年越し
「改めまして。新年、あけましておめでとうございます」
「もう二日ぐらい過ぎてるけどな」
「余計なことを言わなくていいんだ俊介」
俊介が退院し、俺の体もすっかり良くなってきた頃。氷点下の雫が夜に紛れて降り注ぐ世界で、体の芯から温まる気を放つこたつを囲む。
カレンダーは既にめくられ、風情や新しい時代をいつくしむ情緒は感じられない。しかし、長い一年から見ればたったの二日すぎただけだ。365日の二日ぐらい、何だかんだと言うべきではない。
「……というか、何で来てんのお前?」
「面白そうだからですねぇ」
俊介が、対面でニコニコと不気味な笑顔を浮かべる白鳥を一瞥してから言った。俺は呼んでいないし、呼ぶ気もないし、そもそも今本人が答えを言った。
追い出すのも忍びないと思っていたが、この調子だと二人揃って暴れだしそうだな……と思っていると、クロモがさっと立ち上がった。
「ソバアレルギーの方はいますか?」
「いや、いないよ。用意するなら俺も手伝う」
クロモが立ち上がったのを皮切りに、俺も外気に体を晒す覚悟を決める。体を起こした瞬間、ビシッと体が凍りつきそうなほどに冷たい風が服の中にまい込んだ。
彼女のあとを追って台所の中に入る。リビングと台所がふきぬけになっているので、俊介と白鳥の声が風にのってかすかに聞こえてきた。
「……何で先輩、私がソバアレルギーじゃないって知ってるんでしょうねぇ」
「反応から察しただけだろ。俺と優人は去年も食ったし」
「ふーん……。そういえば先輩、さっきからコタツの中で足当ててきてるのわざとっすか?」
「死ね。狭いからだよ」
取っ組み合いとかにならないといいけど。そうなったら確実に俊介が負けるだろうし。
リビングの方を不安げに眺めていると、クロモに右ひじで軽く小突かれた。黒い髪の隙間から、透き通るようなこげ茶色の瞳でじとっと睨まれる。
頭を下げて謝ると、ぷいっと少し唇を尖らせたままそっぽを向かれてしまった。どうしようか困っていると、足元に何かが当たる。視線を下げると、クロモの右足がぴったりと足にくっついていた。
「……クロモ、俺、手伝うって言っちゃったけど、そばの作り方知らない……」
「そこで立っててください」
クロモは包丁を持って、ソバの上にのせるためのネギを細かく刻んでいる。包丁を使っている時に人に立たれていると邪魔で仕方ない気がするが、彼女は右足を当てるどころか、太ももまで皮フを撫でるように当ててくる。
もどかしいというか、くすぐったいというか。どうすればいいのか分からない。
「……あー……調味料、買わないと」
気持ちを入れ替えるために出した言葉だったが、すぐに失言だったと気づく。クロモが居なくなった時、正確には攫われた時、家の中はひどく荒らされていた。家具などは別の部屋のモノで代替しているが、調味料などの消耗品はいまだ補充することができていない。
クロモは一瞬だけ手を止めたが、すぐにトントントンとリズムよく音を鳴らし始めた。それから、かききえそうな声で呟く。
「気にしないでください。……別に、何とも思ってませんから」
「……何、とも……」
クロモが、刻んでいたネギを湯気だつソバの上に乗せる。緑のアクセントが加わった一本のてんぷら入りのソバは、空腹とも相まって黄金の財宝のように見えた。
何も言うことが出来なかった俺は、黙ったままそばの器を二つ持ち、リビングの方に運んだ。あたたかな白い湯気が部屋の空気をほわっと覆う。
「おっ、ありがとな優人」
「お前の前に置いたわけじゃないんだけど……まあいいか」
「てんぷらですかぁ? おいしそうですねぇ」
「ええ。何の工夫もできていませんので、オーソドックスな物ですが……」
クロモが手を合わせて「いただきます」と言ったのと同時に、俊介が右手だけをピンと立てて適当にあいさつをすませてから食べ始める。白鳥は何もせずにそそくさと食べ始めようとしたので、俊介が脳天からごつっと拳を入れた。
「いったぁっ!? 何するんですか?!」
「簡単でも適当でもいいから、最低限手を合わせていただきますぐらいはしろ」
「げーっ。先輩だって右手出してただけじゃないですかぁ」
「俺は左腕が動かしにくいから仕方ないんだよ。ちゃんとやってから食え」
白鳥がしぶしぶと両手を合わせ、少し生意気げに「いただきます」と言った。俊介もそれを見届けてから、再び箸を持って食べ始める。
クロモは慣れた手つきで、ゾボボと少しだけ音を鳴らしながら髪をかきあげて食べていた。体があったまってきているのか、どことなしに頬が薄くピンク色になっている。
俺も食べ始めようと手を合わせた瞬間、家の中にピンポーン!とチャイムの電子音が鳴りひびいた。俊介と俺がバッと玄関の方を向く。数秒ほどそうして固まっていたが、特に何かする様子もない。
……目を閉じてよくよく耳を済ませると、気分が良さそうな足踏みの音と共に、鼻歌が聞こえてきた。それに加えて、近所迷惑の『き』も感じさせないほどにチャイムを連打している。
「あ~……俺が出るわ」
立ち上がり、リビングから廊下に出るための扉を開ける。フローリングの床を歩き、頭を左手でかきながら玄関の鍵を開けた。
「いやぁ~! 新潟に行ってたら他の場所にも寄りたくなっちゃって! ごめんね!!」
「……そう。どこ行ってたか知んないけどね、今冬だよ。母さん」
約一ヶ月ぶりに見る母親の姿は、まるでガングロギャルの様に日焼けしていた。




