第159話、――最後の願い――【真樹の森】
【SIDE:殺戮令嬢クローディア】
クローディアは深い夢を見ていた。
恋人の首を抱いて、恋人の墓の前。
壊された墓石の欠片を手に、漆黒色の喪服を纏って――ただ静かに横たわっていた。
それは夢だが、夢ではない。
真樹の森だった。
魔力によって生み出していた暗黒の鎧が、壊れている。墓石と共に、散っている。
腰に生えた片翼の翼も散っていた。
戦いの最中だった筈。
かつて北部で鍛えた人間の英雄アキレスとの、最後の戦い。
なのに。
鎧を失った淑女は、ただただ黒い喪服を着こんだまま――眠っていたのだ。
鎧の欠片……。
霧散した魔力の残滓はまるで血のようで、本来なら血を流さぬ神の眷属……殺戮令嬢の横たわった身体に纏わりついている。
血に似た魔力の泉の上、殺戮令嬢の唇が動く。
『ここは……戦いは、いったいどうなって……それに……、いや。ああ――そうか』
彼女は知っていた。
ここがどこだか知っていた。
意識が飛んでいた間に何があったのかも、知っていた。
既に甲羅の隙間のダンジョンではない。
既に結末を迎えていた。神の誰かが令嬢の亡骸を移したのだろう。
潮騒にも似た森の音が、ざぁぁぁぁぁぁぁっと敗者の耳を慰めていた。
やっと終わることができる。
状況を察した殺戮令嬢は、黒衣の腕を伸ばし――。
五百年以上共に過ごした。
間近に過ごした森の樹々に向かい、血塗られた手を伸ばす。
『わたしは――負けたのだな』
そう。
四星獣ナウナウの力を借りる新時代の魔術で自己強化を施したアキレスに、不老不死の身でありながら輝き、前に進むあの青年に、負けたのだ。
喪服の裾が、風に揺れていた。
気配がある。
それは神の恩寵を得た人間の波動。
英雄アキレス。
殺戮令嬢は思い出す。
どんな魔術、どんな聖剣や暗黒剣を召喚してもこの英雄は身体強化を受けた体躯と、脚を軸とした格闘術だけで払いのけてみせた。
魔力を込めただけの、ただの肉弾戦だ。
ただそれだけなのに――。
『神の眷属すらも屠る純粋な接近戦……か、ふふ、おまえらしいな』
そう、どれだけ本気を出しても届かなかった。
完敗だったのだ。
「悪いな……師匠」
『卑怯な男だな、こういう時だけ師と呼ぶか――』
「オレに戦いの基本を教えてくれたのはあんただ、こうなっちまった今でも――それだけは変わらねえ。感謝している……しているからこそ、オレは」
『そう泣きそうな顔をするな、わたしは世界を終わらせようとした外道だ。悪党だ。悪党を成敗するのは古来より英雄の務め、もっと誇ればいい』
クローディアは魔力の血の上で、問う。
『しかし――なぜ真樹の森にいる』
「ムルジル=ガダンガダン大王が現れて、死なせてやるのならここが良いだろう……ってな」
『バカ者が、迷宮攻略を放棄してきたのか?』
「いや、ちゃんと転移門が設置されてるから――神ネコヤナギが繋げてくれている。なんつーか、あっちに戻るのはそう難しくねえっつーか」
ヴェルザのダンジョン塔と何度もメンバー交代をしているのだ。
真樹の森と繋げることなど、世界管理者ならば容易いのだろう。
『そうか、ならばいい』
「よかねえよ。あんた……わざと負けやがっただろ」
『愚かな――いささか不愉快な言葉だ、謙遜は時に敗者の不興を買うぞ? わたしは全力でおまえと戦った。殺す気でな』
「ああ、知ってるよ。あんたが本気でオレを殺そうとしていたことも、必死に願いを叶えようとしていたことも。文字通り痛いほどに知ってるさ。だがよ――……だけどだ。あんな一騎打ちの戦いになる前に、あんたなら止めることができただろう。別の方法をとることができただろう、それにあの怪奇もただ……見守っているだけで手を出してこなかった」
殺戮令嬢の唇が動く。
『怪奇スカーマン=ダイナックか……あいつは知っていたのだろうな』
「なにを」
『わたしの本当の願いだ』
殺戮令嬢は樹々に埋もれた墓石、その欠片を、手の中でそっと触れるように抱き寄せ。
『わたしはずっと、消えたかったのだろうさ』
