第120話、旅鼠が見た夜明け【真樹の森】
【SIDE:リーダー・ストライプ】
ここは誰かの命が潰えた、終わりの森。
魔王と化した息子の心を知らずに、静かに永眠した眠りの森。
悲しみを包む森。
ここは静かな安寧の地。
誰も穢すことを許されない地。
終わりを求める旅鼠の終着点になる筈だった森。
神の恩寵を得て、人間の器を捨てた者たちの森。
真樹の森。
魔王が唯一愛した父親の眠る森。
殺戮令嬢がかつて愛した想い人が眠る森。
外道な手を使ってでも故郷のため――勝利を収めようとした男の恋人が、タンポポとなって佇む森。恋人となったタンポポだと知らずに、何もかも忘れ、ただタンポポを愛し続ける魔猫が見守る、眠れる森。
真樹の森は多くの心の中に存在する。
歴史の中にぽつりと佇む彼らのために、存在する。
行き場を失った者たちを包み込むように、ザワザワザワと鳴いている。
今もそうだった。
森の中にはネズミが一匹。
忘れた過去を思い出し、絶望を知った旅鼠が一匹。
リーダー・ストライプは考える。
これからどうすればいいのか、と。
その問いかけにタンポポは答えない。答えを知らないからだ。
その問いかけに守り神は応じない。彼の世界には黄色い草原しかないからだ。
けれどこの森で、復讐の火を燃やした令嬢は応じていた。
彼女は深く考え、言ったのだ。
しばし待て。
――と。
自分に考えと可能性があると、クローディアにそう告げられたリーダー・ストライプは、ただ静かに森の潮騒に耳を傾けていた。顔の大きさに対して小さく丸い耳を広げ、森の声を聴いていた。
膨れ上がった魔力と獣毛を抱えたまま、静かに大樹の根元で佇んでいたのだ。
旅鼠の脳裏を、思い出が襲う。
かつてこうして、誰かと森を歩いたことがあったからだ。
あれは迷宮だった。
森を基軸として発生した旧人類の遺跡だった。
まだ駆け出しだった頃。魔族だった頃のリーダー・ストライプの思い出だ。
四星獣イエスタデイ=ワンス=モアの書が、輝いている。リーダー・ストライプの記憶を、過去を、魂の中から引き出し輝いている。
あの時のリーダー・ストライプは怪我をしていた。
当時の彼は村一番のトレジャーハンターだった。優秀な存在だと自負していた。けれど、それは自惚れだった。田舎から出てきたばかりで、調子に乗っていたのだ。だから、失敗した。森に湧く旧人類の魔術師幽霊に、不意をつかれ、魔術の矢で足を射抜かれたのだ。
終わったと思った。
薬品もない。魔力もない。気力もない。
諦め、終わりを知る。初めての恐怖だった。最後に懐に隠してあった酒瓶に手を伸ばしたことは覚えている。
魔族は弱肉強食。仲間ならまだしも、冒険者同士で助け合う事は少なかった。だから、これで終わり。そう思っていた。
もうこれで死ぬ。
消えるのだ、そう思った。
けれど、そうはならなかった。
森の中で思い出の中の彼女と出会ったからだ。
自分の治療薬を探しに迷宮探索を続けているという、迷宮には不釣り合いな、少女趣味なロングスカートを装備したトレジャーハンターだった。けれど、とても強かった。
そして、とても優しかった。
魔族が他人を助けるなど、変わり者だと思った。
ミリー。
あの子の名。共に旅をして、冒険をした少女の名。
いつも頬を赤く染める彼女。それは病に侵された身が、いつも発熱していたから。それでも彼女は元気に前に向かって歩いていた。そんな彼女がいつも言うのだ。
あたしは弱いのよ? そりゃあ、あなたよりかは強いけれど。お姉ちゃんはね、もっと強いの。もっともっと強いの。あたしなんかより、ずっと、ずっと……きっと、いつかは魔王陛下の腹心になるんじゃないかって、家族は皆言ってるの。
あの時の自分は言った。
それでも、オレが好きなのは、お前だミリー。オレはお前の姉ちゃんなんて知らないし、興味だってねえ。だから、お前の方が好きだ。
だから、ずっと一緒に歩かないか?
