第116話、《汚染》―消せぬ記憶―【魔王領】
【SIDE:ヌートリア捜索部隊】
ここは至る所で駒と駒のぶつかり合いが発生している魔王領。
世界の八割にあたる場所。
その広大な領地と肥沃な大地は普通に暮らしている分には有利に働くが……。あまりにも広いエリアにヌートリア汚染された駒が発生するせいで、魔王領は日々、広い範囲での索敵を強いられ苦戦していた。
多くの魔族が戦っている。
草むらの中。ダンジョンの闇の中。夜の影の中。
無限に増え続けるヌートリアと死闘を繰り広げている。
かつて人間の衰退とともに消えた大地神を蘇生させるため、周囲の土地の支配権を奪い合っているのだ。
そんな世界の所有権を賭けた戦いを、ヌートリア側から眺める者がいた。
彼に個体名はない。
ヌートリアだからだ。
彼に人格はない。
ヌートリアだからだ。
ただかつて魔族の駒だった頃はそれなりに強い冒険者だったらしく、他のヌートリアよりもレベルが高い。その高レベル故に、群れのリーダーを任されている巨大鼠である。
だが群れリーダーとしての便宜上、彼にだけは呼び名があった。
理知的なヌートリアの頭に――トサカのように縦じまの毛並みがあるから、ストライプと呼ばれているのだ。それが個体名かどうかヌートリアは考えるが、分からない。人格はない筈なのに、今こうしてストライプとは個体名なのか、それを考える今この瞬間の思考こそが人格ではないか? 考えるが分からない。
しかし、分かることが一つだけあった。
リーダー・ストライプは戦場を眺め、蠢く鼻の奥をわずかに揺らしていたのだ。
――この地には、見覚えがある。
と。
それもその筈だ。
ストライプはかつて魔族の駒だった。けれど外来種に殺され、輪廻の輪に戻る前に駒を汚染され――外来種の駒として利用され続けていた。もう何度蘇っただろう。汚染された駒は、不死殺しの能力者か、或いは強力な異界魔術による攻撃、神の力を宿した恩寵を有した特殊駒の攻撃でしか破壊されない。
またしばらく経つと蘇り、ヌートリアとして覚醒する。
――ここは、知っている。知っているという事は、自分は、知っているという事だ。知っているという事は、これは個性ではないだろうか。個性があるという事は、人格があるという事ではないだろうか。人格があるという事は……。
自問自答の毎日を送っている。
リーダー・ストライプは自らの腕を見た。
そこにあるのは剣を握っていた腕ではない。所々が筋張った、邪悪な爪を宿すネズミの手。
尻にはねらねらとした長い尾が、まるでネコを狙う蛇のようにしなっている。
匂いを嗅ぎ分ける鼻が揺れる。
リーダー・ストライプは泥水に反射する自らの姿を見た。巨大鼠だ。
ヌートリアだ。
魔族の敵だ。
けれど――。
リーダー・ストライプは風に揺れる草原の中で肥沃な大地を振り返る。
ここは知っている土地だ。
本当に、いいのか?
駒に生じた自我にリーダー・ストライプの思考が乱れる。頭痛がする。脳を弄る気持ち悪い感覚が、全身を伝う。猫を滅ぼせ、大地を奪え。大地神を蘇生させてはならぬ。むしろ逆に奪い取れ、四星獣とは在り方が異なる原生の神ならば――我らの力にできる。
脳裏にくぐもった神の声が響く。
さあ、いけ。
リーダー・ストライプ。
全てをヌートリアに染めよ、産めよ増やせよ、我らが栄光のため。貴様たちは意思無き奴隷。物言わぬ人形。愛しいあの地。愛しい、あの世界。愛しい、日々。愛しい、あの世界。ああ、そうだ。あの日の楽園を取り戻すための駒なのだから。
瞳が赤くなっていく。
意思が消えていく。
リーダー・ストライプは草原を駆ける。
敵を喰らい、仲間を増やし、楽園を取り戻すための神兵としての役目を果たすため。
風のにおいがする。
川のにおいがする。
迷宮に突入する。
『キキキキキィィィィ、キキ、キキ? キキィィィ!』
大地神はこの迷宮の奥。
原生神の駒は最奥に眠っている。
リーダー・ストライプはこの迷宮を知っていた。かつて魔族だった頃、誰かと一緒に訪れていた。ゴーストとなった滅んだ旧人類の亡霊、迷宮の魔物に一斉に襲い掛かる。
迷宮に、赤い蛍の群れが広がる。
それはまるで赤く染まった銀河。
悍ましき集合体。ネズミのレギオンと化したリーダー・ストライプが群れを操作し、魔力漲る赤い瞳を輝かせたのだ。
カカカカカカカカ!
赤。赤。赤。ただただおぞましい赤色が、まるで海のように広がっていく。
赤。赤。赤。赤。赤。赤。赤。赤。赤。
赤。赤。赤。赤。赤。赤。赤。赤。赤。
赤。赤。赤。赤。赤。赤。赤。赤。赤。
▽リーダー・ストライプは《強欲ネズミの災禍》を発動!
それはヌートリアによる儀式魔術。
強欲なる女神、外なる異神リールラケーの力を借り受けた異界魔術。
効果は――その強欲さで、スキルも魔術も装備も、魂さえも奪ってしまう強奪系の魔術。
判定は、成功。
旧人類が魔物化した存在、迷宮の亡霊たちが消滅していく。
リーダー・ストライプは考える。
迷宮の魔物は滅んだ旧人類の亡霊がメイン。これは我らには不利。亡霊系は汚染ができぬ。
ここがヴェルザの通常魔物駒なら汚染ができた、だが、これは無理。
しかし、無理ならば無理で進むしかない。
出現した宝箱にリーダー・ストライプは鑑定の魔術を発動させる。
この中に、大地神の駒が入っているかもしれない。
だから鑑定の魔術を使い、鍵の種類と罠の種類を確かめただけ。
それなのに。
駒部分を汚染されたリーダー・ストライプは思い出す。
かつてこうして。
自分は、誰かと……迷宮に籠り。
誰と?
キミと。
そう、キミとだ。
ミリー。会いたいよ、ミリー。
ミリー? 誰だ。それは。
分からない。
けれど、名前だけは思い浮かぶ。
姿も、浮かんできた。
少し少女趣味の服が好きで。少し病弱で。姉のことを嫌いと言っておきながら、本当は好きで、いつも心配していて。素直じゃないところが、かわいくて。眼が離せなくなった。
そうだ。だから彼女の病を治そうと、あの日、迷宮に入って。
キミが心から笑ってくれる、そんな未来を夢見てドググ=ラググが生み出したエリクシールを探していた。
キミと、ずっと……。
ずっと。
リーダー・ストライプは腕を伸ばした。
それは醜いネズミの腕。
伸ばした先には、誰もいない。
『キキ?』
記憶の片隅で微笑んでいた女性は幻となって、消えていた。
掴もうとしても、そこにはいなかった。
自分はいったい何を忘れているのだろう。
何を大事にしていたのだろう。
『キキキキキィ?』
リーダー・ストライプは鼠となった尾を揺らす。
赤い瞳も、揺らしていた。
なぜだろうか。
獣毛はまるで涙をこぼしたように、濡れていた。




