまうもんなんだよ。分かるだろう? つまりだ――その英雄気質も気性の荒い牡馬みたいな顔も気に入った。なあ、おまえ――俺の配下になっちまえよ』
アキレスは相手が本気だと察したのだろう。
珍しく弱腰に身を引きながら、ギっと奥歯を嚙み締め唸った。
「――……いや、オレは男で既婚者なんだが!?」
『知ってるぜ、それのどこに問題がある』
「問題しかねえだろう!」
神は両腕を広げ朗々と語り出す。
『ああん? 分かんねえヤツだなぁ――俺は全ての死者を愛する神、年齢も性別も種族も全てを受け入れる悪食なる神。ただ少しストライクゾーンが広いだけだ。愛らしい女も気丈な女も好みだ、堕ちかけた肉の隙間から骨を透けさせる紳士のスケルトンも悪くねえ。そこに気高い魂があるのなら、なんだって受け入れるんだよ俺様は――。まあたしかに、既婚者ってのは問題だがな』
そこだけじゃねえだろうとアキレスが突っ込めないのは、相手が真剣に語っているからだろう。
『いやむしろ、既婚者はありだろう。他人の物だと思うともっと甘く見えちまうからな。夫婦ともども俺が囲って、愛してやっても構わねえ。ガイア=ルル=ガイア、あれはきっと良い歳の取り方をするだろうからな。というわけで、なあ、どうだ? どっちも娶ってやるから、俺の所有物になれって。悪いようにはしねえし――今からでも俺は構わねえぜ? その魔力を俺に試食させてくれても』
「だぁああああああああぁぁぁぁ! 大魔王ケトスといい、てめえといい! 外なる神ってのは変人しかいねえのかよ!」
大魔王ケトスの名を聞き、空気が切り替わる。
『あの太々しい魔猫様は、ちゃんとおとなしくしてるのか?』
「ああん? 知り合いなのか?」
『まぁ、弟の飼い猫だから知り合いっちゃ知り合いだが……大丈夫か? あいつ、うっかりで本当に世界を滅ぼすこともあるタイプなんだが――』
明らかに常識を知らないレイヴァン神が真顔になり、冷や汗を浮かべている。
あの猫神は常識知らずの存在からも規格外の神、厄介な神として認識されているということか。
「今の神父は、なんつーか……オレの娘を口説いている最中らしいんだが」
『くは! あれが女を口説いてるとは、くくくくっ……マジかよ』
「……あんた冥界の神なんだろう。輪廻ぐらい見えるんだろうが……、マジでうちの娘が、その、あの大魔王のかつての大事だった猫の生まれ変わりだってのは――真実なのか?」
大魔王ケトス。
白き魔猫。
この盤上世界に現れた、規格外。例外中の例外。
四星獣ですら警戒する神が、愛娘の関係者。娘を大事と思う父としては、かなりの不安の種ではある。否定して欲しいという心も浮かぶ。
だが、輪廻転生を眺めることのできる神は頷いていた。
『ああ、本当だろうよ。あの魔猫は焦げパン色のネコの行方を追っていたからな。ま、俺もそんなことだとは気づかずに、とっくの昔に……四星獣イエスタデイ=ワンス=モアに転生できない消える魂として授けちまってたみたいだがな。あの時、あのタヌキ猫が口にくわえて大事に運んだ魂が、巡り廻って大魔王とこの世界を引き合わせたんだ。運命ってのは分からねえもんだな――』
「どういう意味だ」
『ああん? 決まってるだろ、あの大魔王ネコがこの世界を……正確に言うならこの世界を気に入っているラヴィッシュの嬢ちゃんを愛しているから、俺は気楽に動けねえ。あいつはこの世界を監視していやがるからな。下手に手を出したら、情けねえが俺でも消されちまうだろうさ――だからこうして、ずっと潜むなんていうクソだせえ事をさせられちまってるって話だ』
アキレスが言う。
