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赤い雨  作者: 近江湊音
8/8

天男

 蝉が鳴く。田んぼの水も干上がって、土がひび割れる日差しの強いこの夏の日。汗水を垂らしながらいつものように大学から家まで続く長いあぜ道を歩いていた時だった。

 ミーンミンミンミンミーンミーィン。

 蝉の声が騒がしくて、どうしたってこの光景を夢だとは思わせてくれない。

 私は今日。十九年間生きてきて初めて、道端に行き倒れた人間を見つけた。

 見つけた、見つけたのはいいけど。この人、生きてるのかな……。

 色白の肌が日の光に焼けて、生肉が焼けていくように、じりじりと赤く染めあがる。

 そっと、その頬をつついてみた。


「……ん」


 あっ。良かった!生きてた!いや、人生で初めて死体を見ちゃった、どうしよう!なんて可愛い理由じゃなくて。ただ第一発見者として警察の容疑者候補にあがらないことに、ホッとしただけなんですけどね。

 生きてるなら放っておいても大丈夫でしょう。ここら田舎に住むおじいちゃんおばあちゃんは世話好きな人が多いし、誰かがこいつを助けてくれるだろう。

 それじゃあ生命確認も出来たし、私はそろそろ帰りますよ。家には週に一度のお楽しみが待っているから。

 週に一度の楽しみ。それは、そうアニメだよ。日本は素晴らしい国だね。こんな田舎にいてもネットはつながっていて。ケーブルがあれば、我が家にある小さなテレビでも、萌と癒しが週に一回必ず見られるんだから。素晴らしい……。大事なことなので二回言いました。

 じゃっ、そういう訳だからあばよ。と彼を無視して歩き始めたはずなんだけど。


「んぎゃっ!?」


 あれ、なんだか視界が暗いぞ。それに額がすごく痛い、割れそうなくらい痛い。

 後ろを振り返ると、いつの間に意識を回復していたのか、細い腕から想像も出来ないほどの力で足首を掴まれている。いや、むしろ回復してないのか?

 ギリギリギリギリ……足の骨が粉砕しそうな程の力が、私の左足首に注がれる。ぎっちり指が肉にくいこんでくるから、全然放せそうにない。


「痛い痛い痛い痛いっ!!バカっ、放せっ!コノヤロー!ていうか、このままじゃ……帰れないんですけど!」


 こういう訳で、この夏十九歳になったばかりの私、久世 早夏は人生初、道端で倒れた青年を拾ったのです。









「うーん……。うぅーん団子……団子はピンクが美味い…うぅーん。草餅?草餅なんて葉っぱの味しかしねぇ餅なんて食えるか!」


 デカイ声で寝言を言いながら、がばっと身を起こす男性。人って本当に「ううぅーん……俺もう食べられないよー」みたいな寝言、言えるんだなぁ。


「あっ。起きた」


 まだ意識がボーっとしたままなのか、細められた目でじぃーと見つめられる。

「……ここは、どこだ」


「ここは私の家。アンタ道に干からびた蛙みたいに倒れてたのよ」


「おおっ!そうであったか。いや、すまない。俺には行かなくてはいけない場所があったのだが。向かっている途中にどうも空腹で倒れてしまったらしい。ところで、貴様は……」


 じぃーっとネコが獲物でも狙っているような鋭い瞳で睨まれる。えっ何々。何を言われるんだろう。しかもよくよくいると相手はなかなかのイケメンじゃない?ドキドキする。


「……そこまで美人でもないな」


「うっさい!ほっとけ!」


 私の美貌がいかほどのものなのかはどうでもいいだろう!いや、むしろあまり突っ込まないで欲しいけど。年頃の乙女にはいろいろあるのだ。そう、いろいろと。


「まぁ、助けてくれてありがとうと一応礼を言ってやってもよいぞ」


 何なんだ、こいつ。やけに上から目線だし、妙に言い回しも古臭いような。しかしそんなことよりも、イケメンに美人でもないなとか言われた!腹が立つ!


