一人ぼっち
『お前の……ポスト』
喉からやっとの思いでそう搾り出し、携帯を持った手を地面に落とす。親指だけを動かして通話を切り、空を見上げる。
木々の枝で作られた小さな額縁は、その中に写す空の暗さをよく引き立てていた。頬に冷たい水滴がポツポツと落ちるが、それとは裏腹に、腹の傷がやけに熱い。
「……はぁ……」
人間、ここまで来ると溜息しか出ないのだと初めて知った。
あのヤクザの事務所からは、まあ無事に逃げ出すことは出来た。
腹から背中にかけて小指程度の穴がぽっかりと空いているが、救急車を呼ぶほどの時間も暇もなく。逃げるために山の中へ入ったはいいものの、今自分がどこにいるかすら分からなくなってしまった。
将棋で言う王手、チェスで言うチェックメイト、人生で言う死。そんな物が近づいてくるのがわかる。
近くの大木にもたれかかりながら、ぼんやりとした視界の中で空を眺め続けた。
「……」
何度か、手の中にある携帯から着信音が響いた。しかし、もうそれに出る気力もない。
雨の音、携帯の音、何かわからない音が混じり合う。鼻にツンと来るようなむせ返る匂いに、水溜りを踏んで走るタイヤの音。
近くに道路があって、車でも走っているのか。なら……
「ぐっ……」
腹の傷が、熱した鉄の棒でかき回されているように熱い。そして痛い。
それでも諦めずに、腕の力だけで草をかきわけ、木の根っこを掴み、土を掘り、車の音がする方向へ這い進む。
別に俺が死んだって悲しむのは、まあせいぜい親ぐらいだろう。恐らく、学校の奴らは葬式にすら来ない。それでも、こんな山奥で一人寂しく死ぬって言うのは絶対に嫌だ。
せめて死ぬなら、もうちょっと人の世界が感じられる場所で死にたい。
ぼやけた視界に、白いものがパッと映る。右の中指の腹で軽く触れると、雨で塗れていて、冷えた金属が低くなった体温を更に奪う。ガードレールだ。
右手の中指と人差し指の骨で無理やりガードレールを掴み、鉛の様に重い体を持ち上げる。……ここ最近ずっと動いていたせいか、すっかり痩せてしまったようだ。
ガードレールの向こう側に倒れこむと、更に雨が激しくなり始めた。山の天気は変わりやすいというが、ここまで俺に厳しいものなのか。膝をゆっくりと縮こまらせ、体の中の体温を必死で保つ。
傷が熱いのに、体は寒い。歯は勝手にガチガチと音を鳴らすし、爪は紫一色だ。
こんな寒い日には、こたつに入って鍋でも食って、ゲームでもしたかった。
そういえば、もうすぐ正月だったな。来年は受験だし、初詣で合格祈願でも買っておいた方が……いや、まだ気が早いか。
「……死にたくないなぁ」
どんなに諦めてても、やはり死にたくはない。せめて人が感じられる場所で死にたいとは言ったが、結局は誰かが助けにきてくれるのを期待して待っているだけなのだ。
しかし、こんな街灯もマトモに通ってないような山に、雨が降る中来る奴はいないだろう。
唯一の頼みの優人は……あの女子、夜桜クロモとかいう奴の方に行っている筈だ。他に俺の身を案じて来てくれそうなのは……いない。家を空けることが多いから、親も不審に思わない。
アスファルトの道路を枕にし、雨で濡れた衣服を布団代わりに、道端で体を縮こまらせる。現実で俺の体に起きていることなのに、どこか非現実的だ。確実に死ぬ状況なのに、頭の片隅では俺はまだ死なないという謎の自信が湧き上がって来る。
ガードレールの向こうから、いつの間にか落としていた俺の携帯の着信音が聞こえる。
誰だろうか。
優人か? 親か? それとも……
瞬間。頬に当たっていた雨粒がピタリと止まった。その代わりに、パシャパシャとビニール傘に雨粒が当たる音が耳に入ってくる。
誰だ? 誰だ?
紫色の唇を動かして問おうとするが、声が出ない。
逆光になっているせいか、顔もよく見えない。
ただ、少し、女性が使うシャンプーのいい匂いがする。
そう感じた瞬間に、ストンと、崖から落ちるように意識を手放した。




