表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/6

1話 日常


 しんと静まり返った剣道場に、どこか空っぽの空間にいるような張り詰めた空気が流れる。

 木製の面格子から朝日が差し込む道場には、剣道具をまとい向かい合う男女の姿があり、それから剣道着を着衣し白い長髭を蓄えたご老体が真ん中の壁側に立っていた。

 無垢のフローリングに反射する男女......というか、俺と妹の手には竹刀が握られ、開始線の位置から一歩も動かず微動だにしない。互いに相手の出方を伺っているところだ。

 ゴクリと唾を飲み込む。

 先に仕掛けた方が負ける。そんな雰囲気さえ感じられる中で、正眼に竹刀を構える詩の左足がやや前に動いた。

 来る――!

 そう思った瞬間、瞬時に間合いを詰めようと詩が右足を踏み込んだ。竹刀を持つ手を垂直に振り上げ、ふっと短い呼気を漏らし、叫んだ。


「ィヤァアアアアアアアアアアアアッ!!」


 大気を揺らすという表現も強ち間違いではないと思わせる気迫の込もった掛け声だ。初めて聞く者であれば、その迫力に圧倒され身動き一つ取れないことだろう。


 そんな中でも俺は一際平静さを保ち、一点に詩の刃筋を見据える。

 一足一刀の間合いでなんて悠長なと思うかもしれないが、詩の癖を知る俺はギリギリのところまで引き付けるべくまだ動かない。いや、動かないというと語弊があるな。僅かにだが、正眼に構えながら切っ先を小さく動かしている。おそらく、俺のやってる行為を詩のやつはまだ気付いていないか未だ意識の外にあるはずだ。


 しかしながら、詩にしてみれば今こそ打突の好機だろう。このチャンスをものにしようと滑るように継ぎ足する詩だが、正にそれが命取りだ。詩が敵より遠く我より近くという教えとは真逆の道筋に沿った結果、俺は間髪を容れず放物線を描くように竹刀を振り上げ、技の一つである切り落としを決めに掛かった。

 相手が上段から打つのに合わせ、こちらもタイミングよく竹刀を振り上げ、相手の竹刀に斜めからぶつけることで軌道を逸らし面を打ち込むーー

 説明だけ聞くと意外とやれそうなもんだが、いざやってみるとこれがかなり難しい。現に物凄い量の練習を積んだ俺でさえ失敗なんてことはざらにある。打ち落とす面積の少なさがぐっと難易度を引き上げているのは想像に難くない。が、それだけに決まると強い。一刀流の極意と呼ばれるだけのことはある。

 そんな切り落とし、またの名を面切り落とし面と呼ぶが、今回は非の打ち所がないほどにうまくいった。お手本と言って差し支えないくらいに。


「メェエエエエエエエエエエンッ!」と力強く叫ぶ詩に対し「メーーーーーーンッ!!」と鋭い発声をしながら詩に面を打ち込んだ俺は、打突時の高さのままその横をすり足で打ち抜け、振り向きざまに中段に構え直しそれを残心とした。

 その一連の動作を見て取り、審判を務めていた祖父が右手に持った赤旗を斜め上方に突き上げた。


「面あり! これにて二本。勝負ありじゃな」


 ――緊迫した空気、というものがゆっくりと溶け落ちる。

 ドスン、とその場で尻餅をつく音がした。


「ふぇええ~~~~ん! またお兄ちゃんに負けたぁ、いい加減手加減してよねもう!」


女の子座りをしながら泣き言を並べる詩に俺は哄笑こうしょうする。


「ハッハッハ! 残念だったな詩、いつ何時も勝負の世界は非情なんだ」


 勝ち誇るのもそこそこに、開始線まで戻り蹲踞そんきょし納刀してるのは俺だけで、面を外しむすっとした顔で握った竹刀に目を落とす詩は、


「はぁ、なんで詩の一本入らないんだろ。お兄ちゃん以外にならバリ勝率いいのに。やっぱり男女差によるスピードやパワーが原因なのかなぁ?」

「それも少なからずあるだろうけど、強いて言うなら一足一刀の間合いで継ぎ足するとこじゃないか? 確かに攻めは重要だけど、俺から言わせてもらえば生きるか死ぬかの間合いとおんなじだぞ。できることなら踏み入った時点で打突を狙いたい。今後そういう場面が来ないとも限らないし」

「詩には悪いが、それにはワシも同意見じゃな。掛け声による気迫は満点じゃが、前々から詩は様子見しすぎるきらいがある。先ずは己が行動を回顧し律するのじゃ。さすれば実の兄に勝てる日もこよう。だから詩よ、そう気を落とすでない」