「してここは華蜂町かね」


「そうですけど……」


 いかにもここが、人なし畑あり。ジジババ多しの華蜂町ですけど。豪華なのは名前だけの、寂びれた田舎町ですけど。


「おお!行き倒れて尚目的の町までたどり着けるとはさすが俺!」


「さすがは俺、どんな俺かは知りませんが。この町に来たかったんですか?随分と変わった趣味をお持ちですね」


「いや、別に趣味でここで来たわけではない。頼まれたのだ。いや、派遣されたと言った方が正しいのかな」


 派遣社員?にしては、赤に白の線の入った中高で履かれていそうなジャージに、よれよれのTシャツ。それにつぎはぎだらけの大きなリュックサックに赤い番傘。明らかにサラリーマンというよりは。


「……そんな中国の秘境に、格闘の修行に来たみたいな恰好してるのに?」


「誰が『めんま』だ!」


「そこをつっこむなら『らんま』だ!」


 正確に言えばらんまではなくて赤い番傘がトレードマークのライバル、響良牙だけど。水を被ると黒い子ブタになるの。Pちゃん可愛い。


「この格好のことは別に良いだろう!特に上からも言われていないのだし」


「いや……アンタがそう言うなら私は別にどうでも良いんだけど。……しっかし変なやつねー。雨も降ってな

いのに番傘なんて持ち歩いて」


「あっ。馬鹿!止せ!」


 イケメンが慌てて私を止めようと手を伸ばした。固くてなかなか開かない番傘を無理やりこじ開けた方が先だった。


「えっ」


 間抜けな声で返事をした瞬間。天井からバケツをひっくり返したような大雨が降ってきたのだ。違う天井からじゃない、この傘の中から雨が降っているのだ、滝のように。

 呆然とする私をよそに、雨は私を、私の部屋をびしゃびしゃに濡らしていく。


「だから止めろと言ったのに……」


 洗濯物が、布団が、畳がびしょ濡れだ!どうしようと慌てる私の手から、すんなりと番傘を奪い取り、すっと閉じるイケメン。


 するとあれだけ土砂降りだった雨が、ぴたっと止んだのだ。


「……一体これは」

 

ふぅ、やれやれとんでもないことをしてくれたな貴様と、言わんばかりの目力で睨まれ盛大なため息を吐かれる。よくわかんないけど、ごめんなさい。


「申し遅れたな。俺の名前は天。サイキョ―の雨男だ」


「……雨男?」


「そうだ」


 コイツ……何言ってんの?


 雨男が大した自慢にもならないことをこいつは知らないんだろうか。肩に番傘なんて乗せてしまってドヤ顔なんか浮かべちゃって。


 そもそも雨男っていうのは、グループで旅行に行く日にゃ絶対にハブられる嫌われ者で、自慢出来るような事じゃないと思うんだけど。


「雨男って、あの雨男だよね。運動会の日とかに必ず雨を降らしちゃう人」


「そうだが。俺の場合はちと違う。俺はいつどんな時、どんな場所でも自由自在に雨を降らすことが出来

るんだ」


 へぇ。それはちょっと羨ましいかも。私がその能力を持っていたら絶対マラソン大会の日に雨を降らす。だってマラソン大会とか、足が遅い人とってはただ息苦しいだけの地獄だよ。しかも毎年何故か冬に開催されるし、こっちは耳が痛くて、寒くて、帰りたくて仕方ないっつーの。

 あっ。そうだ!コイツが雨音うんぬんを自慢してくるなら。良い事を思いついた。


「へぇー。そりゃすごいですね。そうだ、明日大家さんのやってる畑の草むしり手伝えってお願いされちゃってるんですよね。……その力使って明日、雨にしてくれません?」


 明日もサンサンの晴れ模様だし。暑い中、若いし体力があるからって、何でこんな重労働を強いられなきゃならんのだ。そもそも大学が終われば、即行帰ってアニメ漬けの私に体力なんてないし。


