第106話、異世界の邪神猫【ダンジョン上層】
【SIDE:盤上世界冒険者】
ダンジョン上層の休憩地点。
フロアとフロアの間の、安全地帯にて――仲間の一人、ニャイ神父を前にしてアヌビス族の魔族、ビスス=アビススは黒い鼻先を照りつかせていた。
魔力照明を反射しているのだが――。
胸の谷間をむっちりとアピールさせる女魔族ロロナが、頬についた魔物の返り血を拭いながら言う。
「なぁに? ワンコちゃん。この人ってぇ、アレでしょう~? 四星獣イエスタデイ=ワンス=モアが送り込んできている分霊……みたいな? そんな感じだって――ねえ?」
「無責任魔族のロロナお嬢ちゃんに同意するわけじゃねえが。いまさら何言ってやがるんだアヌビスさんよぉ」
ロロナとアキレスの言葉にビスス=アビススは頷かない。
ただ神父の飄々とした翳ある美貌を睨んだまま、ジャッカルの耳と鼻を揺らしている。
「オレが十八年前に出会ったあの神様と、あんたは少し空気が違う」
『ふむ。そう言われてもねえ、なにしろ分霊っていうのは魂の一部に魔力を浸透させ、駒に憑依させた状態にある。多少の違いが出ても仕方ないと思うのだけれど』
人間の英雄アキレスも四星獣イエスタデイだと信じ切っているのだろう。なにを言っているのかと、頭の後ろを大きな手で掻きながらジト目であるが――。
そもそも四星獣と出会ったことのないスピカ=コーラルスターは懐疑的な顔で。
「あの、すみません。自分も気になっているのですが――あの、神父さん。あなた……本当に、四星獣の方なのですか?」
「おいおい、スピカお嬢ちゃんまでなにいってやがるんだよ。正体が白い猫で、神みたいな強さで、この偏屈な性格。あの神様しかねえだろう。オレは観察眼には優れている、つーか、一種のスキルみたいなもんなんだ。さっきもいったが確率操作もできるから、百発百中なんだよ。で、オレの目には、ちゃんと神父の姿の神々しい白猫が見えている――疑いようもねえぞ?」
強者故のスキルへの信頼。
その驕りともいえる状況にピンと来たのか、神父の正体を四星獣だと思っていたはずの猛将マイアも眉を顰め始めていた。
「いや待てアキレス殿」
「はぁ? あんたまで言うのか? 知ってるだろう、この魔力の質も性格も――」
「分かっている。わたしもこの神父については四星獣イエスタデイ=ワンス=モア本人、または分霊であると判断している。出会ったときのスキルによる鑑定にも、ログにもそう表示されている」
「だったら」
「まあ待て。自分で言うのもなんだが、わたしはその……恥ずかしいことに、それなりに勘が外れる方でな。この方を完全にイエスタデイ様だと信じ切っている、それが引っかかるのだ」
アキレスは英雄顔の鼻梁に、ジワっとした呆れの影を浮かべ。
「つまり……あんたの勘は外れやすいから……」
「ああ。その通りだ、つまりその逆という可能性はかなり高いかもしれぬ。それに、ビスス=アビススはこう見えて魔王軍でも優秀な男でな。鼻が利くし目も鋭い。わたしはわたしの目を信用していないが、部下は信用しているつもりだ」
外れる勘ならば、その逆をつけばいい。
なんとも情けない話かもしれないが――アキレスは臨時とはいえ共に戦ってきた彼女の言葉に耳を傾けていた。
スピカ=コーラルスターが言う。
「提案です。同じパーティに入っている仲間同士なら鑑定が強制的に成功するはずです。それで白黒はっきりさせるというのはどうでしょうか。ニャイ神父さんには申し訳ないのですが――、疑われたまま、疑ったままというのもお互いに困るでしょうし」