「別にそこまで落ち込んでないけど、要はためらうなってこと? うーん、いまいちよく分からないなぁ。もっと分かりやすく言ってよ」

「分かりやすくねえ・・・・・・他家がチーの発声をした後でポンないしカンをして邪魔する感じ?」

「余計分かんないよっ!」


 俺の渾身の例えを一蹴し小鼻を膨らませた詩は、竹刀を竹刀袋にしまい込むと、面を取り汗を拭う俺の横で頭に巻いていた手拭いを取りバッと広げてみせた。


「そういえばね、最近サイズが合わなくなってきちゃった、この面タオル」

「そういや大分色落ちもしてるな。かなり前から使ってるだろうし縮んできたのかもな」

「あ、やっぱりお兄ちゃんもそう思う? ・・・・・・おじっぃちゃんっ」


 短く結われたポニーテールをぴょこんと揺らし、鼻に掛かるとまではいかない猫なで声が詩の口から発せられた。この流れは。


「む、どうしたんじゃ。我が愛しの孫娘よ」

「うんとね、詩の面タオルがボロ雑巾みたいによれよれになっちゃったから、そのことを踏まえた上で大好きなおじいちゃんに折り入ってお願いがあるんだけど。……新しいの買うお金、ちょうだい?」

「相わかった。大切な孫娘の頼みじゃて、断る道理もないじゃろ。後でおじいちゃんが天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずという名言を残した諭吉先生を上げるからワシの部屋にくるとええ」

「やたー! ありがと、おじいちゃん」

「うむ」

「オイ」


 分かってたことだが、孫娘に甘すぎるだろこの爺さん。

 俺も何気なくアシストしちゃったけど面タオルは一枚や二枚だけじゃないからな? 夏場以外でもすげえ汗かくからそれこそ十枚以上持ってるし、俺が詩みたいに頼んだら「は? 汗や色褪せは剣士の勲章じゃろ。どうしてもほしかったら自分の小遣いで買うんじゃな」てな具合にあしらわれて終わりだ。因みに経験談。ノンフィクションとも言う。

 あらかじめ予想された臨時収入に喜ぶ詩を嫉妬の眼差しで見ていた矢先、急に木製のドアがガラリと開かれ、そこからひょっこり顔を覗かせる人物が俺の目に留まった。

 靴を一振りで脱ぎ捨てるそいつはスケートリンクを滑るようにして俺達の前へとやって来ると、心ならずも勢いをつけ過ぎたのか、寸前のところで転んだ。


「あ」


 派手な音を立てフローリングとキスするそいつは、すぐにむくっと起き上がると倒れたことなどおくびにも出さず軽快に手を上げたのだった。

 その第一声、


「やぁやぁみなさんお揃いで。こりゃまた朝早くから精が出ますねえ。あっ、精が出るって変な意味じゃないよ!?」

「いや鼻血出てるから鼻血」


 俺が冷静な突っ込みを入れると同時にハッと我に返った様子の詩がティッシュを取りに行こうと考えたのか駆け出そうとしーーこけた。

 こいつらわざとやってるんじゃないだろうな。

 呆れ果てる俺のすぐ傍らで事態を静観していた爺さんが、おもむろに額に手を当てるや妹に変わってムーブする。もちろん、歩いてだ。

 ややあって、


「やぁやぁみなさんお揃いで。こりゃまた朝早くから精が出ますねえ。あっ、精が出るって変な意味じゃないよ!? 変な想像しないでよねたーくん!」

「いやわざわざ焼き回しのように同じくだりやらないでいいから」


 あと想像してないし、余計な言葉継ぎ足すの止めろ。

 ティッシュで鼻血をとめ一度仕切り直した俺達はーー爺さんは先に道場を後にしたーーラフな格好に着替え車座になっていた。


「まったく百奈はお転婆だな。前方不注意にもほどがある」

「えっ、来て早々にディスられるの私!?」

「そうだよ百奈ちゃん。今時ドジっ娘アピールなんてこれっぽっちも流行らないからね。転んだところで鈍臭い女と思われて終わりだよ」

「うへぇ、それだけは勘弁してほしいね」

「でしょ?」

「どうでもいいけど、思いっ切りブーメラン刺さってるからな、詩」


 神聖な間で俺と詩とワーワーくっちゃべるのは、家が隣の幼馴染み、雪村百奈だ。

 幼馴染みだからといって甘く評価するつもりは毛頭ないが、目鼻立ちの整った顔は正しく美少女のそれだろう。

 肩に届くくらいの栗毛色。右側に装飾された大きなリボンがチャームポイントで実によく似合っている。

 身長は俺の頭一つ分低いながらスタイルがよく、出るとこの出たいわゆる男の目を引く体型だ。幼稚園の頃からの付き合いだけど、子供の頃から性格もこれといって変わりなく天真爛漫で誰からも好かれるような人柄である。