「良かろう。しかし、対価がいるな。おい、女よ俺に何を差し出すというのだ」


「ぎょえ~お金取るんですか?じゃあいいや」


「馬鹿者。金など何の使い道もないただのゴミだ」


 お金をゴミなんて言いやがったよ。お金なんて溢れてくるからゴミのようだって?どんな金持ちなんだ

こいつ。一生で一回きりでいいから、言ってみたいよそんなセリフ。唯一ゴミで関係で言えるのはあれね。人を例えて言うセリフね。


「そんなものではない。食料だ」


「食料?食料って、野菜とか果物とか水とか?」


「野菜!いいなぁ。俺はトマトが好きだ。一度トマトにかけると絶品だという『どれっしんぐ』とかいうものを貰ってな。それ以来トマトが大好きなのだ」


「……はぁ」


 随分と安い対価だな。トマト、トマトくらいなら確かうちの冷蔵庫にあったはず。冷蔵庫の野菜室を開けてみると直ぐに見つかった。赤くてつやつやしている、昨日近所のおばさんが「採れたてよー」と言ってくれたものだ。今日はこれを使ってトマトカレーでも作ろうと思っていたのだけれど。まさかこんな使い道が見つかるなんて。


「ほいっ。これでいんでしょう?」


「おぉっ!これは紛れもなくトマトではないか!うむ、この香り。そしてこの鮮やかな赤と輝かしい艶めき!なかなかのものと見える。良かろう!俺は今とても気分が良い。お望みなら今にでも雨を降らせてみせよう!」


「えっ。いや。降らしてほしいのは明日で。今日じゃ……」


 まったくもって聞く耳持たず。意気揚々とした立ち振る舞いで傘をかざし。朱色の花が咲くように開かれる番傘。所作がゆっくりと見え、ただ傘をさしただけなのにその姿はまるで舞を踊っているように美しい。

 けど、今は。


「止めて――――――――――――!!」


 叫び虚しく。容赦なく傘の中に降りしきる雨。


「あぁ!洗濯物が!」


 せっかく乾きたての太陽の光を吸ってぽかぽかだったのに。天の足元に置いてあった洗濯物は、雨水を浴びてびっちゃびちゃになりましたとさ。

あぁ……せっかくの水道代が無駄に。






「洗濯物を濡らしたことは、確かに俺が悪かったと思っている。だがな。だからと言って浴槽に突っ込むのは違うと思うが」


「アンタがその番傘いつまでたっても閉じないからでしょ!」


 風呂場から籠って聞こえる声に、大声で返事を返す。

 天には結局風呂場に泊まってもらうことにした。だってアイツ、「アイデンティティだ」とかなんとか言いだして番傘を閉じようとしないし、とは言え雨水流しっぱなしで、これ以上うちの畳に被害が被ってもいけないので。

 ったく何がアイデンティティだ。あんな傘、どうせ開けば水が降ってくるとかそういう、マジックアイテムとかドッキリアイテムの類でしょうが。それを何が『雨を降らしてみせよう!』だ。私にはアイツがただの中二病をこじらせた可哀そうなイケメンにしか見えない。ただし、イケメン。悔しいけどイケメン。

 そしてまぁ、そんな可哀そうな奴を追い出すことも出来ずに、考え付いた結果がこれ。

 我ながらいい考えだと思う。たまった雨水は沸かしてしまえば風呂にもなるし。綺麗か汚いかは、分からないけど。


「別に一日立ってろって訳じゃないし。床暖はある、浴槽に入れば背もたれはあるし、ゆったり足も伸ばせるんだから良いでしょ?」


「まぁ確かに不具合はないが……。この俺を風呂に閉じ込めた人間はお前が初めてだぞ」


「あーそうですか。初めてになれて光栄ですぅ――――」


 ……返事はない。きっと今頃風呂場で悔しさに顔を歪めているんだろう。それくらいの目には合ってもらいたいものだね。こちとら折角洗濯したものをもう一回洗濯し直さなきゃならない羽目になってしまったんだから。

