第131話、チェックメイト―終局の肉球へ―【誰もいない楽園】
【SIDE:盤上遊戯対局者達】
誰もいない神々の楽園にて、盤上遊戯は続いている。
猫の置物となった魔猫。
四星獣イエスタデイ=ワンス=モアは、盤上遊戯の過去現在未来を眺め、くわぁぁぁっと一つ大きな欠伸をしていた。しっぺしっぺしっぺと、ネコの真似をして背中を舐めてみる。
それは全て、過去に猫だった頃の習性。
魔猫の置物、願いを叶える魔道具は――歩みを進める盤上世界を眺めて考える。
あの日に帰りたい。
ご主人様と静かにのんびり、穏やかに暮らしたあの日々に。
だから願いを叶える魔道具は、願いを叶える力を溜め続けた。
しかし――。
四星獣イエスタデイ=ワンス=モアは目の前で対局する、ネコとネズミの神を見た。
楽園に聳え立つ神樹ネコヤナギの根元で、彼らは黙々と駒を進めている。
玉座に鎮座する太々しい魔猫、大魔王ケトスはふわふわモコモコな白い獣毛を風に靡かせ、ただ淡々と駒を肉球で進めている。
その傍らには時間つぶしなのか、一冊の魔導書が置かれていた。
そして対局者は――。
異界の大神たるその魔猫の前、狂神を吐き出し理性を取り戻したヌートリアが、淡々とネズミの手で駒をスゥ……っと動かしている。
けれどどうしたことだろうか。
そこにいるのは、もはや邪気のないヌートリアだった。
本当に静かに、おとなしく、駒を動かし続けているのだ。
彼ら二柱は盤上世界とは法則の異なる世界の住人。
願いを叶えるために、彼らは勝利を掴もうと戦っている。
二匹の獣は常世の存在ではない証の赤い瞳を――ギラギラギラ。
魔性の輝きを放っている。
傍らに置いた魔導書を捲りながら――大魔王ケトスが対局者を眺め、穏やかな教師のような声を出していた。
『狂神や荒魂の多くを失った影響かな? キミは随分とおとなしくなったね』
『ああ、そうかもしれないね』
『口調まで鎮まっているし、そうとしか考えられないね。全部、キミの計画なのかな?』
『さあ、どうだろうか』
受け答えは、静かだった。
ネズミの王で神。ヌートリアレギオンの肩には、楽園の樹々から運ばれてきた落葉が乗っている。静かに、ただ穏やかに、敵対者だった筈の外来種は害意のない顔で盤上世界を眺めているのだ。
ネラネラと動くしっぽは蛇のようだが、醜さはない。
顔にも穢れた魂から滲んでいた醜悪さは薄れている。
はらりと散っていく落ち葉は、オレンジ色に染まっていた。
時の流れが異なる楽園の季節が、秋になり始めているのだろう。
四星獣イエスタデイ=ワンス=モア。
その本体といえる猫の置物が、やはりくわぁぁぁぁっと欠伸をする。主人と過ごしたあの日々を思い出していたのだ。魔猫の置物にも、黄色い葉がはらりと乗っている。
耳を動かし、葉を落とそうとするもなかなか落ちない。
盤上世界に巣食い、その根を齧り続けたヌートリアレギオンの手が落葉を掴もうと、伸びかけているが――それは宙で止まっていた。
無意識に動いていたのだろう。
とっさに動いていたのだろう。
すぐに手は引っ込んだが――。
ヌートリアレギオンは自らの手を不思議そうに、じっと眺めていた。
無論、注意力の塊ともいえる猫の目線はごまかせない。
大魔王ケトスが変貌するヌートリアレギオンを眺め、作った表情は――複雑そうな顔。苦みの混じった、ネコの微笑だった。
『キミは、誰だい?』
分かった上での問いかけだったのだろう。
ネズミの獣毛が、揺れる。
『僕は、ヌートリアレギオン。かつて楽園に棲んでいた神。聖父と呼ばれ、多くの人間世界を管理していた、正しき神。秩序を守る者。そして……息子を死なせてしまった……神。あの子を……手違いで、自らの子を……彼の兄を死なせてしまった神』
『本当にそうかい?』
『と、言われても――確かに僕は、ヌートリアレギオン。そして、そこに描かれている神……そのものだった筈なんだ』
呟く言葉に導かれ、大魔王ケトスの開いていた魔導書が揺れる。
そのタイトルの名は――『滅びし楽園の聖父』。
誰もいなくなってしまった、滅んだこの楽園を表しているかのような逸話魔導書だった。
大魔王ケトスが目を落とすページ。
その一節には、自らの失態で子を失い暴走する神の姿が描かれている。
魔導書は過去を記す魔道具。それは映像となって、動き出す。
◆◆◆
はじめは些細なきっかけだったのだろう。
ほんのわずかなボタンの掛け違いだったのだろう。
登場人物は三人。
父たる神とその二人の息子、兄弟神。
三人ともが、力ある神。
父たる神はある日、息子に罰を与える。下の息子、弟が掟を破り人間に魔術を授けてしまったのだ。
神の道具にされ、奴隷のように生きる人間に同情した結果だった。
