第149話、終わらぬ絶望【ドリームランド】
【SIDE:夢見る魔猫イエスタデイ】
飼い主を愛する魔猫は夢を見ていた。
それは絶望の夢。終わりのない悪夢。
あの日、あの草原で悪しき神々に捕まり、主人と共に魔道具へと改造されたときの夢。
四星獣イエスタデイ。
イエスタデイ=ワンス=モア。
あの日々をもう一度――。在りし日をもう一度。過ぎ去った幸せを、もう一度……。
楽園が滅びる前。
勝者の願いを叶えるネコの置物、魔道具化されたイエスタデイは記憶を奪われ神々の遊興に従っていた。
何も知らずに、何も疑うことなく――。
けれど、とある兄弟神のおかげで猫の置物は真実を知った。思い出した。
土の香りと草の香り。
羊飼いである主人と歩いた、あの草原の温もりを――。
肉球で踏みしめた、あの大地の感触を――。
天上世界でネコの置物が、ニャーと鳴く。
甲羅の隙間のダンジョンの最奥。
あの日の絶望を抱いたまま硬化する魔猫イエスタデイの魂も、ニャーと鳴く。
いったい、どれほどの時を過ごしたのだろうか。いったい、どれほどの憎悪を吐き散らしたのだろうか。
魔猫イエスタデイは神を恨んでいた。
楽園の神々を、憎悪していた。
けれど、楽園は滅んでいた。魔猫イエスタデイの復讐が果たされる前に、自らの過ちのままに滅んでいた。
魔猫イエスタデイは望んでいた。
いつか主人を開放し、盤上遊戯化された主を治し、共に草原を再び歩いた――その後で。
『我が復讐は、もはや果たせぬ――』
盤上遊戯と寄り添い、願いを叶え続ける魔猫の置物が唸りを上げる。
『ああ、口惜しい。奴らが滅んだことは望ましいことだ。奴らが滅んだことは実に愉快であった。なれど、この我の内に込み上げ、煮えたぎる憎悪はいったい、どこに向かえばいい。振り上げた肉球を落とす果てを、我は知らぬ――我は、いったい、何を望んでおる』
魔猫イエスタデイは考える。
憎悪の中で、考える。
魔猫イエスタデイは盤上世界を見下ろす。それは自らの駒。自らの願いを叶えるためだけの世界。
そう、その筈だった。
けれど。
魔猫の置物は、手を伸ばす。
硬化した魂も、肉球を伸ばす。
『盤上遊戯の駒たちよ、あやつらはたしかに我の憎悪を和らげてくれた。主のいない日々に怯える我の空白を、あやつらの戯れが埋めてくれた。ああ、あやつらは実にかわいい生き物よ。実に、微笑ましい生き物よ。時に優しく、時に残酷で。愚かであるが、賢き一面も持ち合わせる。ああ……見ていて飽きぬ、我の駒』
魔猫イエスタデイの吐息が、盤上遊戯を揺らす。
『我はいったい、どうしたいのだ。我には分からぬ、我には我の願いが分からぬ。もはや、我には分からぬ。分からぬ。あやつらは実に面白い、消したくなどない。遊戯を永遠に続けさせてやりたい。なれど、我は主人を助けたい。そして、楽園のあの者らを魂魄の残滓すらも残さず――滅したい。なれど、なれど……主は、今やあやつらと魂を同じくしておる。そしてこの世界とも同化し……』
困惑と混乱。
魔猫イエスタデイのステータス情報は二つの状態異常で汚染されている。
願いを叶える魔道具は、戸惑っていた。
『我は、いったい何がしたい』
願いを叶える魔道具が、迷っていた。
『我の望みとは、願望とは――なんだ?』
願いを叶える魔道具は、自分の願いが分からない。
他者の願いならば、すぐに分かる。
誰かの願いを叶える時。
魔猫イエスタデイは、その心が本当に願い続けていることをその嗅覚で嗅ぎ分ける。
魂に触れれば、文字通り手にするように理解できてしまう。
けれど――。
四星獣イエスタデイ=ワンス=モア。
あの日を望み続けるケモノ。
楽園の神々への憎悪を滾らせる、復讐のケモノ。
『分からぬ。もはや我には分からぬ――』
ただ思う事は一つ。
何も考えず、ただ幸せな日々を過ごしていたあの日に帰りたい。
その心だけは真実だった。
魔猫の置物が、瞳を閉じる。
その頭を撫でられた思い出を夢想し。
共に草原で寝た、あの日々を思い出し。
硬化した魂が唸りを上げる。
『我が振り上げた肉球は、いったい――どこにぶつければいい? あの日の我の憎悪をどこに――』
イエスタデイ=ワンス=モア。
青く透き通っていたその瞳の色が変わり、赤く染まっていく。
血のような赤。
憎悪する赤。
それは感情を暴走させたモノ、魔性になったモノの証。
魔猫イエスタデイは憎悪の中で揺蕩い続ける。
あの日、愛する主人を守れなかった憎悪が、いつまでも付き纏い続ける。
あの日、もし自分に力があったのなら。
理不尽に抗う力が、この肉球にあったのなら。
だからこそ――。
魔猫イエスタデイは瞳を開けた。
その瞳は済んだ青色に戻っていた。
終わらぬ悪夢の中。
手が伸びる。
肉球が伸びる。
そこにあったのは愛しき駒達。ただの道具に過ぎなかった、けれど、憎悪に揺れる魔猫をその蠢きで慰め続けた命たち。
四星獣ナウナウが駒達との遊戯で癒されていたように。