 ってあれ、今更、男子を家に泊めることになったって気が付いたけど。年頃の男女が一つ屋根の下で大丈夫だろうか……。

 うん。大丈夫だな。何も起きるわけがない。あんな。


「おいーそこの特に可愛くもなくて平凡な顔の女よ。酒は、酒はないのかー?」


「ある訳ないだろ!それに私の名前は早夏だ!」


 あんな、高飛車で失礼な奴にそんな気がおきるわけがない。







「あっつ――――い」


 何でこんな炎天下の日差しの中。ネット社会で引きこもりの直射日光が苦手な生き物に草むしりなんぞを頼むんだ。鬼か、鬼なのか。「それならお駄賃の野菜セットは無しよ」と言われるんだから、手伝うしかない。野菜にお金がかからないのは、学生にとってとても有難いことである。これでお金を趣味に使えるんだから、それを思えば安い労働なのかもしれないけど……。辛いものは辛い。

 それにあの天とかいう自称最強の雨男!貰ったものはしっかりと食いやがって、雨降らせてくれなかったくせに!ちくしょう、返せ!私のトマト、晩御飯を!


「しっかし、まぁこんな炎天下の日が続くと困っちまうねー。せっかく育てた食物も枯れちまうよ」


 大家さんが目に入った汗をタオルで拭きながら呟く。

 確かに近頃の日本の天気はおかしい。昔は三十度を超えれば、灼熱だ、熱帯だと騒いでいたような気がしたのに。今じゃもう三十度を超えるのは当たり前、四十度近く気温がいかないと地域で騒ぎ立てることもない。これが便利になった世の中の代償か。ネット民の私がとやかくジョブズや日立を責めることは出来ないけど。むしろ素晴らしい機械を有難うジョブズ。涼しい空間を有難う日立。

 そう言えばアイツ、頼まれて派遣されて来たって言ってたな……。結局何をしてる人なんだろう。

 会社員……は絶対にあり得ないし。じゃあホントに格闘の修行に来た人……もそれこそマンガかよって笑ってしまうし。

 あのハンズにでも売ってそうな、マジックアイテム、番傘が関係しているんだろうか。

 自称最強の雨男か……。私も変な人を拾ってくる羽目になってしまったもんだ。





 ホント、変な奴。変な奴って言うか厄介な奴を拾ってきてしまった。誰か貰い手は見つかるだろうか。いや見つかる訳もない。反語。

 家にくたくたになって帰ってくれば、楽しそうな鼻歌が風呂場から聞こえてイラッとくるし。


「何のうのうと楽しく風呂場ライフ送ってくれちゃってんの」


「よっ。早夏。遅かったな」


「遅かったな、じゃない!アンタが結局雨降らしてくれなかったから、汗水たらして働くことになったの

よ!」


「ほお、汗水たらして働くことは良いことだ。昔から人というものは苦労をして、自ら生計を立て、そうやって必死に生きていたんだからな。最近の輩は楽をしすぎている」


 はっはっはと朗らかに笑われ。話の合わないおじいちゃんと会話している気分だ。


「あぁ、そんな事より早夏よ。俺は腹が減った。どうせ今日の仕事の褒美として野菜をたくさんもらっているのだろう?今夜は野菜炒めが食べたい気分だな」


「はいはい。今作ってきますよ」


 今日貰ってきた新鮮な野菜を切り、フライパンにさっと油をしいて炒める。ご飯は昨日炊いたものをレンジでチンして。天の「おい、まだかー」の催促の声を背中で受け止めながら、いそいそとお皿に盛り付け。出来合いのお味噌汁を二つ作り。テーブルを風呂場に移動して、料理とお箸、それと二杯の麦茶を持ってくれば全て完成。ってあれ、家の主は私のはずなのに、翻弄されているのは気が付けば私の方?!


「何で私がアンタのために夕食を作らにゃならんのだ!」


「何を言う。空腹なものには飯を食わせろ。だろうが」


「いや、そもそも私はアンタが道端で倒れてた時、掴んだ手を放してくれなかったから渋々連れて来たんだ!もうそんなピンピンしてんだから、大丈夫だろ、さっさと出て行ってくれ!」


「ふむ。とは言ってもそういう訳にもいかないのだよ」


「は。何でよ」


 えっ、まさか勝手に合鍵を作られたとか。追い出せば私が不利になるような、弱みを握られたとか!?