父たる神は当然、激怒した。
父たる神の部下たちも当然、弟神の身勝手な行動を非難した。
のらりくらりと能天気な弟神はそれでも自分は間違っていなかったと主張し、あまり反省しなかった。事実、魔術を与えられるまでの人間は、本当の意味で神のいいなりだった。けれど、これからは違う。彼らは自立し生きていく。
それは悪い事ではないはずだと、弟神は反省しない。
それに、と――弟神は言った。
そもそも魔術を作り出したのは自分だと、神だけに恩恵があるのは公平ではないと。道具のように人間を捕まえ、その愛する飼い猫まで捕まえ――救いを懇願する魔猫の目の前で、人間を魔道具に改造するような神に対抗できないのは、哀れでならないと。
そう、弟神は静かに怒りを覚えていた。そして彼は魔術の祖。全ての始まりともいえる絶対的な輝きを放っていた神だった。神の中でも特別な存在、誰よりも何よりも強かったのだ。それこそ、父たる神よりも、強大な存在だった。
だからこそ、父たる神は激怒した。
弟神の危うさを感じていたのだ。
誰かがちゃんと導いてやらなければ、その力は危険だと思っていた。けれど同時に、父たる神は、最も強い存在であり魔術すらも生み出してしまった弟神に、畏怖を抱いていた。
父たる神は、自らの息子である弟神を追放した。
反省を促すためだった。
兄神は反対した。弟神を敬愛する、他の神たちも反対した。けれど、父たる神は聞き入れない。反省を覚えさせたその後で、楽園へと連れ戻そうと思っていたからである。
弟神は楽園を追放された。
そこまでは良かったのだ。計画通りだったのだ。
けれど、悲劇は起こってしまった。
最も力のある神、弟神がいない状況に秩序は失われていく。
弟神が追放されている間に、兄弟神を快く思っていなかった部下たちに兄神が殺されてしまったのである。
それは父たる神のあずかり知らぬところで起こった悲劇だった。
部外者の企てだった。
ともあれ息子を亡くした父たる神と、兄を亡くした弟神がそこに残された。
結果として――。
楽園は滅んだ。
兄を慕っていた弟神が兄を殺した楽園に絶望し、兄の復讐とばかりに楽園を滅ぼしてしまったのである。
魔術の祖ともいえる弟神の本気の怒りであり、悲しみであり、絶望だったのだろう。
絶望が絶念へと昇華し、本当に、なにもかもを諦めた末の結末だったのだろう。
楽園と共に、多くの神が死んだ。
聖父も死んだ。けれど神は神、簡単にその魂そのものは滅びない。
彼らの魂は彷徨い、次第に邪悪な力を身に付けていく。
息子を死なせてしまった過ちを認めることができず、道を踏み外してしまうのだ。
森も川も山も全てが……焦土と化した楽園、その滅んだ神々を引き連れて――その魂は様々な世界を渡り歩いた。長い旅路だったのか或いは短い道のりだったのか。それは神の基準であるがゆえに、判断はできない。
彼らは新しい器を探す。
魔力が詰まった、器を探す。
いくつもの世界を通り過ぎ、夜と朝を超えて――聖父たちは遠き青き星にて、一つの器を見つけた。それは外来種と蔑まれ、攻撃を受ける一匹の巨大なネズミ。
ヌートリア。
捕まったら殺される。仲間のように、殺される。そう怯え、逃げながら川を泳ぐ巨大鼠の、その毛穴に入り込んでいったのだ。
ヌートリアもそのまま殺されてしまうならと、異界の神々を受け入れた。
一匹の器に、無限ともいえる死した神が憑依した。
その時点で、既に破綻が起きていたのだろう。
彼らは曲がりなりにも聖なる神であったが、その神格は地に落ち、穢れていた。
醜いネズミへとなり果てていた。
ヌートリアレギオンは楽園の再興を目指し、蠢きだす。
あの日の失敗をやり直すため、蠢き続ける。
全ては、あの日へと帰るために――。
そうして、まだわずかな生き残りが存在していた楽園で、生存者が繰り広げていた遊戯盤を見つける。
それは傲慢な神々が作り出した、遊び。
願いを叶える魔道具。
人間の魂と一匹のネコの魂を加工され作られた、残酷な魔道具。弟神が人間たちに魔術を教えるきっかけとなった、悲劇の始まり。楽園崩壊のきっかけとなった、最初の一手。
願いを溜める魔猫の置物に、ヌートリアの影が近づいた――。
◆◆◆
そんな逸話が読み取れる挿絵の本。
魔導書には古い神々の歴史が映っていた。
書の出所は不明。しかしそれは異界魔術の際に使われる魔道具と類似していた。異界神の真実の情報が、なぜか正確に書き写されているとされる”赤き魔猫の魔女姫が作り出した魔導書”であると推測できる。
つまり――。
この楽園で過去に実際に遭った物語、神話なのだろう。
楽園の管理者たる神。
