頭の悪い奴
倉庫の右側の壁を手で伝って進むと、銀色のドアノブにかすかに反射光が差し込んでいる灰色の事務扉があった。ほかにドアも見当たらず、悠々と探し回る暇もない。肩に手を回して体重を預けてきている俊介ごと無理やり扉の中へ転がり込む。
冷たい部屋の中は暗闇に慣れた目でも足元を見るのが難しいほど、一切の光もない場所だった。長い間使われていないのか、見えはしないが喉が痛くなるほどの埃が舞っている。
「……クソ、もう視力が戻ってきた。あいつらも……あ、もう肩はいい」
俊介が俺の肩に舞わしていた手を離し、自分の胸元から布の擦れる音を鳴らす。チチッとファスナーを開く音が暗闇の中に低く木霊し、中から何かを取り出す。俊介が手にすっぽりと収まる円柱形の硬い物を俺の手の中に突っ込んだ瞬間、パッと目を細めてしまうほどの丸く白い明かりが壁に映し出された。
「うお、まぶし……」
「懐中電灯だ。俺はこっちで色々と足止めの用意をするから、早く見つけてやれ」
俊介は体を反転し、俺達が入ってきた扉の前でかがむ。ドアノブに小指ほどの太さがある鉄のワイヤーを引っ掛け、扉が開かないように固定をしている。だが扉自体が古いせいか、本気で蹴れば蝶番ごと扉が外れてしまいそうだ。俊介の姿を視界から外し、LEDの懐中電灯で部屋の中を照らす。
この倉庫が使われていた頃に事務室として使用されていた名残なのか、足が錆びて今にも壊れそうな事務机が向かい合わせに二つ並んでいる。鉄パイプの椅子がいくつか壁に立てかけられ、学校によく置かれているブリキ製の掃除用具ロッカーが部屋の隅に置かれていた。
人が隠れられそうな場所は、せいぜい事務机の下とロッカーぐらいだろう。こちらに置かれた机には、当然といえば当然だがネズミ一匹の糞すらない。向かい側に置かれた机の下とロッカーを確認するために、足音と呼吸を殺してゆっくりと近づく。急がねばいけないのは分かっているが、自然と足取りが遅くなってしまう。
体を勢いよく捻って机の下に懐中電灯の光を当てるが、人の姿どころか、誰かがそこに居た痕跡すらない。となるとすれば……
「……白鳥の言葉通りなら、ここに……」
ロッカーに光を当て、静かにそう呟く。あの女はクロモを預かっている、と言っていた。この倉庫には隠れられそうな場所は他にはありそうにもない。ならば、クロモはここに閉じ込められていると考えるのが妥当だろう。
鉛の様に重いギプスを付けられた右腕を伸ばし、目の前の取っ手に手を掛ける。
「……待った」
ふと思い浮かんだ疑惑の思考に、自分に制止の声をかける。
よくよく考えれば、あの女が馬鹿正直に……相手は年下とは言え、俺よりも数段近く頭の切れる奴だ。それに加えて、自分が楽しければいいという思考を持っているおまけまで付いて来ている。意地の汚いことも余裕で思いつくだろう。その上でだ。
本当に、クロモはこのロッカーの中に居るのか?
ブリキの箱の中は、以前として謎に包まれている。中に何が居るのか、そもそも何かがあるのか。シュレディンガーの猫……確認するまで結果は分からないという奴だ。
あの女が言ったことが本当だと願うのか、俺の勘にも近い理屈を信じるのか。
幸いに、俺が手に持っている懐中電灯で本気で殴れば、このロッカーの取っ手部分を歪めて開かないようには出来るだろう。もちろんそうなった場合、このロッカーは二度と開くことは出来ない。開き直そうとする間に奴らが入ってきて、俺達はお陀仏だ。
「……いや、それでも……」
懐中電灯を近くの事務机に置き、右手を取っ手に掛け直す。もしこれが罠だったとしても、無理やり突き進む。この期に及んで人も殴れない俺に出来るのは、それだけだ。
視界の端にチラリと入った俊介は、扉に背中を当てて必死に押さえていた。悩む俺の姿を見て、眉間にしわを深く刻み込み、早くしろと言わんばかりの形相で睨んでいた。
取っ手を引っ張り、ガタリと勢いよくロッカーの扉を開ける。ブリキの箱の中に懐中電灯の光が差し込み、何かの形を明るく照らし出す。
突然。パン!と肉と肉がぶつかったような鋭い炸裂音が響き、右の頬に熱く激しい痛みが響く。立て続け様に左の頬にも痛みが走り、その場に引き倒されてしまう。
必死の思いでこじ開けた視界の中には、髪の色を金に染めた男が馬乗りになって、俺の顔面に向かって思い切り硬く握った拳を引き絞っている様だった。弓の弦の様によくしなる拳は俺の鼻っ柱を綺麗に捉える。後頭部がガゴンと鈍い音を立てて硬い床と衝突し、暗闇の中に白い星がいくつか浮かぶ。閉まった瞼の中で眼球が真上に上がり、ブラウン管の電源を消したようにブツリ、と意識が途絶えてしまった。