「んなことはどうでもいいが」
『どうでも良くねえよ、神様が困ってるんだぞ。察して協力しやがれや!』
「アレに、ウチの娘を預けて――大丈夫なのか?」
それは父親としての心配だった。
そこには確かな愛がある。
『おいおい英雄のお父様よ。過干渉つーのか? あまり干渉すると、年頃の娘からは嫌われるぞ?』
そういう所もかわいいがな、と冥界神は妖しく眉を下げていた。
揶揄いに移行されることは見えていた、だからアキレスは話題を変えることにした。
いびつな変人を睨んだまま。
アキレスは真面目な言葉で神に問う。
「さてと――それで、結局てめえはなんなんだ。ウチの世界にさんざん迷惑をかけて下さった糞鼠の身内様が、今度もまた親父みたいに迷惑をかけようってのか――」
アキレスが斜に構えたのは、踏み込みやすい体勢を作るためだろう。
殺戮令嬢の魔力と思い出が散ったその手には最強の一冊、四星獣ナウナウの力を宿した件の魔導書が乗っている。
並々ならぬ魔力の書を眺め、神は不敵に微笑する。
黒翼の獣毛を揺らす神が。ふぅ……と息を漏らす。
銜え煙草を長い指で持ち替え――試すような口調で言葉を煙に乗せていた。
『おいおい、待てよ。こっちはおまえさんたちを見張りに来ただけだ、戦う気なんてねえし――そもそもだ、おまえさんほどの実力なら、どれだけの差かも分かるだろ? 戦う気なら、やめときな』
「勝てるか勝てねえかじゃねえだろう。理由はどうあれ、外来種のてめえが暗黒騎士クローディアの魂を回収した――どうするつもりか、勝者であるオレにはそれを聞く権利がある筈だ」
翼の裏の亜空間に回収されかけている令嬢の魂。
やりきった女の魂を見て、神は存外に落ち着いた神たる声で応じていた。
『なあ……今のおまえさんは、こいつについてどこまで覚えている』
「どこまでってのは、記憶の欠損と関係してるってことか、やはり、てめえが――」
『それは俺の御業じゃねえ、お前たちの神の御業だ』
クローディアの魂。
まるで蛍のような輝きを優しく手に乗せ、男神は言った。
『あの時この女の魂は神に祈った――真に願ったのさ。最後の頼みってやつだな――心の底からの願いだ。願いを叶える魔道具であるイエスタデイ=ワンス=モアは、終わらぬ幸せな悪夢の中で微睡みながらも、瞳を開け、この女の願いに肉球を差し伸べた――そして願いは成就された。ただそれだけの話だ』
「その願いってのは」
『さあな、俺も部外者だから知らねえよ。ただ、まあきっとおまえさんは知っちまったんだろうな。この疲れきった魂が知られたくないことを知った。だからその部分の記憶が抜かれてるんだろう』
理屈は理解した。
この神が嘘をつく理由はない。
だが――。
「で? 結局だ。レイヴァン神さんとやら、あんたは何がしたいんだ」
『俺はただ見張りに来ただけだって――』
「は? ふざけんなよ、クローディアの姐さんに力を授けてやがっただろうが」
ふむと、神は腕を組んで考え。
指に挟んだタバコの煙を森に散らし、言葉も散らす。
『そうカリカリするなよ。俺はただ――命を失い、行き場をなくした者達の魂を愛しているだけだ。たとえそれが不老不死となって彷徨っていた亡霊令嬢だったとしても、道を踏み外した罪ある魂だったとしても――死は平等だ。誰にだって終わりは等しく訪れる。生前の失敗も絶望も、苦悩も全てが浄化される――けれど、この嬢ちゃんはそれができなかった。死ねなかった。神に召し上げられていたからだ』
命を扱う上で、冥界神としてもルールがあるのだろう。
しかし、それらのルールなどお構いなしに動く四星獣に呆れた苦笑を送り――。
