月光差し込む暗い部屋
「うぅっ……」
頬に張り付く冷たい感触に閉じていた瞼をゆっくりと開く。スカートの間に寒風が入り込み、ぷるっと身が細かく震える。右手を硬い床に突いて上体を起こし、淡く薄い月光が差し込む部屋の中を見回した。
二畳半ほどの狭い空間に、黒い汚れが詰まった窓枠。窓ガラスは取り外され、代わりに私の手首ほどに太い格子がはめ込まれている。窓の真反対側の壁に重そうな鉄製の扉があり、ドアノブは根元から切り外されてコンクリートで埋められていた。
「えっと……一体何が……」
後頭部の痛む頭を手で抑え、蜘蛛の糸の様に薄い記憶を必死に手繰り寄せる。屋上で優人に断られて……それから家に帰って……それから……。
目を閉じて必死に頭を唸らせていた瞬間。カタッ、と鉄の扉の向こうで何かを置くような音が響いた。頭の中に浮かばせた記憶のイメージをかき消し、埋められたドアノブ付近をじっと眺めて息を潜める。
数十秒ほど息を潜めていると、扉からどこかへ足音が遠ざかっていくのが聞こえた。ほっと汗の滲む胸を撫で下ろし、冷たい壁へ身をもたれかからせる。閉鎖空間であるこの部屋に自分の呼吸音と、窓の外から響いてくる波の音が静かに混じり合う。小さく体を縮こまらせ、抱えた膝の中へ顔を埋めた。
「……きっと」
記憶を思い出さなくても、今の現状は大方察することができる。恐らく、お父さんが私のことを見つけたんだろう。そして、強硬手段に出た……。後頭部にある腫れた傷を指で擦り、優人が巻き込まれなくてよかったと、心の底から安堵の溜息を吐いた。
「なんだ、やっぱり起きてたんじゃねぇか。」
ガタッ!と扉が大きく揺れ、蝶番が錆びの擦れる音を鳴らしながら開いた。隙間からは酒で焼けたガラガラ声が響き、見覚えのある風貌をした人物が薄い月光に横顔を照らされながら入ってくる。
「お、お父……さん……」
唇が震え、足のつま先から太ももまでが余すことなく恐怖で震える。肺が吸い込んだ空気を上手く受け付けず、酸素を取り込む暇もなく直ぐに吐き出してしまう。両の手の平に擦り傷を作りながらも必死に後ずさり、彼から距離を取る。
「起きてんならそう言えよなぁ……ん? 何でだ?」
お父さんが扉を開きっぱなしにしたまま、私の前に体をかがめる。開ききった瞳孔からは、正常な精神を持っている気配は微塵も感じ取れない。そんな瞳に何も答えることが出来ず、思わず顔を横に背けてしまう。
「何でかって聞いてん……だよっ!」
「ひっ!」
お父さんが右腕を思い切り上に振り上げた瞬間、頭で考えるよりも速く体が咄嗟に頭を守るように手を動かした。唇を強くかみ締めて痛みに堪える準備をしたが、返って来たのは、お父さんの大きな笑い声だった。頭を守る腕の隙間から少しだけ覗くと、大き目の黄ばんだ布をヒラヒラと舞わせている姿が見えた。
「なぁーに。この窓、吹き抜けだから少し寒いだろ? だからこの布で塞いでやろうってんだ。優しさだぞ、優しさ?」
お父さんがそう話す姿を眺めながら、ゆっくりと頭を守る両腕を下げた瞬間。右の頬に、鋭く熱い痛みが走った。室内に肉を叩く音がパァン!と大きく反響し、余りの強さにその場で倒れこんでしまう。
「ハハハハッ! なぁ、おい……俺が許すとでも思ってんのか、このクソ餓鬼が!」
お父さんが私の体の上に馬乗りになり、硬く握り締めた拳で、躊躇なく頭を殴ってくる。一度殴られるたびに目の奥が熱くなり、口の中に血の味が広がる。
ひとしきり殴り終わり、私の頬が赤く腫れ上がった頃。お父さんはゆっくりと立ち上がり、開きっぱなしだった扉から出て行った。触るだけでも激痛のする傷口を出来るだけ空気に触れないように手で覆い、静かに涙を流した。
私は幸せを感じ取れるような生まれじゃなかった。それでも……それでも……。優人が拒絶したとはいえ、一緒に過ごしていたあのときは本当に楽しかった。
神様はそう都合よく願いを聞いてくれない。だから、私はもう耐え忍ぶしかないのだ。あの頃の幸せを思い出しながら、必死に耐え忍ぶしか。
「うっ……ひっぐ……」
床に散らばる長い黒髪の上に涙を流しながら、声を抑えて嗚咽した。