 事あるごとに気のいい爺さんから小遣いをせびる詩にも見習ってほしいもんだ。どうやったら爪の垢を飲ませられるのかその方法が皆目見当も付かないけど。


「まったく今日がテスト最終日だってのに、朝稽古たぁ余裕だあねぇ。これだから勉強のできる人は」


 やれやれといった具合に両手のひらを上に向け首を左右に振る。

 そんな百奈を俺はジトッとした目付きで見た。


「何言ってんだ。百奈だって十分できんだろうが。修也のあの全てを達観したような顔を思い出してみろ。気の毒ってレベルじゃないから」

「あー、うん、確かに」


 納得した、と腕組みしながら百奈がしみじみと頷いた。今の言葉には、自分でも物凄く説得力があると思った。

 引き合いに出してスマン、修也よ。


「大体テスト期間中は部活禁止だから朝稽古に回してんだって。そうじゃなくてもうちの部が活動再開するの週明けからなんだから。そんで午後はきっちり勉強の時間にあててる」

「そうそう、詩もそんな感じーって、百奈ちゃんが来たってことはもうそんなに時間ないよね? シャワーで汗流してきていい?」

 詩の言葉に「なにこれ、突っ込むところ?」と百奈。

「いや、テストを受けたくない一心で出た現実逃避の言葉だろうから温かい目で見守ってやろう」

「ははぁ〜ん、そういうこと。ジーーッ」

「...ジーは声に出さないでいいと思うぞ?」

「違うよ! ただの冗談だから! 真に受けないでっ!」


 冗談ね、だと思った。

 すっくと立ち上がった俺は踵を巡らして、言った。


「まだ七月の上旬で朝は比較的涼しいから助かったな。早く着替えて学校行くぞ」

「そーだね、行きまっしょい」

「レッツラゴー!」


 ――早朝の儼乎げんこたる空気とは一変して、笑い袋でも量産されたような賑々しい雰囲気だ。


 とはいっても、これはあくまで記憶の断片、数珠繋ぎにすらなってない。だが一つ一つ明らかにし積み重ねていけば、きっと見えてくるものがあると俺は信じてる。


 というわけで、ここからは簡単なお復習いだ。

 俺の住む場所は愛知県のとある某所。つっても、有名な観光スポットがあるからそこの名を出せば一発でバレちまうけどな。

 だからそこは伏せとくにしても、自然豊かないい街である。裏を返せば田舎とも言うが、電車を一度乗り換えれば都心部に行けるから言うほど田舎じゃないと思いたい。

 次いで俺の自宅について話すと、もうお分かりかとは思うが剣道場がある。

 もちろん、自宅に剣道場を作るのが剣士の夢! だから作る! と一朝一夕で建てられたものではなく、築百年以上のいわゆる歴史ある剣道場だ。

 剣道自体祖父の代より以前から続いていて、由緒正しい剣道一家と言っても過言ではない。もっとも、実の父はそこまで剣道に精力的でないため、このままいけばこの道場を継ぐのは自然と俺になるわけだが、幼い時からやってるだけあって剣道は好きだからどんとこいって話ではある。

 海や山に恵まれた自然豊かな街に、可愛い幼馴染み。そしていずれは歴史ある道場の跡継ぎときたもんだ。

 これで文句の一つでも言うやつがいたら、リア充死ねと呪詛のようにのたまうオタクにブン殴られたってそれは罪には問われない。ある意味正当防衛で罷り通りそうですらあるし、むしろこの俺が保証してやる。


 だけど、そんな俺にも解せないことが一つだけある。

 この境遇に対し一度も不平不満を漏らしたことがないにも関わらず、神ってのはむやみやたらと罰を下したがる存在らしい。

 一落千丈、緩やかに運行していたジェットコースターが突如真っ逆さまに落ちるが如く俺の世界を捻じ曲げやがったんだからな。

 その核心に触れるのはもう少し後だ。とりあえず次は有り触れた学校のシーンから話すことにしよう。

 俺達の通う高校は、公立長ノ手高等学校。

 高校偏差値もまぁまぁ高い、市内屈指の――県内じゃなくてアレだけど――進学校でもある。

 先ほど百奈も言っていたが、その日は前期期末テスト最終日。

 自慢じゃないが、俺も詩も、それから百奈も、昔から勉強はできた方だ。いくら進学校といえど、元よりついていけるくらいの学力は持ち合わせている。


 だが、あくまでそれは自分の物差しで測った場合だ。全員が全員できるわけではなく、当然中にはできないやつもいるわけで――


次回は一週間以内に投稿します。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