でもギャンブルとか借金はしていないし、これでも至極まっとうに生きてきたつもりだ。まぁ誰かに秘密にしておいてほしい事といえば、この前つい魔がさして、初めてRのつくBLマンガを買ってしまったことだろうか……。


「実はな」


 いつも以上に真剣な口調に、心臓がひやりとする。

 別に十八はゆうに超えているし、罪にはならないけど。この整った顔の美青年にRのついたBLを見たことがバレてしまったら。なんだかとても恥ずかしくて、もう二度と立ち直れない気がする!お願いだから、バレていませんように……。

 ドキドキ、ドキドキ。心臓が緊張で高鳴る。

 すっと形の良い、薄い唇から発せられた言葉は……。


「実は届き物が来るんだが、届け先の住所をここにしてしまったんだ」


「……は?」


 届け物。宛先住所。……そんだけ?


「そんなものの連絡して、宛先を変えてもらえばいいじゃない!」


「嫌だ。面倒くさい~。あと数日だけなのだから、ちょっとくらい居させろ!」


 そんだけ、ただそれだけのために、私はこんなに焦らされて、脂汗をかかされたの。汗水たらすのはいいけど、脂汗たれ流しなんて、心臓がもたないから勘弁してよ……。もう余計な心配かけさせやがって!落胆通り越してだんだん腹が立ってきた。


「食費が二倍になる。プラスお風呂がまともに使えないこっちの身にもなってくれませんかね……」


「じゃあ一緒に入ればいいじゃないか。お前のような貧相な娘に欲情することもないから安心しろ」


「貧相な」と向けられた指は、明らかに私の胸部を指していて。こいつ、いつの間に私のサイズを、いやそんなことよりも。


「どこ見てんだ、このスケベ!!」


 その他諸々から募った怒りが爆発しそうだったので、思い切りアッパーパンチをくらわせてやった。

素人に思い切りやると脳が揺れて体動かなくなるらしいけど、後悔はしてない。

 スッキリした。あっ、でも良い子の皆さんも悪い子の皆さんも絶対に真似をしないようにね。






 勝手に我が家を宛先に書かれ、届け物が来るまで居候をすると言い出されてからはや三日。相変わらず生意気で高飛車、人を顎で使う態度は変わらないし。番傘から降る雨は止む気配もないし。数日間もあんなずぶ濡れで大丈夫なのかな。風邪ひかない?

 変人。変な奴だけど、あのへんてこな傘さへなければ、ただ態度のデカいイケメンなのに。


「ねぇ、天。アンタここに派遣されて来たんでしょ?働く気はないの?」


「あるぞー。でもな。さすがの俺でも支払いが先にないと働く気にならないんだよ」


 天の白い手の中にすっぽりと納まった黄色いアヒルがつぶされて「ぷーぴー」と鳴いた。このアヒルは二日前に私が買ってあげたものだ。風呂場に毎日一人でいるのも暇だろうと思った私の気づかい。本当は 私が彼を気づかう必要は全くないのだけれど。


「給料なんて大抵後払いよ。アンタが贅沢言ってるだけじゃないの?」


「そんなことないぞ。俺はこの方法で何年間もやってきたからな。なー?ぷーちゃん」


「ぷーぴー」とアヒルが答える。


 このイケメンは、小さなアヒルに『ぷーちゃん』と名前を付けて可愛がっている。

 どれだけ天はこのアヒルを気に入ったんだか。あの美麗な顔から「ぷーちゃん」なんて間抜けな言葉が出てくるのが面白くて、さっきからつい笑ってしまいそうになってしまって堪えるのが大変だ。


「アンタ、本当はニートだったりしないよね」


「失礼な!俺がそんな奴に見えるというのか!?」


「見える」


 天は目を丸くさせ自分の姿をまじまじと見つめると、その返事も頷けるとでも思ったのか、恥ずかしそうに目元を赤く染めた。


「兎に角。俺はきちんとした理由があってここに来ているのだ。むろん、ちゃんと荷物が届けば俺はここから去ってやるぞ」


「そうですか。その日が待ち遠しいなぁー」


「……本当か?貴様は本当にそう思っているのか……早夏」


 ふといたずら心が芽生えたのか、いきなり私の顎を引っ張る。

 俗にいう顎クイとやらをするのを止めてはくださいませんかね!そして狙ったように私の名前を囁くのを止めてくれませんかね、不本意にも胸が高鳴ってしまうから。


「……くぅっ」


 悔しい。悔しい。悔しい!さんざん人の事を美人でもない平凡な顔だ、貧相な体だと馬鹿にされた挙句、顎で良いように使われて、散々な扱いを受けた相手にときめいてしまうなんて。