「スピカちゃんにロロナも賛成~。さすがあたしのお友達ね♪」
「スピカ嬢ちゃんがあんたを友達と思っているかどうかは別だが、そりゃまあ、そうか――なあニャイ神父さんとやら。悪いが、再鑑定させてもらうぜ」
この中で一番すばやいアキレスが鑑定アイテムを取り出した――その時。
ログに表示されたのは、パーティ離脱のメッセージ。
このタイミングで自主的に仲間から外れたのである。
それはすなわち――。
『困ったね、味方という事に嘘はないのだけれど――それだけじゃあ駄目かい?』
四星獣の分霊ではない証拠。
全員が臨戦態勢に入っていた。
ビスス=アビススは事前に魔導石板に様々な文字を溜めていたのだろう。追加の魔物が安全地帯に入ってこないよう、前後通路に結界を展開している。
『おや、意外に冷静だね。判断も早い。魔物への牽制と、ワタシが逃げられないように道を塞いだ――か。キミの評価を一段階上げてもいいかな』
「ちょっとぉ! あんた! マジであの白ネコちゃんじゃないってこと!?」
『まあ白猫であることはあっているよ。神であることもそうだ。けれど、ワタシは一度でもキミたちに言ったかな? 四星獣イエスタデイ=ワンス=モアの分霊ですって――言っていないと思ったけれど、どうだい?』
真実を語らず、けれど嘘も語らず。あくまでも勝手に誤解したのはそちらだと、言いたげだった。
さて、どうしたものかとニャイ神父は考え、慇懃に肩を竦めて見せていた。
その表情はまるで悪戯をするネコそのもの。
けれど――。
空気が変わっていた。
魔力の渦が、神父の足元から浮かび始めている。
『まあいいか。そうだね、ワタシも窮屈な人間の姿でいるのにも飽きていたし、いつもの姿に戻るとするよ』
その身も体も縮んでいき。
猫耳としっぽが、ぶわぶわっと膨らみだす。
そこには白くてふわふわな、綿あめのようなモコモコ魔猫が一匹。
闇の渦の上、深淵の泉の上に座るように、魔力の上に佇んでいた。
ネコ。
である。
ただし、ただのネコとは到底思えないほどの、圧倒的なプレッシャーをその身に纏っている。
顔がボヤけてよく見えない。それは、まるで貌無き猫。
《無貌の邪神猫》。
たしかにそこに猫の顔がある筈なのに、真っ黒で煤けて、ブレて見えるのだ。
白い猫の黒い表情。
その口だけが、アルカイックスマイルを浮かべている。
理解しようとしても理解できない闇の猫が、そこで微笑んでいるのだ。
盤上世界。遊戯盤という性質が自動で判定を繰り返しだす。ダイス判定が何度も繰り返される。それを理解しようとして、成否判定を繰り返し続けている。
理解してはいけないはずなのに――。
ぞくり。
この中で一番弱い、種族や恩寵という意味ではただの人間に過ぎないスピカは正気度を奪われているのだろう。少女は思わず声を震わせていた。
「な、に……っ。なんなんですか、この魔力っ」
「スピカ嬢? いけない――ビスス=アビスス! 精神防御結界を!」
「今やっています……――っ」
アキレスは空気を変えて、威圧するように腹の奥から声を押し出していた。
「てめえは、誰だ。どこのどいつか、今すぐ名乗りな――」
『ほう、怯まず我が名を問うか、脆弱なる人間の英雄よ』
表情の読めない魔猫は、邪悪な面相とは裏腹。
掲げた肉球をペカーっと輝かせ、クハハハハハハ!
深淵の底からチャポンと玉座を召喚。
尋常ならざる黒い靄で周囲を覆い包み――ニヒィ!