「はぁ? なっ……、だって……あんた、死んだ恋人だか、想い人だか知らねえが、そいつを蘇らせるために――」
『愚かな男だ。考えたことはなかったのか、もう既に五百年以上……もっと具体的に言うのならば、凡そ五百五十五年前といったところか、あの人が死んだのは……』
「それがいったい、なんだって――」
脳筋だな、と令嬢は微笑する。
『盤上遊戯、この世界の秘密は神ネコヤナギからはもう聞いているのだろう? かつて転生できずに彷徨っていた小動物や、何らかの事情で転生できなかった大きな動物、そして、畜生道に落ちた人間の犯罪者などもいるはずか……ともあれ、転生できずにいた消えかけた魂をイエスタデイ=ワンス=モア様がひとつひとつ運び、この世界の駒に埋め込む魂にした……と』
「ああ……オレたちは、外の世界に転生するため、駒となった」
『それがいったいどうしたといいだけな顔だな。ふふ、単純な話だ、この世界で死んだ魂は基本的にまた再び別の駒に憑依する。いわば転生が行われる。人間に生まれ変わるか、はたまた魔物に生まれ変わるか、あるいは森や山や川に生まれ変わるかは分からんがな』
それが盤上遊戯のシステム。
駒に入り込んでいた魂は、また別の駒に憑依し生まれ変わる。
それを悪用していたのがまだ暴れていた頃の聖父クリストフ、ヌートリア災害。
『例外は駒の輪廻から外れた存在。スカーマン=ダイナックや、あの魔物だった山羊や羊、そして神の眷属たるわたし……。解脱を終え、神に召し上げられた魔猫達もそうか。ともあれだ、わたしが蘇らせようとしていたあの人は既に……』
英雄の瞳が、わずかに揺れる。
「そうか、もうとっくに転生してるってことか――」
『ああ、アレは……あの人は――イエスタデイ=ワンス=モア様に駒ごと破壊されるような罪を犯したわけではないからな。と……ふむ。そうか、口に出してみて思い至ったが、転生できなくなる例外がもう一つあったな――』
「カルマ値があまりにも低く……かつ、四星獣の不興を買ったものは……」
『ああ、転生する価値無し、つまらない駒として――肉球や枝で駒ごと粉砕され、存在しなかったことにされるのであろうな』
それが四星獣が定めた基準。
だが、あの人は違う。
そう血塗れの喪服のレースを風に揺らし、令嬢は薄れていく唇を動かす――。
『既に転生しているのだ。何も知らず、わたしとの思い出は泡沫と消え……新しい人生で幸せに生きているのだ。それが転生。記憶の残滓も残っていないとなると、もはや別人なのだ。それにもかかわらず、もし、彼を取り戻せるとしたら……そうわたしは思ってしまった。蘇生して欲しいと願ってしまった。望んでしまった。その意味が分からぬほど、お前も愚かではあるまい?』
英雄は言う。
「願いを叶える神、四星獣。或いは四星獣と同等の、その願いを叶える力を持つ異界の神がその願いを叶えた時――いま、幸せに生きているそいつは死んじまう。あんたが愛した男として蘇るために、別人となったそいつが神に殺される。そういうことか……」
『ああ、だから。わたしの願いは叶うわけにはいかないのだ。だから』
令嬢は言った。
『敗北でいいのだ――』
思えば。
はじめ――四星獣イエスタデイ=ワンス=モアが真樹の森に寄った時、スカーマン=ダイナックと暗黒騎士クローディアが会話をしていた時。既に、もうあの時には――墓の中で眠っていた筈の男の魂は転生していたのだろう。
だから、イエスタデイ=ワンス=モアは救いの肉球を伸ばさなかった。
悪いことをしていない女性に甘く、気まぐれで奇跡を授ける魔猫は――その不幸な殺戮令嬢の物語を知っても、その男の蘇生をしてやらなかった。
『あの人は今の命になるまで、何度転生したのだろうな。人間か、魔物か。あるいはこの森に咲く花であったか――』
英雄は、どうしようもない現実を眺め、言葉を探していた。
「なあ、もしだ。もし……いまそいつが不幸だったり、たとえば魔物だったりに転生していて。もし、あんたと出会ったあの時の男に戻りたいと願っていたら。そいつを……その、同意を得て、言葉は悪いが死んでもらって四星獣の誰かや、あんたが契約したっていう外なる神に蘇生して貰うってのも――」