聖父クリストフ――ヌートリアレギオンの核となっている父たる神の物語。彼の魔導書の最終ページには、こう綴られている。
叶うならば――帰りたいのだ。
あの日、あの時、過ちを犯してしまったあの瞬間に――。
すまない、我が子らよ――本当に、すまない……。
と。
それが楽園崩壊の神話なのだろう。
そしてヌートリアレギオンの誕生だったのだろう。
大魔王ケトスは肉球で捲る神話を眺め……。
目の前の父たる神に言う。
『兄を殺された弟の絶望によって滅ぼされた楽園。その楽園を管理していた神。父たる神。子育ては……あまり上手じゃなかったのだろうね』
『そう、だったようだね』
『おや、やはり他人事のようだね――どうやら……キミの核の中心が入れ替わっているのかな』
神樹の木漏れ日の中。
闇に包まれて――淡々と言葉を発するネズミを見て、魔猫は赤い瞳を輝かせる。
『神話というモノは教訓を示した物語でもあるとされている。大抵の神々は自らが蒔いた原因のせいで、最終的に滅んでいるからね。人間が人間として自立し生きる上で、神々の存在が邪魔になるかもしれないが――キミたち古き神、楽園の物語もそうなのかもしれないね』
大魔王ケトスが滅んだ楽園、誰もいない神の世界を見渡し。
モフ毛を樹々の隙間から流れてくる風に靡かせ、ネズミに言う。
『キミたちはかつて、一柱の兄神を殺した。それはキミたちにとっては必要な一手、秩序を守るために避けられない選択だったのだろう、けれど、それが弟神の絶望を生んだ。秩序を守るため、世界を維持するため。楽園を少しでも長く繁栄させるために殺したのに……それがきっかけとなって楽園自体が滅んでしまったのなら――皮肉な話だね』
『そうだね。だから僕は……いや、彼らはあの日に帰りたいと願ったのだろう』
ヌートリアレギオンの口から漏れる声の色が、ますます穏やかになっていく。
まるで他人事のように、ヌートリアレギオンは黄色い歯を蠢かす。
『大魔王ケトス。異界の魔猫神。対局者よ、僕は君に聞きたい』
『なんだい、対局者』
『僕は、いったい。誰なんだい? 父たる神の記憶もある、そこに棲んでいた神々の記憶もある。楽園を取り戻したいという願望もある。けれど、違うんだ。僕は違う。今、こうして心の渦の中を上がって君に語りかけている僕は――いったい……』
漠然とした言葉が、醜いネズミの腹から押し出されて口から零れている。
顔の大きさに対して、小さな瞳も丸い耳も、揺れている。
蜘蛛の脚にも似た髯が、神樹から流れてくる穏やかな風に靡いている。
教師の顔で瞳を閉じ、大魔王ケトスが言う。
『ヌートリアレギオン。ルーラーレギオン。呼び方なんてどうでもいいね、だってキミは多くの魂の集合体なんだ。だからこそキミをキミとして定める個体名を、ワタシは知らない。けれど……キミを狂わせていた邪悪なる魂を駒として吐き捨てた時点で、キミには変化が起きたのだろう。そもそもそれはキミの作戦だったんだ、それは知っているだろう?』
狂神スコル。
その他、あの戦場にいた楽園の神々。その魂から作り出された駒のレプリカを握り。
肉球の中で遊ばせながら大魔王ケトスが言う。
『本来ならばキミは狂神たちを滅ぼさせ、理性を取り戻し冷静になるつもりだった。事実、多くの神を吸っているキミが暴走せずにまともに対局を続けていたら、どうなっていたかは分からない。最終的に四星獣ナウナウが所持者となったあの旅鼠の駒も、キミの側に行っていたかもしれない。けれど、そうはならなかった。何故だと思う?』
『それは……僕にも分からない』
『キミ、この世界を齧っていただろう? この世界そのものを、取り込もうとしていただろう? それは魔術理論にすれば、吸収属性の攻撃ともいえる。レギオンの群れの中に、この世界を巻き込もうとしていたと同義だ』
全てを見通す瞳で、大魔王ケトスが邪悪に嗤う。
『キミは、吸ってしまったんだろうね――この世界の魂を』
『魂を……?』
ネコとネズミは魔猫の置物の横、盤上世界に目をやった。
その世界の正体は――かつて、楽園の神によって作り替えられた魔猫のご主人様。
ならば、その世界を齧って魂を取り込んでいたとしたら――。
四星獣イエスタデイ=ワンス=モアの本体。
魔猫の置物はニャーと鳴く。
外来種であり、敵対者であるはずの大きなネズミを見て、ニャーと鳴く。
無機質に、ただ愛する者のそばに戻りたいと、願うように――。
ネズミの瞳が――揺らぐ。
逆立てていた獣毛を鎮め、穏やかな顔で――。
あぁ……そういうことか、と呟いていた。
ネコとネズミの神は、魔猫の置物の肉球の上で駒を操作し続ける。
盤上遊戯は終わらない。
勝利者が決まるまで、このゲームは蠢き続ける。




