第137話、魔猫の願いが叶うとき――【謁見の間】
【SIDE:盤上世界の三皇】
それはまるで太陽が降りてきたような眩しさ――後光と聖炎を纏いし神は、今此処に降臨した。
聖父クリストフを名乗る、齧歯類の神ヌートリア。
特徴的なのは、川を泳ぐために発達した後ろ足の水かき、そして長い蛇のような尾か。
体毛はまるでタワシ。
今までの外来種はもっと目つきが鋭く、おぞましい姿をしていたが今、ここにいる神は違った。
その表情は非常に穏やかで――だからこそ、三皇は動揺を隠せないでいる。
この場にいる三皇。
盤上世界最強の駒候補を奪われたら、その時点で全てが終わる。
しかし……ヌートリアは穏やかな声で、凛と、太陽の恵みの如き声で告げる。
『どうか落ち着いて欲しい、盤上世界の民よ。あの子が生命を与えた、この世界の住人達よ。どうか信じて欲しい。僕に、君たちと敵対する意思はない』
外来種であるはずのヌートリアの細目から放たれるのは聖なる波動。穏やかな光。暖かい魔力。
赤珊瑚色の髪をキラキラと輝かせるスピカ=コーラルスター。英雄の末裔もこの場をどうするべきか、選択できないでいる。
実際、北部と魔王領は長年にわたりヌートリア災害に遭っていた。目の前で穏やかに語り掛けてくる神ネズミの声をすぐに信じてしまうのは、戦術的な意味でも正しくはないだろう。けれど、どうすることもできない相手だとは本能的に悟っている。
皆、心の底では震えている。
そもそも、神を目の前にして声を出せる者はほぼいない。出そうとしても、喉が震えて言葉にならないのだ。
今までの神の駒ではなく、目の前にいる穏やかなヌートリアが本物の神だからだろう。
属性は聖と火。
戦って勝てる相手ではないと、誰の感覚でも理解ができていた。この場で気絶せずにいられるだけ、この場にいる者は優秀なのだが。
萎縮し、畏怖し、混乱する駒達を眺め。
神は言う。
『突然の事で驚いてしまうかもしれない。けれど、聞いて欲しい。今の僕は、この世界そのものだ。かつて伝承にあった、四星獣イエスタデイ=ワンス=モアの物語を異聞禁書ネコヤナギから聞いてはいるのだろう? 僕はあの本当にあった、在りし日の童話の登場人物、イエスタデイ、あの子が主人と仰いでいた……楽園の奴隷と今、魂を同じくしているんだ』
ダイス判定が発生している。
それは知る力、理解する力。種族技能:図書館と種族技能:考古学を参照し、それぞれこの場にいる全員に成否判定がなされていたのだ。
『だから、僕は今までこの世界であったこと全部を知っている。そして同時に、僕という存在と愛するネコを攫い、魔道具へと改造し……この世界、盤上遊戯を作り出した楽園の住人の事も知っている。なぜなら今の僕は、楽園の奴隷の男の魂でありつつ、楽園を管理していた聖父でもあるのだから。ああ、あの聖域はとても酷い世界だったのだろうね。今になって思えば……とても、心のない世界だったのだろう。我々は世界を管理していただけで、世界とそこに生きる命を愛してはいなかったのだから――』
神の口からは、楽園と呼ばれた神話の世界の神としての声も漏れていた。一つの器に、複数の魂を同時に所有する存在こそがレギオン。
加害者であり被害者でもある。
それが今のヌートリアレギオン、聖父クリストフなのだろう。
ともあれ神の言葉を正しく理解できる者は限られている。
成否判定に失敗し、精神を汚染されている者も何人か出る中――。
魔王が言う。
『それを信じろと……?』
それとは、目の前の外来種に敵対意思がない事。
そしてイエスタデイ=ワンス=モアの主の魂と同化している事を示したのか。
魔王が神を前に、肺の奥からなんとか絞り出した言葉に――。
『汝が魔王アルバートン=アル=カイトスか。異界の巨鯨猫神の名を魔女王キジジ=ジキキから授かった、神々の悪戯により生まれた子。冒険者殺しダインの子孫にして、まだ四星獣ナウナウに拾われる前の英雄魔物パノケノスを退けた勇者と呼ぶに相応しき人間――”だった者”』