『もしもの仮定ばかりだな』
「しゃあねえだろう。オレはあんたの大事な人が今、どんなヤツに転生してるのか知らねえんだから」
それは提案だった。
「なあ、オレがいまからムルジル=ガダンガダン大王に金を積んで、頼み込んできてもいい。そうしたら、あんたは笑ってくれるか」
『何をバカなことを、笑うだと?』
「ああ、出会った頃からずっと思ってたんだが。あんた、一度もちゃんと笑ったことなかっただろ。だからもし、あんたがその大事な人を取り戻したなら……一度ぐらい、ちゃんと笑った顔を見せてくれるんじゃねえかって、そう思っちまった――」
可能性の話だ。
今の人生を不幸に感じていて、前の駒に戻りたいと願っているのなら。
たしかに英雄の言葉には一理があった。今の本人の心からの同意さえ得られれば、倫理的にはともかく――不可能ではない話だ。
けれど。
殺戮令嬢。
暗黒騎士クローディアは疲れとも違う困った顔を見せ、今まで見せたことのない表情で男を見上げ。
『気持ちは嬉しいがな、それは遠慮しておこう』
「なんでだよ」
『わたしはもうやり切った。世界を掻き乱した責任もあるが、それでも……自分で言うのは驕りであろうが、善行も多く積んだ筈だ。満足なのだ――これでも五百歳を過ぎている、もう休んだっていい頃だろう』
ざぁぁあぁぁぁぁっと、魔力が散っていく。
不老不死の肉体が、消滅していく。
消えゆく魂をかき集めようと慌てて英雄が腕を伸ばす。
「おい、待てよ! 勝手に消えるんじゃねえ!」
抱き止められたせいか。
殺戮令嬢の顔が一瞬、揺らぐ。
令嬢の記憶が、揺すられていたのだろう――。
「とりあえずそいつを探してくるから、待ってろって言ってるんだ!」
殺戮令嬢は腕の中、真樹の森の潮騒に包まれて。
男を見た。
かつて戦い方を教えた英雄を見た。
あぁ……やはり、と。
『無駄だ。生まれ変わったヤツは今……きっと、とても幸せに、強く生きているだろうさ』
「んなこと、分からねえだろうっ」
『いいや、分かる。ああ、分かってしまったのだ。だからわたしの物語はここで終わり。それでいい――んだ……』
贖罪に生き。
死に場所を求め彷徨っていた女の身体が消えていく。
「オレには分からねえよ、なんでそんなに満足そうに、今になって笑ってやがる……っ」
『さあな――けれど、これだけは言える。わたしの人生は後悔ばかりだった。間違いだらけの道程だった。本当に……なにもかも、悪い方向へと転がってしまった。情けないな、けれど、どれほど後悔ばかりの命であったとしても。あの人を愛したことだけは間違いではなかったと――そう思っている』
消えゆく女の腕が、伸びる。
英雄の、かつて育てた青年の頬に触れていた。
まったく似ていない。アレとはまったく。
けれど。
正義感が強いところだけは、そっくりだった。
生まれ変わったモノは、前の命の記憶を忘れる。
別人なのだから、当然だ。
例外は、大魔王ケトスの想い人であるあの魔猫少女ぐらいだろう。
「その、あの人って……おい」
英雄は優れた観察眼を持っている。
そして確率を調整できる恩寵も授かっている。
だから――アキレスの顔が歪む。
「まさか……そんなわけ……」
『百発百中の観察眼、か……』
クローディアは真樹の森の先。
世界を眺める四星獣の長、幸福なる悪夢にうなされ続ける魔猫を見た。
其れは、在りし日を望み続けるケモノ。
そして、願いを口にする。
『イエスタデイ=ワンス=モアよ、どうか――最後の頼みを聞いて欲しい……。今の記憶を、バカ弟子が気づいてしまった真実を忘れさせてやって欲しい……』
「おい、待てよ。そんなの――っ」
『あいにくと、他人の男を奪う悪趣味はもっていないのでな――。それに、おまえはわたしの趣味でもない。わたしが愛したのは、あの男だけ……おまえではない……おまえでは……』
ないのだから。
と。
言って、女は最後に笑った。
心の底から微笑んでいたのだろう。
最後までやり切った、満足した――そんな笑顔を浮かべたまま。
