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夜桜クロモ

 お母さんが居なくなった。

 お父さんとお母さんが喧嘩したあの日から、お母さんは家に帰ってこなかった。キッチンには洗われていないままのお皿が積みあがり、お父さんのお酒の空き缶が増えていった。

 お腹から音が鳴ると、うるさいとお父さんにぶたれる。それで泣いてしまうと、またぶたれてしまう。

 頬は赤く腫れ上がり、体に青紫の痣が両手で数え切れないほどに出来る。お父さんが布団で寝息を立て始めた頃に、部屋の隅で声を押し殺しながら一人で泣いた。 

 そんな小学生の間は、誰も近寄ってこなかった。

 全身が腫れ上がった痛々しい見た目に、お父さんの悪い噂が流れていたこともあったからだろう。虐めの標的にはされなかったが、代わりに、この世に存在しない人間と価値付けられた。話しかけても無視され、近づくと露骨に距離を取られてしまう。仲良く話すクラスメイトを眺めて、初めて痛み以外での涙を流した。


 お父さんは、いつも私がうるさいと怒鳴る。

 静かで丁寧な言葉遣いが出来るよう、本を読み漁った。ご飯は自分で作らなければ食べられなかったから、自然と料理の技術が身についた。少ない貯蓄を穴が空くほどに見つめ、バイトで稼いだなけなしのお金を家に入れた。

 それでもお父さんは、私に暴力を振るうことを止めなかった。

 学費の安い公立高校に入学した後は、必死に暴力を受けていることを隠した。顔に貼り付けた笑顔の裏には、子供の頃から変わらない量の青い痣が隠れていた。


 高校を卒業しても、私はきっとお父さんに縛られ続けるだろう。働き出しても、きっと、お父さんが死んでからも。

 やせ細った白い手首に刃物を宛がうが、どうしてもその刃を引くことが出来ない。今死ねば楽だろうに、体が震えて動くことが出来ない。刃のついたカミソリをその場に置き、夜風を浴びながら立ち上がる。腰まで伸ばした黒髪がなびき、頬に張り付く。

 靴を端に固めて脱ぎそろえ、学校の屋上のフェンスをまたぐ。背中に満月の光を受けながら、空に浮かぶ星を眺めた。それぞれが互いを気にすることなく煌々と輝き、地球を見下ろしている。


「私も、な……」


 瞼を閉じてから右足を前に出し、体を中に投げ出した。もし、生まれ変われたならば、今度は自分の思うように行動したい。恋愛……とか、かな。子供の頃に読んだクマさんの登場する絵本を思い出し、僅かに口角を上げる。あんな楽しい場所に行けたら、本当に幸福だろう。

 どうか、神様が居るのなら、私をあの楽しい場所へ連れて行ってください。





「いっ……あんぎゃあああぁぁぁあああ!」

 

 男性の咆哮にも似た声が響き、驚いて閉じていた瞼を開いてしまう。

 体がお姫様のように抱きかかえられ、目の前に痛そうに声を上げる男の人の顔が見えた。満月の光が『時岡優人』と、彼の名札に刻まれた名前を照らす。

 彼が膝から体制を崩してしまうけど、私の体を離さずに、顔から地面にぶつかりながらも体を支える。それから、痛そうに震える親指の腹で、私の頬を優しく撫でた。


 他人から見れば何てことない理由だろう。けれど私の目には、あの頃憧れた、力強くて優しいクマさんの姿が確かに映っていた。鼻から真紅の血を一筋垂らしながらも、必死に私の体を抱きとめている男の人が居た。

 頬がぽおっと熱くなり、耳の先が赤くなる。これが神様からのプレゼントなら、私は遠慮しない。たとえ彼から拒絶されても、私はこの人のために動きたい。

 意識を失って倒れてしまった彼の体を優しく抱きとめ、鞄から携帯を抜き出し、救急車に電話を掛けた。

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