魔王の歴史を語る聖父クリストフ。
その言葉は真実であり、だからこそ歴史を知る者は警戒する。
神はそのまま語り続けた。
『そして人に裏切られ、人を信じられなくなり。唯一、大事なモノと定めていた肉親、御者の男の死によって……あの日に心を置いてきてしまった哀れな少年よ。少年魔王アルバートン。僕は君の悲しみも絶望も知っている。この世界の全てを知っている。君が四星獣ネコヤナギと契約し、盤上世界を乗っ取ろうとしていた僕に対抗したことも。魔王になった責務を果たすべく、身も心も疲弊させ続けていることを――全てをね』
『神よ――それは精神攻撃か』
『いいや、純然たる事実を語っただけさ。君が魔王という立場で部下に弱音を吐けないことを、僕は知っている。それだけの話だよ』
あの魔王アルバートン=アル=カイトスが、緊張に肌に汗を浮かべている。
魔王軍にとって、それほどに恐ろしい事実はないだろう。あの最強を誇る魔王が、警戒し、動けずにいるのだから――。
強固な結界の中、千年幼女の異名を持つ幼女教皇マギが怯んでいる家臣たちに向かい、くわっと髪を広げ。
「ええーい! 勘ぐっていても始まらん、だいたい、この場まで侵入されている時点で、本来ならこちらの負けなのじゃ、おぬしらももっと度胸をみせんか、度胸を!」
「し、しかし……っ」
「しかしも、案山子もないわ! 相手がここで襲ってきておらんということは、一応は話し合いの用意があるという事じゃろうて。魔王の言葉ではないが、うかつに仕掛けるでないぞ!」
ヴェルザの街の家臣たちは互いに顔を眺め。
「しかし、マギ様。今のしかしも案山子もというのは……いささか意味が分かりかねますが……?」
「ぐぬぬぬぬ! 五百年前ならばドカっと爆笑だったものを……っ。時の流れとは恐ろしいものじゃ――」
海亀ダイナックが、捏造するなと言わんばかりに胴体を揺らし。
他国の家臣たちが、ヴェルザの連中は余裕あるなぁ……と呆れ顔をしている状況も気にせず。
マギのおかげで空気が落ち着いたことを確認したのだろう、終焉皇帝ザカール八世が言う。
「聖父クリストフよ、我が名はザカール。終焉皇帝ザカール八世――」
『ああ、当然、君の事も知っているよ。ネコヤナギ、世界を愛する事を怖がらなくなった地母神から、記録は確認させてもらっている』
「異聞禁書ネコヤナギさまが?」
マギが言う。
「待て、待て! おぬし、よもやあの方から無理やりに枝を引き裂いたのではあるまいな!」
『そんなことはしていないさ。実は今、僕らは協力関係にあってね。世界と魂を共有した僕が記憶している情報と、彼女の記録に差異がないか、確認させてもらっただけだよ。彼女はちゃんと、生きて行動している』
「だいたいじゃ! 外来種の神が、なぁぁぜ、イエスタデイ様の主人と同化しておる。その時点で、こちらはオツムが混乱じゃ、大混乱じゃ! 意味が分からぬ!」
もっともな問いかけだと思ったのか。
ネズミの神は苦笑し。
『君たちの中でも……特に魔王領の皆ならば該当能力者もいるだろうが。この世界を乗っ取ろうとまだ正気を失っていた僕は――この世界にある攻撃を仕掛けていた。それは吸収やエナジードレイン、魂喰いに肉喰らい、そういった、他者の能力や魂を奪う力に近い能力発動となっていた。後は、魔術を扱う者ならば大体の見当はつくとは思うけれど。どうだい?』
問いかけに冷静になり、幼女は考え。
「つまり、おぬしはこの世界そのものか、あるいは一部を喰らい……」
『ああ、この世界そのものへと改造された、とある男の魂を取り込んでしまった。結果として、聖父クリストフである僕が逆に乗っ取られたというわけだ』
魔術師の顔でシリアスに唸ったマギは、ぷにっと腕を組み。
「まあ、筋は通っておるが……」
『とりあえず、この場で君たち三皇を奪おうとしていない時点で、少なくとも敵対する意思はない――それを理解して貰えればありがたいのだけれどね』