黒々とした無貌の下から、薄らと、赤い瞳だけをギラリと輝かせる。
『クハハハハ、クハハハハハハ! 篤と見るがよい、盤上世界の民よ――! だが、今はちょっと準備をするからして、しばし待て。待つのがマナー、エチケットであると心得よ、良いな? よもや、かわいいネコちゃんの準備を待てぬ愚か者は、おるまいな?』
「あ……ああ、もう。なんでもいいから早くしてくれ」
『うむ、良い心がけだ――』
シリアスを崩され、ジト目のアキレスが唸る中、魔猫は頷き。
よいしょ♪ よいしょ♪
優雅とはいいがたい少々大きなおしりを持ち上げ、後ろ足の肉球を覗かせながら玉座によじ登り。
どでんと玉座に座ってみせ、亜空間に顔を突っ込み。
ファサファサな尻尾を振り振り。
『ふむ、どこにしまったかのう……大魔帝のヤツからお出かけセットを受け取っていたはずなのだが……。おう、あったあった。これだこれだ!』
紅蓮色に燃え上がるマントと、太陽の如き輝きを放つ王冠、そして禍々しい猫目石が嵌め込まれた魔杖を取り出し。
ドヤ顔をしながら装備!
輝く王冠のおかげで、その無貌だった部分にちゃんとした表情が浮かんでいた。
振り返った魔猫は――ニヒィ!
『クハハハハ、クハハハハハハ! 篤と見るがよい、盤上世界の民よ――!』
「……そこからやり直すのかよ」
突っ込むアキレスの言葉を軽くスルーし、魔猫は邪悪に毛並みをぶわぶわ!
ビシ! ズバっとポーズを取り!
『我はケトス、大魔王ケトス――! 汝らが異界魔術にて接続する世界の、大邪神なり! 鯨の如き憎悪の魔力を蓄えしケモノ。この世界においての魔猫の王、創造神といって過言では無き四星獣イエスタデイ=ワンス=モアとは異なる、異世界の魔猫王である』
精悍な英雄顔に汗を浮かべ、アキレスが唸る。
「あの猫様とは異なる、異世界の魔猫王……だと?」
『その通りだ、英雄駒よ。ふむ、まともに我と会話できるレベルにあるのはそなただけのようだが――まあよい。我こそが偉大なる魔猫。盤上世界の外では、主神クラスの存在として多くの魂に畏れられている獣神が一柱。ああ、もう少し分かりやすく語ろうか。汝らは我をこう形容するであろうな、すなわち――外来種と』
外来種。
その言葉を聞いた瞬間、ビスス=アビススは動いていた。
蛮勇であった。
しかし、冷静な彼がこんな大胆な行動をとるのには裏があった。
この十八年間、魔王領は外来種に常に襲われ続けていた。奴らの目的は、魔王陛下の魔力を奪う事。こんな悍ましい存在が魔王陛下を狙ったとしたら――。
油断している今しかない。家臣として、迷わず判断したのだろう。
ピラミッド型の結界を魔導石板から放射――続いて阿吽の呼吸とばかりに女魔族ロロナが華麗にステップを踏み。拳に異界魔術による氷と風の魔力を纏わせ――。
《氷雪に唸るイタクァの風》を発動!
「悪いけれどぉ、ちょっと――関節を外させてもらうわ!」
「わ、我が名はスピカ! 我が射手は戦塵の礫。我が魔力は影を縛る孤高なる矢なり!」
ロロナの関節を狙った鉄拳による氷結風圧攻撃と同時に、スピカ=コーラルスターの放ったスキル《影縛りの礫矢》が魔猫を襲う。
ピラミッド結界に封じ込められ、その上から遠距離攻撃される魔猫に逃げ場などなかった。
魔力の風に吹かれたモフ毛が、ぶわぶわっと膨らんでいる。
だが――。
『つまらん子供騙しを――』
魔猫はすべての攻撃の直撃を受けても澄ましたまま。
無傷。
全ての攻撃をレジスト――クワァァァァァっと大きなあくび、クッチャクッチャと口元を蠢かし。
『ぬるい。修行が足りぬ。レベルが足りぬ。まさかその程度の魔術でワタシを捕縛するつもりだった!? にゃどとつまらぬことを言うわけではあるまいな?』
圧倒的なレベル差を前に、彼らは言葉を失っていた。
既に敵対行動をとってしまったせいだろう、魔導地図に魔物名が表示され始める。
種族:猫魔獣(大邪神)。
個体名:憎悪の魔性、大魔王ケトス。
――と。




