ぶっ飛んでる
「いや……はい? 今もご存命……?」
「ええ」
壁に掛けられた時計の秒針だけが、静かに空気を揺らめかせる。チクタクと短く刻まれるリズムの度に頭の中を必死に整理する。ナースセンターに置いていた資料が間違っていたとは考えにくいし、俺が普通に間違えた……?いやいや……
悩んで悩んで考えた結果。行き着いたのが、この人大丈夫か?
「昨日から探していらっしゃいますけど、用事でもあるんですか?」
「ああ、いや、別に明確な用事があるって訳じゃ……」
この人は何か常人には見えないものでも見ているのだろうか。肌も恐ろしく白いし、艶の消えかかった長い黒髪と相まって、どこか病人や幽霊といった暗い感じがする。
司書さんが肩に掛かった髪を右手で後ろに回しながら、落ち着いた口調で話す。
「もしよろしければ、伝言等を……」
「いや、大丈夫です。ありがとうございます」
変人、奇人、やばい奴には関わらないに限る。口に出せば大喧嘩まっしぐらだが、心の中でならば叫んだって問題ないのだ。
そそくさとその場をすぐに立ち去ろうとした瞬間。頭に蜘蛛の糸の様に細い、白い一筋の閃きが走った。
が、やっぱり気のせいだったような気もする。俺は今何に引っかかったんだ? 足を止め、不審げに眉を潜める司書さんの方に顔を向ける。
いくら大人の女性とは言え、男の高校生の俺よりは身長は小さい。肌もすごく白い。今はあまり艶のない黒髪だが、昔は宝石みたいだったのだろうと感じ取れる。
「……」
何だろうな。何か引っかかるんだよなぁ。進み方がわからないアクションゲームくらいもやもやする。
司書さんが視線に耐えかねたのか、少しだけ顔を逸らす。そりゃそうだ。
「……あの。そんなにジロジロ見られますと……」
「ます?」
うーん。
ます……ます……ですます……。敬語。白い肌。黒髪。小柄な体。……んん?
記憶の中のクロモの顔と、目の前の司書さんの顔を何と無しに照らし合わせてみる。ついでに、イメージではあるが、司書さんの体に学生服をサーッと当ててみる。
「ほ……」
「ほ?」
「本物ですか?」
「はい?」
頭の中が真っ白になる。白い絵の具なんて幼稚な物ではなく、まるで世界が爆発した瞬間のフラッシュの様に真っ白になる。もしこの脳内の状態をキャンバスに写せたら、『完全な白』とかで百万円は堅いだろう。
「えっ。百万……じゃない。えっと……間違ってたら本当に申し訳ないんですが、その……もしかして、夜桜クロモさんのお母さんですか?」
変人奇人やばい奴はどうやら俺だったらしい。
明らかに引いてるだろ、司書さん。めっちゃ目見開いてるよ、そりゃそうだよ。
「何でその名前を知ってるの?」
突然。司書さんが、背筋が凍りつきそうなほど低く重い声を出す。今までの緩い目つきからは一変し、磨かれた刃物の様に鋭く光る視線を向けてくる。
「それは、色々とありまして」
「さっさと答えろ」
「はい。
腕を折ったら迫られて好きになりました」
司書さんが意味が分からないといった風に眉間にしわを寄せて首を傾げる。彼女が再び何かを言い出そうと口を開いた瞬間に、足を一歩前に出して言葉を止める。
「すみません。その質問をしてくるってことは……つまり」
そう問いかけると、司書さんはイラつきと焦りがバレた様な、少し右の口角を上げて歯を露出させながら言った。
「ま、その通り。まさかこんなしょうもないことでボロが出るとは思わなかったけどさ。
あんたの望み通り、元夜桜千秋で、元あの子の母親。今は独身で島原茜……こっちはどうでもいいけどね」
やった! 俺は奇人じゃなかった! ……じゃない。
俺が司書さんだと思っていた人は、クロモの母親だったようだ。今でもあまり信じられないが。漂う雰囲気と言うか、匂いと言うか、先ほどとは完璧に別人だ。
「ちょっと待って下さい。元々が夜桜千秋で、今が島原茜……? 下の名前まで結婚して変わるものなんですか?」
「あー……少ししか言えないけどね。どこぞのクソ男から身を隠すために顔に棒を入れてわざわざ元の自分を死んだことにして名前まで変えなくちゃいけなかったりしたのよ」
全部言ってるような……。
司書さんが近くの椅子を引っ張り出し、足を組んで勢いよく座る。そして細くした目でこちらを眺めながら、再び低い声で話し始めた。
「で、さっきの。腕を折ったら迫られて好きになった……ってどういう意味? 私は頭のお堅い学者様の論文を読んでる気分になったんだけど。少し笑える奴ね」
「そうですね、ちょうど一ヶ月前ごろに……」
「ストップ。こっちが素で話してるんだから、そっちも余計な敬語はしなくていいよ。フェアってやちゅっ……アハハハ! 嚙んじゃった、嚙んじゃった!」
この人麻薬でもやってるんじゃないか?