「道理じゃな……じゃが、分からん。なにゆえ、四星獣イエスタデイ=ワンス=モアは姿を消した。もし本当に、おぬしがイエスタデイ様の主の魂と同化したのならば、あの方の願いは果たされたはず。在りし日に帰りたいと願い続けたあの方の願いは、ようやく……叶ったのじゃろう?」
伝承が正しいのなら――。
四星獣イエスタデイ=ワンス=モア。
その願いは、ずっと変わらなかった筈。
すなわち、主人との再会である。
けれど、イエスタデイを愛するネズミは、首を横に振る。
『あの子の願いを、思い出してほしい。在りし日に帰りたい、あの日に戻りたい。盤上遊戯世界へと変えられてしまう前の僕と、あの日の草原を……ずっと、共に……』
「じゃから、分からぬ奴じゃのう! ネズミとなったおぬしと共に、ダイナックの背を駆ければそれで終わりじゃろうて! この亀には、もうすっかり様々なエリアが生まれておる、麦や田畑、草原もいっぱいじゃ。そこで幸せに、あの日々を取り戻せばいいだけじゃろう!」
魔王が、アルバートン少年の声音で言う。
『なるほど……そういう事ですか』
「ん? 何か分かったのか?」
『あの方の願いは、あくまでも在りし日に帰ること……』
「時間逆行などさすがに無理じゃろう」
『ええ、それでも――他に、それに近い状態に戻る手段が一つだけあります』
終焉皇帝ザカール八世も気が付いたのか。
顔色を青くしつつも、部下の手前、冷静さを保ったまま。
「楽園の神々によって作り替えられた主人を、元の姿に戻す事。つまり、それは――」
何人が、気づいていただろうか。
何人が、知ってしまっただろうか。
四星獣イエスタデイ=ワンス=モアが、ずっと、願いを溜め続けていた果てに何をしたかったのかを。
聖父クリストフが、魔術映像として魔猫イエスタデイの姿を映し出し。
彼が行ってきた神としての行動をここにいる全員に見せ。
言う。
『ああ、僕を……つまりこの世界をなかったことにして、僕を元の姿に戻すつもりなのだろう』
「待つのじゃ、ならば……この世界が、おぬしそのものならば。おぬしが元の世界に戻った時……妾たちは――」
答えはシンプルだった。
『あの子の願いが叶うとき、それがこの世界の終焉。ゲームの終わり……ということだ』
魔猫の願いは主人を元に戻す事。
世界が滅びる時。
ようやくイエスタデイの願いは叶う。
在りし日の愛する主人と、あの日の姿でずっと一緒に……その、何千年と願い続けた望みが叶うのだ。
それこそがこの世界の真実。
四星獣達は知っていた。
魔猫の願いを知っていた。
だからこの世界の駒を愛さないようにしていた。
いつか必ず、最後には――消さなくてはならないと知っていたから。
いつかは終わる世界だと、部外者の、神の目線で遊戯を繰り返した。
かつて存在したという楽園の神が、イエスタデイとその主人を道具のように扱い改造したように。
四星獣イエスタデイ=ワンス=モアも、この世界の駒を駒として利用していたのだ。
同じことを、していたのだ。
そのために駒に命を与え。
命を得た駒の願いを叶え、利用し……盤上世界を消すための、願いを叶えるための力を溜め続けた。
だから、世界を愛し。
駒達を本気で愛してしまった異聞禁書ネコヤナギはイエスタデイに謝った。
けれど――彼女だけではなかった。
誤算があった。計算外があった。魔猫イエスタデイは、楽園の神とは決定的に違う、一つの感情を持っていた。
映像の中の魔猫イエスタデイが、駒をじっと眺めて……悩んでいる。
考えている。
動く命達を眺め、時には手を伸ばし。肉球を広げ……。
悩み続けていた。
苦悩する愛猫の旅路を眺め。
神は言った。
『あの子は、愛してしまったのだろうね。君たちを――』
道具であったはずの駒達を、気に入ってしまった。
その証拠たちが今。
この世界そのものと同化した、聖父クリストフの目の前にいる。