『終わりを心の底から望んでいた哀れな女に、終わりを授ける。不老不死を滅し、眠らせ――この翼で包んでやるのも俺の仕事。それが冥界の管理者ってもんだろう』
「殺すことが、仕事だと」
『殺すだ? 人聞きの悪い事を言うんじゃねえよ、本来ならこの女の魂はあの時、山羊悪魔パノケノスの魔弾で撃たれたその時で終わっていた筈だ。後悔も失敗もそこで終われたはずだろう? それを捻じ曲げたのは、ナマズ猫だろう』
言葉は通じているが、会話が成立しているかどうかは怪しい。
神と人は思考の基準が違う、意思疎通にわずかな齟齬があるのだろう。
それでも神たる男は饒舌に語り続ける。
『この辺りの界隈の死者は全て俺のモノだ。全ての亡者を愛している。食べてやりたいほどにな――だから、やりきって終わるための力を貸してやった。それが本人の望みであった。この女は本当に……もう疲れてたんだよ。人間は誰しもがお前さんみたいに前向きなんかじゃない、足を前に進められるわけじゃない。無理をして強く生き続けるってのは、魂をすり減らして生きると同義。実際……何度も願ってやがった。もう疲れた……休みたい。ってな。実に哀れで可哀そうじゃねえか。なあ、おい。そんな哀れな魂に安寧を与えることのどこが悪い? 俺はたしかに部外者だが、この世界の魂はそもそも俺の管理下にあった命だ。多少の責任はある。それが理由だ。どうだ、理由を聞いて満足したか?』
英雄は言う。
「オレはその魂をどうするかと聞いている」
声は低く、敵意を持ち始めていた。
対する神は飄々とした柳腰である。
しかし言葉は死者への慈愛で満ちていた。
『不老不死として生きた魂だ。転生という休息すら得られなかった、疲れに疲れ切った魂だ。そしてこれはおそらく、いや、断言してもいい。次に転生しても幸せになれない。長きに渡り刻まれた罪悪感や後悔は、転生しても消えはしない。いずれ前世の罪過を思い出し、再びその心を罪の意識で疲弊させるだろう。その次の転生も、その次も……永遠に……贖罪に追われ、休むことなく――彷徨い続けることとなる哀れなる魂魄だ。だからしばらく、何も考えなくていい場所で……休ませてやった方が良い。だから俺は冥界の神として、この魂を封印してやることにした。もう二度と、生という苦しみを知らずに済むように、永遠にな――』
空気が更に。
変わる。
「盤上世界の外に持ち出して、二度と転生できないようにするって事か――」
『元より、おまえたちは我が管理下にあった魂だ――。転生すらできなかった、哀れな動物の魂だ。あるべき場所、在りし日の故郷に帰るだけの話。つっても、どうやらお前さんは答えに満足してねえみたいだな』
「連れて行かせねえよ、ああ、なんか知らねえが――絶対に、連れて行かせちゃならねえ気がする」
既に英雄は戦いの気配を纏っていた。
神は歯向かってくる子供を窘める親の顔である。
『おいおい、勘弁してくれよ。神の恩寵を受けているとはいえ、人の子如きが――本気か?』
しかしアキレスもそこまで愚かではなかったのだろう。
その口角は勝利を掴むための笑みを浮かべていた。
「四星獣の連中は、駒でありこの世界の本物の命であるオレたちに、この世界の未来を委ねた。ぶっちゃけ、ちょっとそれも無責任だと感じてるが、まあ神が決めたことだ、文句はねえよ。だからあのモフモフどもはこの戦いに直接的には手を出してこない。だがな、外来種――てめえ相手なら例外だろう」
伸ばすアキレスの手の上。
逸話魔導書が蠢いていた。
アキレスの魔力ではなく勝手に開き始めたのだ。
真樹の森が、竹林で満たされる。