目を離せば今にでも注射を腕に刺して、白目を向いて泡を吹きそうだ。実際、目の前にするとそれぐらいインパクトのある人物だ。脳みそにスライムの様にへばりついてくる強烈さだ。
「じゃあ、途中敬語が混じるかもしれませんが、一番話しやすいので行きます。ちょうど一ヶ月前ごろに――」
そこからは、クロモに出会ってからの一ヶ月の間にあった事を出来る限り短縮して話した。それでも三十分程度は掛かってしまった。それほどまでに、今までの時間は濃かったのだ。
全てを話し終わり、話の時間軸が今と重なったとき、彼女は情報を咀嚼して飲み込むように頭を上下に少し揺らした。それから口を開く。
「ま、大変だったのはお察しするわ。私の娘が今はそんなことになってたのね」
そう言って組んでいた足を解き、立ち上がって歩き出そうとする彼女に向かって口を再度開く。
「なら、少しだけでもいいですから力を貸して――」
「嫌よ」
冷たく放たれた一言。こちらの方が身長は高く、彼女の頭の天辺も見えているのに、なぜか見下されているような威圧感を感じる。少し大きく胸を膨らませて息継ぎをした後、まくし立てるような速さで話し始めた。
「常識的に考えてほしいわ。私はあの男から逃げるために顔を変えて、名前まで変えたの。そうしてまでやっと手に入れた平和を娘のためとはいえ脅かす気は無いわ。この病院にだって本当は来たくなかったのよ。
……それに、力を貸すって何? 私は見ての通り小柄で貧弱な女よ。一緒に暮らしてるとき、数え切れないぐらい殴られたわ。だから怖いのよ、もうあの男と関わるのは」
何か言い返そうと口を開くが、喉で空気が詰まり、声が出ない。娘を助けないのか、と偉そうに叱責できる立場でもないしする気もない。本当に微かではあるが、彼女の体が少しだけ小刻みに震えているのが見えたからだ。
言い訳は出来ない、どんな力を貸してほしいのかもまだ考えている途中だ。なら、もう今はこうするしかない。
その場で膝を突き、使えない両腕を胸に引き寄せ、頭を地面にこすり付ける。
「ちょっ、あんた?! 何して……!」
「俺は口が回るほうでもないし、頭も良くない! どんな風に協力してほしいのかも分からない! けど、本当に力を貸してほしいんです!」
小学生みたいな喋り方だ。大声で叫んだ割には、結局自分が馬鹿と言うことしか言っていない。話した字数の割には、同じ事をただ繰り返しているだけだ。本当に馬鹿らしい。
「もしこれで力を貸してくれるなら、俺はこのままずっと頭を下げててもいい! なんならもう一度この両腕をヘシ折ったっていい!! だから……」
「もう顔上げなよ。上げなって」
彼女が俺の肩を何度も叩き、顔を上げるように促す。言われるがままに上体を起こし、地面に擦り付けていた頭を持ち上げた。
司書さんは周りを警戒しながら見渡し、頭を眉間にしわをギュッと寄せながらガシガシと触っていた。それから、溜息混じりに声を絞り出す。
「……それだけやられても、協力はやっぱり無理。
ただ、娘はあの男に捕まってるんだろ? あんたが取り返した時にもしあの子の行く当てがないなら、私が保護者として保護するよ」
「あ、ありがとうございます!」
地面に頭を擦り付けはしないが、今までの人生の中で一番の感謝を篭めて頭を下げる。すると、頭の天辺に弱い威力でチョップをされてしまった。
「大声で叫ばないで。……ただね、私が保護するといったって、あの子が私を許すかどうかだよ。いわば私は、あの子を元夫のところに置いて逃げた卑怯者だからね」
司書さんは少し悲しそうな表情を浮かべながら、そう言った。……それは……本当に身勝手だが、俺にはどうにもできない。
「私みたいな薄っぺらい演技で生きてきた女には、あんたみたいな少しぶっ飛んだ野朗に一番弱いのさ。もう一度両腕をヘシ折ったっていい、って……笑えるね」
彼女はそう静かに言い放ち、図書室の端にあるカウンターらしき場所へ戻っていった。貸し出し本の管理をするコンピューターの後ろに座り、机の上にあったしおりが挟まれた革張りの本を手に取り、読み始める。
これ以上はもう話しかけるな、ということだろうか。彼女はもうこちらに視線を向けることはなかったが、再び深く感謝を篭めてお辞儀をし、図書室から廊下、病院の出口へと歩みを進めた。