塵となって消えた。
男の指の隙間から、本人も記憶していない思い出が零れていく。
記録にもない、記憶だ。
男がかつての自分ではない自分を思い出し始めた中。
四星獣イエスタデイ=ワンス=モアは願いを叶える。
それが善良なカルマの持ち主ならば。
心の底からの願いならば。
本当の願いならば――。
盤上遊戯を彷徨い続けた哀れな女の願いを聞き届ける。
四星獣の声が響く。
『願いは聞き届けた。しばし休め。そして輪廻の輪に戻るが良い――哀れなるものよ』
真樹の森の潮騒の中。
英雄の腕の中から零れ、風に吹かれて消えていく。
女の魔力残滓が過ぎ去っていく。
◇
なにか大切なことを、忘れてしまったような。
そんな感覚が、英雄の顔を歪めているのだろう。
クローディアの最後の願いを、四星獣の誰かが叶えたのだと英雄の観察眼は悟っていた。
けれど、何を忘れてしまったのか。
それがどうしても思い出せない。
とても大事ななにかを忘れてしまったことだけは、覚えている。
しかし、今はそれよりも。
頬に伝っていた一筋の光を拭い。
男の顔は引き締まっていた――真樹の森の奥の闇を見て。
犬歯を剥き出しに静かな唸りを上げていたのだ。
「なあ、おい……てめえは、誰だ。いつまでそこで盗み見てるつもりだ」
返事はない。けれど英雄の観察眼は語っていた。
そこに何かがいる。
「その女の魂をどこに持っていくつもりだ――っ、つってんだよ!」
『ほぅ、なるほどな――』
降ってきたのは酷く淫猥な声だった。
地獄の底から滴るような、けれど、甘ったるい情欲を煽る男の性的な声だったのだ。
『僅かにでも察知すればそれを確定させることができる能力か。なかなか厄介なもんを育ててるじゃねえか、あの置物ネコの盤上遊戯は』
それは闇の中から蠢き顕現した。
現れたのは長身の男ほどの蝗の群れと、金色のネズミが数匹。
その中央から赤い魔力が揺らぎ始める。
金色のネズミが土を捏ね、魔力の塊を生み出しその塊に蝗が群がり――揺れる。
イナゴが黒い翼の形となって固まり、ネズミの捏ねた土が人の形となっていたのである。盤上遊戯の中で動く駒を作成しているのだろう。それも、恐ろしいほどの高速で。
顕現したのは堕天使といった印象を放つ強面な男。
ただ。
その空気は気だるく暗澹としている、酷く淫猥な空気を纏っているのだ。
「てめえ、何者だ」
『名乗りを上げるのは好きじゃねえが。まあいいさ、語ってやる。俺の名はレイヴァン。レイヴァン=ルーン=クリストフ。原初の黙示録に記されしアバドーン、太陽神アポロンの化身アポリュオーンにして、ゲヘナの流れを汲む……まあなんだ、もう分かってるだろう。かつて楽園にあった神。イエスタデイ=ワンス=モアに力を与えた弟神の兄。楽園が滅びるきっかけとなった、疫病神。御伽噺の登場人物になるだろうな』
レイヴァン神と名乗る男は、不敵に笑い。
ふぅ……と、開襟したシャツから取り出した煙草を銜え、濃厚な煙を吹きだし告げた。
『お前さんがまだ馬だった頃。おまえたちが駒に入る前の……ただの彷徨える魂だった時にも、一応会ったことがあるんだが、ま――覚えてるわけはねえわな』
アキレスが眉を跳ねさせる。
「覚えているわけがないだと……? この真樹の森での記憶が抜けてるのは……なにか大切だったはずの過去を奪ったのは、てめえか」
神は静かに瞳を閉じ。
まるで手にする魂の心を汲むような、問いかけるような表情を見せた後。
神の慈悲を滲ませ言う。
『さて、どうだろうな。ともあれだ、ここまで言えばわかるだろう? おまえさんたちの神であるイエスタデイ=ワンス=モアとその仲間の四星獣どもが、そりゃあもう好き勝手やっているせいで混乱している冥界の……管理者だよ』
それは盤上遊戯の真実を知った猫の置物に力を与えた兄弟神の片割れ。
異聞禁書ネコヤナギが語った、盤上遊戯の駒のはじまりに登場した冥界の王。
四星獣とも大魔王ケトスとも違う強大な神性の気配。
該当するのはひとつだけ、おそらくは暗黒騎士クローディアに力を貸していた外来種。
間違いなく、外なる神だろう。