 これもそれもどれも全部!コイツがイケメンなのが悪いんだ。漆黒の髪は指通りが良さそうで、ゆるく吊り上がった漆黒の瞳と微笑む薄く形の良い唇の艶めかしさよ。なんて完璧なお顔。自分がどうしてこんな顔に生まれてこなかったのか本気で悩むくらい。これがDNAの違いか。


「どうだ……。これでもまださっさと出ていってほしいと思えるか?」


 挑戦的に細められる瞳。

 分かってる。こいつはおちょくっているだけなんだ。いつも口では出ていけ、スケベ、ニートなど罵倒している私だけど、結局イケメンに弱いただの女子に変わりなく。こうすれば黙り込んでしまうのを知っていて、奴はからかっている。態度だけでなく性根まで腐った変人め。

 だから絶対バレてたまるもんか。最近の私の検索履歴がほとんど『黒髪 イケメン』で固定されていることを。


「……帰ってほしいですよ」


「……そうか」


 危ない、危ない。あと少しで下僕でもいいのでお傍に居させてくださいって言うところだった。恐るべしイケメンパワー。そして名だたる乙女ゲームに毒された私の脳。

「ただしイケメンに限る」の言葉の恐ろしさが身をもって分かった。


「はぁ……それじゃあ、そろそろ行ってくるから」


 蒸し暑い炎天下の中に出ていくのはいつだって気が引けるけど、気を惑わせるイケメンがいる風呂場にいるよりずっと気が楽だ。


「なんだ。今日も畑の草むしりか?」


 ケラケラとぷーちゃんと戯れながら訊ねる天。

 いや、草むしりだけだったらどれだけ楽かと考えているんだから。現状がどれだけ悪いものになってしまったのか、改めて思い知らされるよね。


「それどころじゃないんだよ……」


「ほう。と、言うと?」


「……それがね、最近この辺りじゃカンカン照りが続いていてさ。畑の水も干上がってしまったの、そのお

かげで食物たちもどんどん枯れていってしまって……。このままじゃあせっかく育てた労力と金が無駄にな

るってご近所さん達が嘆いていて」


「で、どうするんだ?」


「最後の手段。神様に雨ごいしに行くんだって。こんな時代に神様頼みなんて馬鹿馬鹿しいって思うんだけど。お願いだからって泣いて頼まれたら断るに断れなくて……」


「なんだ。貴様も意外と優しいところがあるじゃないか」


「あのね。今まで私がアンタにしてあげた行為をなんだと思ってるの」


「はっはっは。冗談だよ。そんなに大変なことならさっさと行ってこい。ほら、行った、行った」


「え……う。うん」


 変なの。いや天に限って変なのは今に始まったことじゃないけど。なんだか早急に出ていってほしそうなあの態度。何か、隠してる?

 ……じゃなくて、ここは私の家だから本来なら出ていって欲しいって言えるのは私のはずだったのに。なんでこうなっちゃったかな。トホホ……。



 私がいなくなった風呂場には「ぷーぴーぷーぴー」とぷーちゃんの鳴き声が響いている。


「……そろそろ俺の出番かな」


 風呂場に寝そべる彼は、意味ありげにそう呟いた。





 ピーンポーン。ピンポンピンポンピーンポーン。

 まだ朝方だっていうのにしつこい人だな。タチの悪いセールスマンか。ツボを売られそうになったら速攻でこのドア閉めてやる。


「はいはいはいはい。何でしょーか」


「すみませーん。宅配便でーす」


 なんだ、宅配便か。あれ、でも私最近何かを頼んだりしたかな。じゃあ目の前のこの人宅配便を偽った強盗犯……には見えないし。そもそもこんな田舎の可愛くもない女子大生を襲うメリットがないし。分かった。天のか、天が言っていたお届け物がようやく届いんたんだ。


「…………あの、この住所って、ここで合ってますよね?」


「はい。間違いないですけど」


 あの、なんでそんなポカンとした顔をしているんですか。信じられないと言いたげなその瞳はどういうことですか。そんなに住所から連想したイメージと、この家とのギャップでもありましたか、こんなオンボロな家な訳が無いとでも?