四星獣ネコヤナギが、駒達の思い出となったことで愛を恐れなくなったように。
四星獣ムルジル=ガダンガダン大王が、財を育てる駒達を観察していたように。
『ああ、我らが子よ。我等を慰め続けた命たちよ――』
願わくば。
理不尽なる神に対抗できる力を。
道具として使おうとしている我に抗う力を、汝らに……。
『あの日、あの草原で、大事なモノを守れなかった我の代わりに――願いを叶えてみせよ。もはや戻れぬあの日々、我の悪夢を断ち切ってみせよ。汝らは、我に勝ってみせよ。抗ってみせよ。我は四星獣。過去を司るケモノ、イエスタデイ=ワンス=モア。願いを叶える魔道具なり――』
全てを奪われ。
嘆き続ける魔猫の、今の願いは――。
……。
魔猫の置物は盤上世界を眺めていた。
協力し、創造主に近しい神に対抗するべく動く駒達を、じっと――。
もはや本当の意味では、あの日々には戻れない。
駒達を愛してしまった、気に入ってしまった瞬間に……あの日の願いは揺らいでしまった。
主人を元に戻す事。
世界をこのまま存続させること。
相反する願いは、叶えられない。
天上世界の置物を、パンダが静かに眺めている。
硬化した魔猫の魂を、ナマズ猫が静かに眺めている。
終わらぬ悪夢の中。
助けられなかった絶望の中。
願いを叶える魔猫は夢を見る。
終わらぬ悪夢を見続ける。
いつもと変わらない闇の中。
赤い霧が発生していた。
広がる霧が悪夢を覆い尽くして――誰かが言う。
『それで、ネコの旦那。オレはどちらにつけばいいんだい?』
それは人の血を吸う事でしか育つことができなかった、短刀。
赤き刀身、魔王アルバートン=アル=カイトスの守り刀。
かつて四星獣と契約した傷皮膚男の魂を宿した、刀状の召喚獣。
切り裂きジェーンが主人であるイエスタデイ=ワンス=モアの悪夢に入り込んできたのだろう。
キシシシと嗤う短刀を一瞥し、魔猫はさほど興味も見せず瞳を閉じる。
『好きにせよ――』
『好きにと言われてもねえ……オレは、あんたの願いにもこの世界にも、あまり興味なんてないんだよ』
刀身が輝く。
『創造主であるあんたには悪いんだがね、疲れる世界だよ、ここは――全員が全員、この世界の存続を願っているわけじゃないだろうさ。だから、あんたはあんたの願いを叶える権利もあると思うけれどね? ネコの旦那』
『そうか』
『そうかって、自分の事だろうに。ったく、素直に願えばいいじゃねえか。大好きなあの人を元に戻してくださいって、休憩させずにネコどもを三日三晩、ずっと働かせれば即発動できるんだろう? なぜそれをしねえのか、理解に苦しむね』
赤い刀身が、嗤っている。
主人たる魔猫が言う。
『説教か、節介か。どちらにせよスカーマン=ダイナックよ。汝は少し、変わったな』
『ああん? 自分の願いすらちゃんと把握できねえ神モドキが、他人様の感情を推し量るってか? てめぇはそこまで立派なネコじゃねえだろう? ただ主人を愛する事しか知らねえ、あの日のまま変わらねえ――情けねえ駄猫だよ』
『駄猫、か。恐れを知らぬ召喚獣であるな』
スカーマン=ダイナックの魂を宿す赤き短刀。
切り裂きジェーンが言う。
『ま、どうだっていいからねえ。世界も願いも、オレの人生はもう終わってるんだ。子孫だっている。オレの物語は既に完結しているっつーわけさね』
『息子のことは良いのか?』
『あれでも魔王だ。イイ子ぶっているが、結果として殺戮を繰り返した立派な男だろう? もう母親ってやつが口も手も出すのは違うだろう?』
オレはそーいうのは知らんけどな。
と、刀がキシシシシと嗤う。
そして――切り裂きジェーンは赤い霧の中で、告げた。
『たとえ世界がどうなっても、駒共がどうなっても――関係ねえ。他のうるせえ四星獣共がなんと言おうとな。覚えておきな――この先どうなったとしても。どんな結末を迎えようとしても』
かつての姿に戻り。
『オレだけは最後まであんたの味方さ』
傷だらけの女が、悪夢に溺れる魔猫を眺めて言った。
『忘れちゃいないよ。こんな汚ねえオレの願いを、初めてちゃんと聞いてくれたあんたの――あの日の慈悲だけは。忘れはしねえさ。だから、あんたは好きなようにすればいいさ。言いたいことはそれだけだ』
『汝も、酔狂な駒よ』
『旦那程じゃねえさ――それじゃあ、オレは帰るから。せいぜい悩み続けてな――』
と言い残し。
スカーマン=ダイナックは霧とともに消えていく。
イエスタデイ=ワンス=モアの悪夢は終わらない。
あの日の草原で襲われた、守れなかった過去は消えやしない。
けれど、イエスタデイ=ワンス=モアはスカーマン=ダイナックの言葉を思い出していた。
最後まで味方だと。
ただそんな言葉が、なぜだか悪夢を和らげた。
四星獣イエスタデイ=ワンス=モアは夢を見る。
終わらぬ悪夢を見続ける――。
幸せな夢こそが、悪夢。
あの幸せな日々を思い続けることは。
その崩壊も思い出すことになるのだから――。