そう、言った。まっすぐに、相手の気持ちも考えもせずに。
姉を好いている妹に向かって、失礼な言葉だったと今ならばわかる。
病に伏せ、将来に怯えている少女には残酷な言葉だったのではないか? 今となっては疑問に思う。
実際、彼女は少し呆れていた。けれど。
けれど……彼女は笑っていた。
もし、病が治ったら――その時は考えてあげるわと彼女は困った顔で笑ったのだ。
あの日、いっぱい笑っていたのだ。
魔導書が、鳴く。
バサササササっと、旅鼠の記憶を辿るようにページを揺らす。
醜いネズミの手が、思い出の中のキミを抱きしめようと伸びる。
ぎしりと、邪悪な手が何もない空を掻く。
身は既に穢れ、心も交じり、魂はもはや誰のモノなのかもわからない。けれど。
思い出だけは綺麗だった。
もう現実ではないけれど。いや、現実ではない、過ぎ去った日々だからこそ、綺麗なのだろう。今のキミは泣いてもいないし、笑ってもいない。もう二度と会えない――。
けれど、本当に懐かしかった。
それでも。
もはや。
あの日には。
もう二度と帰れない。
だからこそ、思い出は綺麗なのだ。
四星獣イエスタデイ=ワンス=モアの魔導書が、パタンと閉じる。
魔導書に浮かんでいた思い出の欠片、リーダー・ストライプがまだ魔族だった頃の思い出の数々。過ぎ去った日々を眺めていた令嬢クローディアが、言う。
『貴殿にも……愛する者がいたのだな――』
『ワカラナイ。もう。わからないのです。今はもう、ワタシがワタシかどうかも。モウ、わからないノデス。けれど、さきほどの景色は、とてもアタタカイのです。胸がギュっとスルノデス。魂が、ユレルのです。ワタシにはもう、ワカリマセン。けれど、ソレを愛というのナラバ、きっと――ワタシは、彼女を愛していたのデショウ』
『そうか……』
悲しみから彼らを守るように聳え立つ大樹の根元に、ネコとネズミとタンポポ。
そして疲れ切った令嬢が佇んでいた。
黄色いタンポポが寂しそうな彼らと寄り添うように、揺れている。
◇
動きがあったのは、半日ほど過ぎた頃。
旅鼠リーダー・ストライプは天を見上げた。
鬱蒼とした天を衝く真樹の樹々の隙間から、光を見た。
何かがキラキラキラキラと蠢いている。
贖罪を胸に現世を徘徊しつづける淑女、暗黒騎士クローディアが薄く口を開く。
『来たか――』
リーダー・ストライプはこちらに転移してくる光に気が付いた。
人間だ。
魔族の敵。しかし、今は違うらしい。獣毛がザワっとするが、クローディアが呼んだのならば攻撃するわけにはいかない。ただ、気になる。何をしに来た? 分からないので睨んでしまう。蜘蛛の足にも似た髯もやはり、ザワザワっと揺れる。
光が森を照らしていた。
鬱蒼とした闇を、その派手な登場で祓ったのだ。
人間は長身の、少し馬に空気が似た青年だった。
いや、人間ではない?
しかしリーダー・ストライプはレギオンの長。空気が読める集合体だった者。だから、何も言わずに彼らを眺めた。
来客も一瞬、ヌートリアであるリーダー・ストライプを警戒する眼で見ていたが――敵意がないと判断したのだろう。すぐに、殺気は隠されていく。
クローディアが馬面の男に事情を説明した。
旧知の仲なのか。
クローディアの態度は少し雑、ぶっきらぼうな説明だった。
◇
『――というわけだ。理解はできたか?』
「あぁん? んだよ、急ぎの召喚だっつーから飛んできたんですけど、介錯をしてくれだぁ!? ちょっと、そりゃあないんじゃないっすかねえ、クローディアさん。昔に世話になったあんたの頼みだから、オレも超特急。大地神の駒探しが難航してるこの糞忙しい中で、文字通り飛んで駆けてきたんすけど……?」
はぁ……と露骨に息を吐いた男。人間の器を捨てた人間を、リーダー・ストライプはじっと見る。
おそらくかなり高位の実力者だろう。称号に、ダンジョン完全踏破者が確認できる。神の恩寵のスキル、或いは技能スキル、種族スキル、何と呼んだらいいかリーダー・ストライプには把握できなかったが、ともあれ人知を超えた能力があることは確かだった。
微笑し、しかし悪びれる様子もなく暗黒騎士クローディアが言う。
『すまぬな、アキレスよ。なれど、不老不死を殺せる能力者は四星獣の方々以外には汝しか知らぬのでな。それに、お前が昔に言ったのだろう? 自分を頼れと。よもや、共にレイニザード帝国のダンジョン塔を踏破した、あの日々を忘れたとでもいうのか?』