「……あの」


「あっ。すみません!人間の女の子が出てくるなんて思ってもいなくて、少し驚いてしまいました」


「……はぁ」


 そんなに珍しいかな。都会に出れば、うんといると思うのだけど、一人暮らしの女性は。女性が働いてはいけない男尊女卑の時代でもあるまいし。それともわざわざ田舎で一人で暮らす若い女性が珍しいと、そういう意味かなら頷ける。現にこの辺りに住む二十歳前の女性は私ただ一人だし。私も行きたい大学に近くなければ、ここにはすみませんよ。

 でも不思議なのは配達員さんも同じ。私、全身真っ黒の制服を来た配達員なんて見たことないよ。

 それにポロシャツに作業着ズボンのお馴染みのスタイルでもなく。少し軍服のようなデザインで…………正直言ってとても萌える。


「はい。ここにサインして。じゃあ僕はこれで。天さーん!お望みの物はちゃんと届けたんですから、しっかり仕事して下さいね!」


「はーい。分かってるよー!!」


「……まったくあの人は。仕事もそんなにないくせに、先に給料が出なくちゃ全く動かないんだから……。アンタに付き従ってる俺の事もちゃんと考えてくださいよー!」


「考えてるよー!」


 玄関先からの声に、きちんと風呂場から返答出来るなんて、すごい地獄耳。それとも全体的な部屋の狭さが原因か。憎むぜ、貧乏。ってそんなことよりも。


「あのっ!せめて写真だけでも撮らせて…………あれ。いない」


 目の前のあるのはこの大量の段ボールの山、山、山だけで。さっきの黒づくめの青年の姿は跡形もなかった。。

 おかしいな、天の声に振り返ってから十秒も経っていないと思ってたんだけど。そんなに急いで帰りたいほど、このオンボロアパートが嫌だったのだろうか。

 私がモテないのはどう考えたってこのアパートが悪い。

 憎むぜ、貧乏。PART2。。


「どうした早夏」


「あれ、天出てきても大丈夫なの?」


「大丈夫もなにも、先に風呂場に詰めこんだのは貴様だろう」


 呆れ気味に言う天の右手には閉じた番傘。天の背後が赤に染まっていないなんて、なんだかちょっと物足りない。


「あれ。番傘閉じてるじゃん」


「あぁ。まぁもう開いている意味がないからな」


「じゃあ初めから、そんなびしょ濡れになることなかったんじゃ」


 私は天の肩のあたりを指差した。ほらーこんなにびしょびしょにしてーと子どもを叱るようにしてやりたかったのに、どうゆうことか天の肩、肩あたりだけではなく着ている服も黒い髪も、濡れた形跡が全くなかった。


「仕方がないだろう。俺にだって力を溜める準備運動は必要だ。ところで、ちゃんと荷物は届いているんだろうなー?」


「届くもなにも。ねぇ、天!!この大量の荷物何!?」


 いやいや、「え?」じゃないですよ。きょとんとしないで下さい。このとなりの玄関まで埋もれる程大量のダンボール箱を見て、なんでそんなに平然と出来るのか。


「しっかし、まぁ。あの人もこの量をよく一人で運んで来たなぁ」


「アイツらはそれが仕事だしな。日常茶飯事なんだよ。……おぉーこりゃ美味そうだ」


 一箱一箱を丁寧に開きながら、目をキラキラと輝かせる天。

 どれどれ、どんなものが入ってるのかと私もダンボールの中を覗いてみる。そこには美味しそうなピーマンやナス、それと天の大好物のトマトやとうもろこし。他の箱にはペットボトルに入った水やお酒、あとは大量の五円玉がどっさりと入っていた。

 天はこんなにたくさん物が送られてきたのに、迷うことなくトマトを手に取って、まるで恋する乙女のようにうっとりとしている。と言うかあのトマト、どこかで見た覚えがあるような?いや、きっと気のせいだな。トマトの形なんていちいち記憶している訳ないし。


「今回の給料にはトマトが多いな。きっと俺の好みを分かっている奴が収めたに違いない」


「給料?届け物が来ないとか、支払いがないと働かないとか言っていたから、まさかとは思ってたけど。マジでこれが給料なの!?」


 本当に大きな金額のお金は受け取らないんだ。確かにお金がなくてもこの食費の数なら飢えて死ぬことはないだろうけど。

 天の白い掌の上で、赤いトマトは楽しげに跳ねる。ぽーんぽーんと跳ねて、トマトに貼ってあった、可愛らしいトマトのキャラが描かれたラベルがちらりと見えた。

 あの絵……最近どこかで見たような気が。あれ、もしかして。


「もしかして、そのトマト私が昨日神社に奉納したやつじゃ……」


 天は何も答えない。ニヤリと意地悪い顔をしてがぶりと思い切りトマトに齧り付く。


「ふむ。なかなかに美味しいトマトではないか。良かろう、対価もきちんと受け取ったことだしな。ちゃんと働いてやるとするか」


 天の漆黒の瞳がゆっくりと閉じられた。まるで壊れ物でも触るかのように、繊細に番傘をなぞる白い指先。


 この光景。少し前に見たことがある。明日草むしりに行くのが嫌すぎて、私の晩御飯を犠牲にして雨を降らせてくれとお願いをしたあの日だ。

 でもあの時に見せてくれたものよりも、今、目の前に佇んでいる天の姿の方がよっぽど美しい。ジャージにTシャツのへんてこりんな姿をしていることも、忘れてしまうほど美しい。

 赤い花が開花するように、ぼっと大きく開かれる番傘に目が奪われる。

 それはまるで舞のように。

まるで指の先まで柔らかい針金が通っているのはと疑いたくなるほど、しなやかに滑らかに踊る白い指先。

 伏せ目を縁取るまつ毛は黒く長く、優美さを醸し出していて。

 足音一つ立てない足先は、ゆっくりとした動作でくるりと回る。

 不意に天と目があった。吸い込まれてしまいそうなほど、透き通っていて綺麗な黒目に思わずドキリと胸が高鳴った。

 ニヤリと天は笑う。

 その瞬間。どおおおおおおおおおおおんと耳をつんざく、大きな雷の音が部屋に響き渡った。私は一体何事かとパニックになって、大急ぎで窓を開いて外を覗き見ると。


「……雨だ」


 嘘でしょ。さっきまで雲一つない快晴の空だったのに。ざあああああああと勢いよく降る雨粒が、私の頬にあたって冷くて。

 現実だ、嘘みたいだけど現実だ。あれだけ降らなかった雨が、突然降りだした。

 外では突然の雨にびしょ濡れになったどこかのおばあちゃんが、風邪をひくかもしれないのに、嬉しそうな顔をして「恵みの雨じゃ……」と呟いている。

 恵みの雨?……まさか。


「知っているか早夏よ。『天』という漢字は、『あめ』とも読むことが出来るのだ。そしてまた高天原、天つ神のいる天上の世界。つまりは『神』という意味もある」

 

 天はいつの間にか段ボールに詰めこまれていたたくさんの食料や五円玉を、つぎはぎだらけの大きなリュクサックに詰めこみ終えていて。重そうなリュックを軽々しく背負うと、その整った顔をこちらに向けた。


「……貴方、もしかして……」


「さぁな。貴様が何を考えているか、俺には分らんが。俺は仕事し終えた。この町とももうおさらばだ。……世話になったな、小娘」

 

 そう言って、いくら追い出そうとしても重い腰を上げようとはしなかったイケメンは、あっさりと私の部屋から姿を消した。

 もしかしたら、彼は……。いや、止めておこう。いくら私が考えたところで、答えはもう永遠に消えてしまったのだから。


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