「へいへい、あんたはいつだってそうっすよねえ……。なんだかんだで我が強くて、絶対に自分の意見を曲げないんすから」
『何か言ったか?』
「何も言ってませんって。しかし――あんたが傷一つ、つけられないヌートリア側の裏切り者……ねえ」
アキレスと呼ばれた男は筋肉の隆起した腕を組み、じぃぃぃぃぃっと正面からリーダー・ストライプを見つめ。
うん、と頷き。
「いや、おまえさんさあ。消える必要なんてねえんじゃねえの?」
『おまえは……話を聞いていなかったのか? この者はもう終わりたいと望んでいる、それを』
「いやいやいや。だって、まだそのなんだ、愛するミリーちゃんって子にも再会してねえんだろ? 今、世界はヌートリアに襲われて大混乱、そんだけ強いんなら今頃その子も戦地に駆り出されてるはず。苦戦してるかも知れねえだろ? 助けに行けばいいじゃねえか。なにを、うだうだうだうだ、男らしくねえなあ」
ポンポンと気さくにリーダー・ストライプの白い縦じまを軽く叩き。
わしゃわしゃわしゃ。
男はニカっと太陽なような笑みを浮かべ。
「よっしゃ! じゃあ一緒にそいつを探しに行こうじゃねえか!」
『いや、おい待て――アキレスよ。世界はお前が思っている程そう単純でも、明るくもないのだ……もし、このヌートリアが愛するその者に、その……化け物と否定されたら――深く傷つくだろう。そう考えたりはしないのか?』
「面倒ですし、考えてませんけど?」
言い切る男に、クローディアは息を吐き。
『おまえは……まったく、そういう所はいつまで経っても変わらぬな……。前向きなのは結構だ、人を導く光としての素質があることも認めよう。しかしだ、おまえのその明るさの押し付けは、あまり感心せぬ。真面目な話だ、今は過去という楔のおかげで汚染状態から解放されているが、また彼の駒が汚染されれば、手の付けられない強敵となろう。それをお前は理解して言っているのか?』
「そうなったらそうなった時に考えればいいんすよ」
なははははは!
と、人の話を聞かない英雄であるが。
その表情は少しシリアスに尖っていた。
「まあ、まじめな話を返すようで恐縮ですが、こちらもまじめな話です。今、魔王城が襲われていますからね。あそこには異聞禁書ネコヤナギ様が根付いていた時のログが多少残されています、ログはスキルや魔術修得に直結しますからね、あそこを奪われたら不味いんすよ。で、戦力になりそうな駒がいるなら全部を使っておしまいなさいと、あの羊の旦那が言ってるんで」
『魔王城が、か。なるほど……』
クローディアはしばし考え。
『リーダー・ストライプだったか。どちらにせよ、一時的に協力して貰えないだろうか。魔王城を守る助力をしてくれるのならば、お前が消えたいと願うその望みを叶えるためにわたしも尽力する。或いは、そのかつて愛した女性との再会を望むのならば、協力しよう。もっとも、まだ生きているかも分らぬし……再会できたとしても、おそらくは……』
ヌートリア化してしまった彼に、彼女は気づかない。
それでも、頼られることは嫌ではなかった。
孤独を忘れられるからだ。
しかし。
リーダー・ストライプは言う。
『ワタシはヌートリア。世界ノ敵。汚いケモノ。このとおりノ、ネズミです。コノ姿。このマリョク。おそらく、魔族ニモ人間ニモ敵と思われる。戦線を乱しては、逆効果デハ?』
「大丈夫だって、正体隠しには偉大なる先輩がいるからな。どーんと任せな!」
言って、アキレスと呼ばれた男は、ニヒィっと暗黒騎士クローディアに目をやり。
その身を包んでいた甲冑を、カンカンと叩いたのだった。
強引に話をすすめられたが、リーダー・ストライプは従った。
なぜだろうか。今は少し、寂しくない。
この男はとても眩しい。
光に満ちている。
かつて、彼女とあるいた、あのお日様の下のように。
だから、ネズミは用意された鎧を着こんだ。
魔力で覆われた暗黒鎧に、無理やりに魂をねじ込んでいく。眺めていたタンポポが、微笑むように身を揺らす。自然な香りが発生するようにネズミの香りを消してくれたのだ。
守り神は、タンポポの香りを放つ鎧だからだろう、その漆黒に祝福の肉球を翳す。
ネズミとネコとタンポポの共同作業。
人間を捨てた者。
魔族を捨てた者。
寿命を捨てた者。
不老不死の駒達は、それぞれに動き出す。
リーダー・ストライプは少しうれしくなった。
ひとりぼっちではないからだ。
だから、少しだけ協力してもいい。今は、彼らを信じようとそう思った。




